2008年4月26日 (土)

名跡あれこれ

 ずいぶん昔、藤浦敦『三遊亭円朝の遺言』(新人物往来社、1996.7)で、六代目三遊亭円生が三遊亭円朝の名跡を継ぎたがっていたことを知り、とてつもない野心だと思った。
 しかし、円生について詳しくなればなるほど、円朝の名跡を継ぐなら円生しかいなかったのでは、と思うようになった。三遊亭円生ほどの咄家は不世出である。円生を育て上げた江戸・明治の名残のある時代環境が雲散霧消していることを考えると、円朝と円生の差は、今後あらわれてくるどんな咄家と円朝の差よりも小さいのではないか。
 
 ポッドキャスティングのお台場寄席に出た川柳川柳が三遊亭円丈について、「あいつは最近古典をやっている。円生の名跡を狙っているんだ」といって笑いをとっていた。
 川柳はもちろん冗談で言ったのだろうが、けっこう悪くないとじわじわ感じている。
 三遊亭円丈は新作落語の雄である。柳家金語楼いらいの落語芸術協会の咄家が得意とするような、古い落語の世界を今に移した新作落語ではなく、ドラマの世界を再現するかのようなまったく新しい落語を生み出した。
 円丈流の新作落語の薫陶をうけた、柳家喬太郎、春風亭昇太ら新作派の若手咄家たちは「円丈チルドレン」と自称している。
 八木忠栄『落語新時代』(新書館、2008.1)や雑誌『一個人』2008.5号でようやく円丈も評価されるようになったが、円丈の評価はこれからあがる一方でさがることはないはずである。
 円丈は、現代の新作落語のある系統に祖にあたり、その流れは時代が経つほどますます広がっていく。
 百年後に円丈が円朝ほどに評価されていることも充分ありうる。
 
 初代三遊亭円生は、三遊派の祖にあたり、現代につながる落語の最初期(寛政ごろ)からある由緒正しい名跡である。
 六代目(昭和の名人)の円生は(笑点の)円楽に継がせる気があったのだろうが落語協会からの脱退騒動を経て、円生と円楽は疎遠になってしまった。
 三遊亭円窓は、五代目円生(六代目の父)と六代目円生の前名である。よって、今の六代目円窓も円生を継ぐだけの資格があると、六代目円生は思っていたかもしれない。
 三遊亭円丈といえば、落語協会脱退騒動の暴露本『御乱心』を出し、その中で自分の心の中の円生は死んだと記したので、円生を継ぐことなどありえないだろう。
 それにしても、2008年でおおよそ、川柳77才、円楽75才、円窓68才、円丈64才である。円生の名も継がれることのないまま、弟子たちも相当歳をとってしまった観がある。
 無理は承知で、円丈が円生になったりしないかなと、夢想する。

 人間国宝の五代目柳家小さんを息子の三語楼がついで、六代目柳家小さんになったことについて、非難するひとはそれなりにいる。実力が重視される芸の世界で、血縁でなったことに対する嫌悪感があるのかもしれない。
 名跡というものは、あとの人がどんどん継げばいいと思う。たとえ、今の人がセコくても、先代はよかったと言われるだけで、価値がある。名跡そのものが忘れさられるよりはマシである。
 分不相応な襲名であっても、先代に近づこうと努力するきっかけとなり、結果として、先代に負けない名人になったという例は、歌舞伎を見るとよくある。
 名跡を継いだプレッシャーというものは、継いだ本人しか味わうことがない。芸を観る者は、プレッシャーによる精進の結果だけを楽しめるのだから、たいへん得といえよう。

追記(2008.6.27):円生の名跡は三遊亭鳳楽が継ぐことでおさまりそう。

私は名跡を次の人が継ぐことに積極的な態度です。堀井憲一郎『落語の国からのぞいてみれば』(講談社新書。2008.06)も同様な態度のようです。

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2007年10月17日 (水)

たい平のめざすところは

ことしもたい平のCD「たい平よくできました」を買った。今年で第四号である。
新作落語「SHIBAHAMA」と「船徳」が収められるが、聴いていて、あっと思った。
五代目春風亭柳好を意識しているのではないかと。
五代目春風亭柳好は「野ざらし」「がまの油」などを得意とした落語家だが、歌うようなリズミカルで抑揚のある語り口が特徴である。
今回の「たい平よくできました4」に限らず、最近テレビで聴いたたい平の落語も、似た感じの歌うような落語だった。
たい平は「芝浜ゆらゆら」というCDも出しているが、たい平の目指すところがはっきりわかる。

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2007年9月23日 (日)

朝青龍と花筏

 私がブログを休んでいる間に、朝青龍の巡業すっぽかし事件があって、大騒動になった。いろいろな識者が巡業は、土俵入りをするだけでもいいから出なくては駄目だと述べた。また、武蔵丸がインタビューに答えて、一年間土俵には登れなかったが、巡業には同行したという話をした。
 それを聞いて思い出したのは、落語「花筏」。
 巡業に横綱の花筏が行けないために、花筏にそっくりな提灯屋が、座っているだけでいいか らと、巡業に呼ばれる。ところが、相撲を取らねばならないことになり……、という咄。
 朝青龍は「花筏」を聴いたことがあっただろうかと、少し考えた。

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2007年5月29日 (火)

印象派でも

 昨日、飯島友治『落語聴上手』(筑摩書房、1991.11)のタイヤキの挿話を使って、飯島友治の落語評論を紹介した。
 今では、落語評論に関して、写実的な演技に偏執的な飯島友治へはシンパよりも、アンチの方が多いだろう。唐沢俊一などは、ことあるごとに飯島友治への悪口を書いている。
 私も飯島友治の落語評論にはほとんど共感しないのだが、それでも時代性というものをさっぴいて評価してやらねばならないと思う。
 戦後の文学界において、批評が実作をリードするという立場から、本多秋五・平野謙・佐々木基一・荒正人らの同人誌「近代文学」が生まれたように、批評が妙に偉い時代があったのである。飯島友治がいばっているのもそういう時代の人間だったからである。
 また、飯島が尊しとする写実的な演技は、そのころの演劇界がスタニスラフスキーシステムにもとづいた写実的な演技を尊しとしたことと、密接に結びついている。
 飯島友治の落語評論も、その時代らしい産物なのである。今の物差しからすれば、おかしいのは当然である。
 
 さきほど、飯島友治の落語評論にはほとんど共感しないと述べたが、裏を返せばわずかながら飯島友治には共感するところが実はある。
 「写実派」からのゆりもどしのせいか、今の落語界は「印象派」が優勢のようである。若い噺家はたいていそうだろう。そういった若い噺家の高座を見ていると、面白ければ演技なんてどうだっていいだろうと思っているのではないかと感じる。
 絵画の印象派だって、写実的な絵を描ける上での印象派なのである。
 1980年代のマンザイブームは、新劇で演劇の基礎を学んだ人たちが、マンザイに流れてきたからという意見もある。
 落語の面白さはストーリーやプロットだけではない。身振り声色、浮世物真似いらいの演技的な要素もある。もうちょっときちんと「演じ」てもいいんじゃないのと、ときおり思うが、これも古い資料の視聴のしすぎなのかもしれない。

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2007年5月28日 (月)

アンツルのタイヤキ、飯島友治のタイヤキ

 飯島友治『落語聴上手』(筑摩書房、1991.11)(よくもつけたりという書名)にある一節を紹介する。
 安藤鶴夫が桂三木助の『芝浜』を褒めたことについて、「安藤さんねえ、『芝浜』の褒め方はタイヤキのアンと同じだよ」と飯島は述べた(57頁)。
 以下がその下りである。

 安藤鶴夫が四ッ谷でタイヤキを食べて「この店のタイヤキはすばらしい、尻尾までアンが入っている」とカンドウスルオ〔記者仲間ではその感動ぶりに対してこう命名していた〕を発揮。尾までアンの入っているタイヤキのお披露目の元祖になってしまいましたが、評論家といわれる人の言としてはちょっと首をかしげた。
 「安藤さん、タイヤキは尻尾の部分にアンが入っちゃいけなんいだよ。あそこは口直しの部分なんだ。職人のおやつで腹っぷさぎに出されたもので、しっかりした家庭ではあんなものおやつには出しゃあしない。職人が汚れた手でそこをつまむ。アンが入っていないからそこが固くなっている。軟らかいところを食べているから最後の固いところで口を締めるんですよ。甘くなったアンをとり、口直しをする部分で、残りは捨てちまった。よしそこにアンが入ったところでなんグラム入る?二十粒かそこらのことでしょう」と話したら、「ハハァ」って言ってました。それ以後は、タイヤキの尻尾にはアンが入っているものとなってしまいましたが。

飯島友治は、安藤鶴夫をやりこめたと思って得意げだが、私は可笑しくてたまらなかった。飯島友治が生きていれば、「飯島さんねえ、あなたの落語評論はタイヤキのアンと同じだよ」と言ってやりたいぐらいである。
 タイヤキをどこぞの店がはじめたさいに、飯島友治が考えたような機能を尻尾にもたせるために、尻尾にアンを詰めなかったとはとても思えない。
 アンコを惜しんだのが自然であり、もっともな理由であろう。職人が尻尾をつまんで云々は、「江戸っ子は宵越しの金をもたない」のたぐいの、負け惜しみのこじつけとしか思えない。尻尾までアンが入っていないのを、かえって口直しになっていいやと開き直ったとしか思えない。
 飯島友治の落語評論を一言でいうと自然主義である。スタニスラフスキーシステムにもとづいた新劇のような、写実的な演技を尊しとする。

同著に落語での模範的な「食べる演技」が記されているが、

左手に椀を持ちます。指は椀を支える形を示し、重さも意識している。右手は箸〔扇子〕をもって構えます。吸い物では蓋があるからそれをとり、口元まで運んでちょっと留める。吸い物は昆布や鰹節でだしをとるので、蓋をとればそのにおいが漂う。口元でそっと留めることによって暗示します。(49頁)

と、万事この調子なのである。飯島友治は落語家を集めて、写実的な演技を指導したが、その飯島友治にまっこうから反発したのが立川談志である。談志の弟子の立川志らくが、『全身落語家』(新潮選書、2000.09。37・38頁)において「写実派」と「印象派」ということばを使って、写実的に演じればよい落語になるわけではないことを説明しているのが、要を得ている(談志自身も同じようなことはいっぱい書いているが、どれに書いてあったか、さっと出てこないので、志らくの文章を参照先にしておく)。

 今では、私自身も、写実的に演じることと、よい落語であることは必ずしも結びつかないと思う。
 理屈のないところに、無理な理屈をつけて、「正しい」ものをこしらえてしまうことが、飯島友治の欠点である。それをよく示すのが、先述のタイヤキの一話であるのに、本人がそれにまったく気がついていないのが可笑しいのである。

      **明日に続きます。**

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2007年5月19日 (土)

大仏餅の運命

 CD八代目桂文楽十八番集を図書館から借りて聴いた。CD七枚組みの大部のものである。第二巻に大仏餅が入っていた。録音時間は12分44秒である。

 私は落語をiPodで聴きながら寝るようにしている。15分で切れるタイマーも付けておく。だいたいの場合、三四分で寝てしまうが、ときには15分で寝られないこともある。

 録音時間が短いせいか、桂文楽の咄はどんどん展開していく。大仏餅を聴くのは初めてなので、うとうとながらも、寝らずに聴いていたが、突然目が覚めた。

 店のあるじに名前を聞かれた男が、「拙者の名は神谷幸右衛門」と答えたところである。文楽はすらすらと、咄を続けている。

 桂文楽が高座で絶句し、「申し訳ありません。勉強し直してまいります」と頭を下げて高座を降りたのは有名である。それが桂文楽の最後の高座になった。この「神谷幸右衛門」こそ、そのとき出てこなかった名前なのである。自分が聴いているのが、いわくの大仏餅だとはすっかり頭から飛んでいた。

 桂文楽の大仏餅はよどみがない。CDを聴いていると、とてもこれを絶句する日がくるとは思えない。CDは昭和37か38年ごろ、文楽が70か71歳のころの録音らしい。文楽の最後の高座は昭和46年8月、文楽が79歳のときである。そのとしの12月に没している。
 
 私が聴いている、完璧ともいえる鍛え抜かれた芸が、いつかほころびてしまうこと。そして、大仏餅の収録をしている桂文楽も、その運命にまったく気づいていないこと。それにぞっとしたのである。
 

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2006年12月 2日 (土)

それが落語や

 岡田斗司夫が落語のことで息巻いている。
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/20_954e.html

 落語の型やきまりごとについて、なまじ知識があるぶん、私はいろいろ気になるほうだが、それでも、話芸は自由でいいんじゃないのと思う。

 それは近世文学の研究者として、三笑亭可楽や朝寝房夢羅久といった落語勃興期(正確には中興期だが)の噺家が行った、素朴な話芸のありかたを知っているからでもある。延広真治『落語はいかにして形成されたか』(平凡社、1986.12)が、そういった人前で話したいという人びとが、いかに情熱をもって、人前まで話し続け(さいしょは不人気で三日で高座をたたんだこともある)、今にいたる落語を形作っていったかを詳細に描いている。

 関西には笑福亭笑瓶のようにほとんど落語をしない落語家もいる(笑瓶の所属プロは東京だが)。笑瓶について、笑福亭鶴瓶が落語はしたくないが、面白い話をしたいんですというやつが入門希望にきているけど、弟子にしていいものかと師匠の六代目笑福亭松鶴に相談したところ、「面白い話をする、それが落語や。鶴瓶とったりぃ」と松鶴は言ったらしい(なにに書いてあったかなぁ)。

 革新的なことをやろうとするので、見ている人の疳にさわるような作りもあるのだろうが、それは落語じゃないと、若い人たちが保守的な感想を残しているので、驚いた。
 むしろ、いつも寄席にきているじいさん連中のほうが、これもありさと、まったく気にしないのではないか。じいさん連中は感性が鈍磨しているのではなく、経験が豊富なので、何を見ても動じないはずである。
 
 人前で話をしたいという人がいて、それが面白ければいいんじゃないの。柳家小三治の長いマクラだって落語のうちである。岡田斗司夫がしているのは、高尚な芸ではないかもしれないが、話芸のうちとして、それもありだと言ってやればいいではないか。
 面白ければ続くし、そうでなければ、止まる。そのうちはっきりするだろう。芸の世界の見えざる手に任せておけばよい。

補記:さいきんの落語ブームにもかかわらず、延広真治『落語はいかにして形成されたか』(平凡社、1986.12)は絶版らしく、惜しい。きっと著者が増補して再版したいと思い、増刷をひかえているのだろう。そうでなければ、ちくま文庫とかが入れてくれないか。
部分的に
http://www.ojw.or.jp/edo/edorakugo/rakugowaikani.html
で読むことができる。

**岡田斗司夫にエールを送ろうとトラックバックを試みるが何度やっても駄目。嫌われている?それともシステムの問題?**

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2006年11月23日 (木)

極上の月夜、の落語

 先日(2006.11.6)、日本テレビ『極上の月夜』という番組で落語特集をしていた。100人の女子高校生に落語をきかせて、つまんないという評価があがれば退場というシステム。さすがに本職の落語家は出なかったが(怖いだろうよ)、博多大丸染丸、峰岸徹、デーモン小暮、ダチョウ倶楽部の上島、ラサール石井、森下千里(森高の誤植ではない)が落語(というより漫談を)やって、林家木久蔵師匠。

 退場をくらったのは小暮と上島。色物の説明をしていた小暮と三平ばりのダジャレを言っていた上島が認められなかった。女子高校生はせっかちだなぁと思うが、噺家に上手も下手もなかりけり行く先々の水に合わねば、の川柳も事実である。

 木久蔵師匠には判定システムはなし。よかったね。
 演目は、木久蔵師匠の師匠を語る「林家彦六伝」。もうひとつの得意ネタ「昭和歌謡史」より適切な選択。CDで聴いたことがあるが、内容はほぼ一緒。だが、あちこちの地方文化会館でやっているネタだけあって、洗練されていて面白い。マクラのちょっとした小咄でも間がうまくてうける。小ネタでも上島のように連呼すればいいものではない。
 判定システムがあっても、大丈夫だったんじゃないかなという出来。

 落語好きだと人に知られると、笑点のメンバーって上手なのとたいてい質問される。答えはみんな上手。
 桂歌丸さんは、芝居噺をよくやるけど、あんまり声色がうまくなくて、人情噺もよくやるけどお歳だから、女性の演じ方に艶がないのはたしか。でも上手。という答え方をよくする。
 それは基本的な技術がかなり高い上で、その短所を述べたまでであって、高座を聴いて楽しめないという意味ではない。

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2006年11月 6日 (月)

小さんは天才である?

 SP音源ではさすがに円朝のものはないが、漱石の『三四郎』の中で天才と評された三代目柳家小さんのものはある。『昭和戦前面白落語集』東京篇には「うどんや」がある。そのほか「粗忽長屋」を別のCDで聴いたことがある。
 どちらも録音状態も悪く、早口でよくわからない。これを聴いて天才を感じろ、というのは無理である。
 三遊亭円生が、こういった古い音源について、私が聴けばああ誰々の落語だと悪い録音でもその特徴がわかるが、普通の人が聴いてもわからないだろうといった内容を述べていた(『圓生の録音室』だったか)。
 ある落語評論家がその三代目柳家小さんのSP盤の感想として、さすが天才と呼ばれた小さんだと書いていた。
 先入観とは恐ろしい。それとも、その落語評論家が聴いた録音は私とは違うのか。

補記:ちなみにいまは六代目。人間国宝だった五代目の長男。

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2006年11月 5日 (日)

SP盤の落語

 『昭和戦前面白落語集』東京篇、上方篇(エニー、2006.9)を購入した。SP盤の貴重な音源を収録している。東京篇が16枚組に解説付で税抜き24000円。上方篇が8枚組におなじく解説付で12000円。資料の珍しさからすれば、まったくもって安い。
 詳細は次のHPでわかる。
 http://www.onsei.co.jp/rakugo/sp/index.htm
 CDショップに見本の箱が置いてあったので、予約注文したのだが、箱には値段が書いていなかった。にもかかわらず、値段を聞きもせず注文したのは、なにがなんでも欲しかったからである。
 入荷の後、予約票を渡すと、店員が原簿を確認したのだが、そこに「7万」とか書いてあって、それが値段かとさすがに心配になったが、どうやら関係のない数字らしく助かった。
 SP盤が音源になっているものを聴くのははじめてではないが、こうしてまとめて聴くとSP盤の特徴がわかる。
 SP盤は約六分しかないので、早口で吹き込まれたものが少なくない。
 噺そのものをくって(省略して)いるものもあるが、早口でしのごうとしたものが大半だ。
 ぼんやりと落語を聴くのは楽しいが、SP盤だと油断していると噺がわからなくなってしまう。
 そういうわけで、なかなか聴き進められない。

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