2008年6月28日 (土)

裏方ってそんなにイヤ?

 前日のNHK朝ドラ「ちりとてちん」にまつわる余談を一つ。

 高校時代に三味線が上手に弾けなくて、学園祭では、舞台で三味線が弾けず、調光係にまわったことを、主人公の女の子は長い間くよくよする(最後は裏方も重要と悟って人間的な成長をみせるのだが)。
 私は芝居の裏方をしていたのでよくわかるのだが、手動の調光卓で、「ちりとてちん」で放送していたように、光を当てるのは、素人ではまず出来ない。フェーダー一つ上げるにせよ、ライトの特性をつかんで、最初は早く上げて、最後はゆっくり動かすようにしないと、自然なツキにならない。
 放送されたような、きっかけにきちんとあったフェーダーの上げ下げ、なめらかなクロスフェードなどは当然プロがやっていたのだろうが、もし本当に主役の女の子が高校の文化祭でできたすれば、私がその部活の顧問なら、立ち上がって拍手しただろう。
 主人公の女の子の調光卓操作が、表舞台に立てなかった主人公の人生の汚点として、うじうじとした回想として、出てくるたびに、私は見事な卓操作を見て、不思議な気持ちになった。

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2007年4月27日 (金)

側面から観る芝居

 かつて凸型の舞台を作ったことがある。正しく言えば、その公演では私は制作で、制作側の要請として、舞台監督に作ってもらった。舞台が客席に張り出しているのは、シェイクスピアのグローブ座など、いくつか例がある。私の舞台は、張り出しというより、本舞台の両側を削って、高台の客席を設けたのだった。

 その公演は、私の集客努力が足りなかったこともあってか、観客が少なく、本舞台わきの客席を使ったのは一日だけだった。
 役者はみなみな演じにくかったと、ボヤいた。
 青山円形劇場のように、円形劇場もある。円形劇場での芝居はそれなりに観ていた。正面以外に観客を入れても、ちゃんとお芝居として成立するのだから、なんとかなると思っていたが、そう甘いものではなかった。

 さて、側面から本舞台を見るお芝居といえば、能がすぐに思い浮かぶ。正面席のほかに、中正面、脇正面の席がある。
 これが、ちゃんとお金がとれる席なのだろうかと、疑問があったが、ここ一年ほど、能楽堂でお能拝見の機会が増えて、氷解した。

 まず、地謡が側面を向く。これを見るだけで飽きない。
 役者も、側面を向くことが多い。能の演技もまわる動作が主で、とくに舞は旋回運動なので、側面からみても、損をした感じはしない。
 ワキは斜め後ろ向きに座るので、正面より側面からがよく見える。ワキツレは中正面に正対する。
 脇だと、橋がかりを通る能役者が近くから見える。これは楽しみだろう。
 能舞台が凸ではないのもよくわかる。正面より上手の席を作っても、地謡に隠れて、よく見えない。

 能をよく観ていれば、いろいろと工夫ができたはずだが、なんとなく凸舞台にしたのは失敗だった。いまさらながら、反省する。

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2007年2月27日 (火)

歌舞伎のたて

 日ごろ、他人の映画評・劇評は読まない。ひとつは、他人がある芝居をみてどう思うかなど、どうでもいいから(他人が食べたものの味がいちいち気になりますか)。二つめは、自分の意見と合致することがないから(違う意見を見るのが楽しみという人もいるが)。

 が、二月の歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言はゆえあって、ネットを巡って、劇評をいくつか読んだ。

 十一段目にひややかな人が多くて驚いた。渡辺保にいたっては、チャンバラ扱いである(http://homepage1.nifty.com/tamotu/review/2007.2-1.htm)。

 歌舞伎のたての場面が、評価されないのは文学性と無縁だからと、どこかで郡司正勝が書いていたのを読んだが(郡司正勝・坂東八重之助編『歌舞伎のタテ』だと思っていたが、見つからない)、そうなのだろう。
 七段目で十分なカタルシスを得られるはずで、安っぽい仇討劇で復讐が達成されるところまで見なくては満足できないのでは、人間として低く見られるということか。

 歌舞伎のたては様式がきちんとあり(詳しくは先述の『歌舞伎のタテ』をどうぞ)、美しい。見ればだれでもわかるので、軽く扱われているのかもしれないが、それだけにごまかしがきかない。中村勘三郎のニューヨーク公演では、最後に延々とたてがくりひろげられたが、勘三郎は芝居というものがわかっているなと思った(わぁ、偉そう)。

 私は歌舞伎のたてが大好きである。剣道をやっていたせいもある。「特権的な肉体」という言葉がこびりついた小劇場上がりというのもある。たてをくりひろげる役者の躍動感が好きなのだ。
 
 だが、歌舞伎のたてが好きなのは、歌舞伎が好きな人の中では少数派だろう。

 映画俳優ではジェット・リーが好きである。リー・リンチェイと名乗っていたころから好きだ。もちろん、これは映画通ぶった人には言わない。どう反応されるか、わかっているからである。

 だから、日ごろ、他人の映画評・劇評は読まない。おわかりか。

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2007年2月26日 (月)

拍手するな

 日本の伝統的な演劇には拍手をする必要がないと説いていたのは、服部幸雄だったか(何に書いてあったかなぁ。さいきんそんなのばかり)。能が引き合いに出されていたが、たしかに能は拍手のしどころがない。
 私も能ではまったく拍手しない。とはいえ、われわれは現代の観客なのだからと、歌舞伎でしないほど、私は依怙地ではない。
 先日、『仮名手本忠臣蔵』を通しで観劇したのだが、芝居の途中にやたらに拍手するお客がいて困った。感極まってかもしれないが、妨害に等しい。服部幸雄の気持ちがはじめてわかった。
 四段目の判官切腹や六段目の勘平腹切でも、今回拍手しなかった。切腹の場面である。拍手をしたくなる気持ちがどうして生まれるのかわからない。
 自然に拍手が出たのが、十一段目の小林平八郎と竹森喜多八とのたて。途中、兎跳びのような形で二人が刀を交える場面があるが、あれに似たことを剣道の稽古でやったことがある。かなりきつい。それまでのたての激しさを考えると賞賛ものである。

 ついでに書くと、やたら笑うのもやめてほしい。六段目には笑いの要素があるが、勘平を待受ける悲劇を考えると、私は全然笑えない。まあ、はじめて見る人もいるし、笑うのが素直なのかもしれない。だが、勘平が二人侍を出迎えようとする場面で、勘平の舅殺しを疑い、逃亡するのではと、おかやが勘平の腰にしがみつくところは、笑うところではない。隣の客がそうだったので記す。

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2007年2月24日 (土)

にくめない高師直

 『仮名手本忠臣蔵』の高師直は、大名の品格を失わずに演じる必要があるらしいが、実際に演じるのは大変だろう。そもそも塩冶判官の妻に懸想して、とった行動が付け文というのが、悪人のとる行動ではない。武力で塩冶判官を滅ぼし、力ずくで奪い取るのが正しい悪人である。
 顔世御前に断わられて、腹立ち紛れに塩冶判官にいやみをいい続けるのも、柄が小さい。岡惚れがばれて、ふてくされて文句をいう中学生かといいたくなる。
 こんな具合なので、せいぜい意地悪なじいさんであって、悪人とはいいがたい。
 むしろ、怒って斬りかかった塩冶判官も、小学生同士の喧嘩ではないのだから、もう少し我慢してやりすごせばよかった。なお、正しい対処方法は、山本博文『学校で習わない江戸時代』(新潮文庫、2007.1)に書いてある。
 そういうわけで、高師直を私は憎めない。刃傷の場以降、討ち入りの場面まで高師直が出てこないのは残念である。

 なお、二月の歌舞伎座で『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言を見た。高師直を演じた中村富十郎の色魔ぶりに期待したのだが、エロじじいよりもいやみなじいさんといった演技。終演後、着物のおばさん客が「富十郎さんといえば、どうしても(七十を過ぎて)お子さんを(ふたり)作ったことが、頭にあるでしょ。みているとそれでいっぱいになっちゃって」などと語っていたので、意識してエロは抑えたのかもしれない。

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2006年12月27日 (水)

助六が最強

 私が歌舞伎の本を広げていると、息子が興味をもった。いろいろと登場人物のことを聞かれたが、助六がお気に入りになった。鉢巻しめて、刀を差して助六の真似をしている。三尺(ちょっと)のわらべの心も、助六は動かすかと、市川のお家の芸に関心。
 
 なお、暫はビデオを持っているので、息子に見せた。NHK教育テレビ「にほんごであそぼう」にも、「怪傑しばらく」が出てくるので、大喜びしている。

 助六は、BSの放送をVHSに録っていたはずだがみつからず。私の持っているVHSの画質や録音レベルは悪いので、DVDを思い切って買うか検討中。

 それにしても、困るのが、助六と他の歌舞伎の登場人物を比べて(写真を指さしして)、助六のほうが強いかという質問。
 助六が髭の意休よりも強いことはわかるが、鎌倉権五郎景政よりも強いのか、平知盛より強いのか、熊谷直実より強いのか、矢の根の曽我五郎より強いのか(同じなんでしょうね。本当は)。これは専門家でも簡単には答えられないのでは。とりあえず、子どもの夢を壊さないように助六が最強だと答えている。

**ここのところ、片頭痛がひどいなど、体調が思わしくないので、年末年始はブログの更新を休んでゆっくりします**

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2006年12月19日 (火)

四谷怪談の仕掛け

 先日、某大型書店の演劇書の棚前にいると、大学生らしき男性とその親御さんらしき男性の二人づれがきた。どうやら、四谷怪談の提灯抜けなどの仕掛けが知りたいらしい。ここで、「お若い人、お困りのようですが……」と声を掛ければ、柳家喬太郎の「寿司屋水滸伝」だが、私はとても内気なので、少し横の棚で謡曲の本を手に取りながら、二人がそういった本が調べられるかどうか、ちらちら横目で見るだけにした。

 江戸時代の本だと三亭春馬『御狂言楽屋本説』に詳しい。国立劇場芸能調査室が、影印に服部幸雄の解説を加えて『歌舞伎の文献』シリーズの第二巻として、出版しているが、これは新刊書店では手に入らない。
 新刊本なら、釘町久磨次『歌舞伎大道具師』(青土社、1991.9)が実際に舞台で使用する立場で解説を加えている。
 また、服部幸雄編『歌舞伎をつくる』(青土社、1999.1)でも、八代目坂東三津五郎、藤浪与兵衛、長谷川勘兵衛、服部幸雄の座談で、四谷怪談の仕掛けが解説してある。

 さて、二人連れはどうなるかと、やきもきしたが、店員を呼ぶということで落着。入れ替わりに去ったので、店員が二人の質問に答えられたかどうか、私は知らない。
 

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2006年12月14日 (木)

子どもは見られる

 市民講座として、能の舞のお稽古があって、その発表会をみたことがある。
 演舞者は、下は小学生低学年から上は社会人まで幅広かった。
 で、思ったのは、子どもは見られる。
 子どもは下手でも面白いのである。
 大人がやると、あーあもういいよ、という気持ちになる。
 全国各地の地芝居で子どもが歌舞伎を演じるところがあるが、なぜ子どもがするのかよくわかった。
 

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2006年12月 9日 (土)

hhh

 舞台に上がる前に、掌に人を三つ書いて呑むとあがらない、というまじないは初代中村仲蔵がはじめたと記憶している。仲蔵はこの人三つの模様を自分の衣装につけていた(紋というわけでもなくあれはなんなのだろう)。人人人と並ぶのだが、見たところhhhに近い意匠である。

 噺家では、古今亭志ん朝が高座の前に、人の字を呑んでいるのが有名だった。先日も立川志らくが、志ん朝師匠は出番の前に佃煮でも食べているのかと思ったと述べていた(NHKだったので遠慮したが、本当は錦松梅でもといいたかったのだろう)。

 CD『落語秘宝館3』で柳家喬太郎が人の字を呑んでいると知って驚いた。あがりとは無縁の人だと思っていたからである。

 吸気に関係があるので、深呼吸と同じ効果があるのだろうか。科学的には、その効果はよくわからない。

 機会があったら、自分でもやってみようかと思うが、授業の前にやっているのも変だし、学会発表も当分予定がないので、その実験はまだまだ先である。
 あがりよけになるかどうかより、人にそれを見られたとしても気にせずやれる気持ちを作れるか、が問題である。

補記1:『DVDワザオギ落語会 Vol.1』に柳家喬太郎が人の字を呑んでいるところが写っています。手拭に扇子で、人と一字書いては呑み、一字書いては呑み、するんですね。

補記2:なんともみっともないことに、志ん朝師匠の亭号を、三遊亭と記していました。ご指摘をいただいたので訂正いたします。それと名前を「(オレの名前を手のひらに)三べん書いて飲めば(一生女郎に振られる気遣いがねぇ)」(うろおぼえ)というのなら、歌舞伎の「助六」にありますね。まじないとしては、ちゃんと調べればいろいろとルーツがわかりそうなところですが。(2008.01.25)

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2006年12月 1日 (金)

お芝居と携帯電話

 携帯電話が登場した時(登場したと言うより、やっとこさ手にはいるようになった92、93年ごろ)に、これからドラマはどうなるのだろうと、知り合いの演劇人同士で話題になった。

 「君の名は」式(古い!)のすれちがいドラマがなくなってしまう。AとBという人間がいつでも連絡がとれるという状況が、劇的な状況を解消させてしまう。おきまりの型のいくつかが使えなくなってしまうからである。

 その前に、ポケベルというものがあって、ドコモが相手とうまく会えなくて泣いている女の子のポケベルの宣伝(この説明じゃわからないね。このまま、きみだけを、奪い去りたい~という曲がかかっていた)をやっていた。関西の遊気舎がポケベルの暗号めいた番号のみの題名の芝居をやっていた(96年ごろか)。

 が、すぐに誰でもケータイの時代がやってきてしまった。
 劇団キャラメルボックスが携帯電話会社に協賛をうけて、劇中で携帯電話を使用し、「いやー携帯電話って便利だな」という台詞を入れたことについて、大人計画の松尾スズキが絶対にやらないと息巻いていたのを覚えている(『演劇ぶっく』でだったか)。たぶん96年頃である。

 その後、携帯電話会社はテレビドラマのスポンサーとなった。はっきりいって、携帯電話が使われないドラマはなくなったといってよい。話の筋と関係なく携帯電話が登場することも多い。落語のドラマ『タイガーアンドドラゴン』でも、西田敏行演じる師匠が、携帯電話を使い始める場面があった。

 『タイガーアンドドラゴン』には携帯電話がよく使われていて、まあそれはそれで、現代の生活の現状を反映しているのだから、だいたいの場面で違和感がない。が、どのドラマでも、スポンサーを意識して無理に電話を使っていると感じる場面もあって気になる。
 

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