2006年12月26日 (火)

一目上がり

 落語に「一目上がり(ひとめあがり)」という噺がある。

八公が掛け物のほめ方を習うが、
「立派な賛ですね」。「いやこれは詩だ」。
次は「一休禅師の悟(ご)だ」と言われ、「三だってば四、四だってば五、ははあこれは一目上がりだな」と、
今度は「こりゃ六だな」とやると、「馬鹿、七福神だ」(さらに句まで続ける場合もある)。

他愛もない噺だが、割と知られているのではないか。

 さて、無学な八公でも数字が一つ増えれば、次が何の数字になるかはわかる。

 私には三歳七ヶ月の男の子がいるが、これが一から十までは言えても、七の次がなにかがすんなりとでてこない。八という数字は知っているにもかかわらず、七の次が出てこないのは、聞いている方として面白い。これは、特定の数にかぎらず、どの数でもいえる。
 うちの子どもは賢くないので、同年の子どもで、すらすらと言える子もいるだろう。だが、発達教育学が明らかにしていることだが、小さい子どもは数字が一つずつ加算されて増えていく、一目上がりの概念が、早い時期にはわからないのである。
 
 また、数字に関して子どもが面白いのは、二桁の概念がよくわかっていないところである。ゼロの概念も位取りの意味もわからなければ、二桁の数字をうまく処理することはできない。
 息子が、なにか大きな数を表すさいにつかう数字は十である。うーんと早いスポーツカーも十キロ。箱一杯のみかんも十個。とにかく、大量であることをすべて十で表現する。

 あたりまえのように理解している数字の概念も、子どもは十分に理解していないことが多く、ふとしたことで数字の世界の奥深さに気づかせられることが多い。

 とはいえ、息子はだんだん賢くなっているようで、楽しい観察も長く続かないのが残念である。

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2006年10月21日 (土)

あまりもの係

 子どもたちを連れて、同世代の子どもがいるHさん一家と食事したときである、食事の終わりかけに「あら、Yさんの家ではお父さんが余りもの係なのね」と言われた。
 余りもの係とは、食事の際に余ったものを最後に平らげる人のことらしい。
 Hさんとは一年ぶりにお会いして、会うなり太ったわねと言われた。
 Hさんがいうには、余りもの係は太るらしい。
 残せばいいのだが、なんとなく食べてしまう。

 ここ一年ほど、めっきり外で飲まなくなって、ひと月に一度ぐらいの割合になった。
 先日、居酒屋で旧友たちと飲んだときに、あることに気がついた。
 肴が少々残ったまま放置されていると、自分の皿にとりわけて、肴の入った皿を店員にさげてもらうのが、習性になっている。
 それだけでなく、私が食べるペースが早い。

 年を追うごとにズボンのベルトがきつくなってくる。なんとかしないとね。
 

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2006年10月15日 (日)

リレー競走の作戦

 小学校六年生の担任だったK先生(女性)は、運動会のクラス対抗リレーで作戦を立てた。今となってみれば、教員向けの雑誌に書いてありそうな作戦なのだが、聞いた時には斬新に思えた。

 クラスには、たいていひとりかふたり足の遅い子がいる。だいたい、足の遅い子が、文字通り足を引っ張って、リレーの結果を決めてしまうことが多い。
 試験のクラス別平均点が、優等生の点よりも、劣等生の点に左右されやすいのと似ている。
 当然、足の遅い子は責任を感じるわけで、運動会がつまらない要素のひとつになる。

 K先生が立てた作戦は、足の遅い児童と足の速い児童を組み合わせることだった。
 リレーにはバトンタッチゾーンがある。普通なら、一人トラック半周のうけもちである。児童Aはバトンタッチの際にバトンタッチゾーンめいっぱいのところで児童Bにバトンを渡す。児童Bは半周きっかりのところで児童Cにバトンを渡す。
 児童Aは「半周 プラス バトンタッチゾーン」を走り、児童Bは「半周 マイナス バトンタッチゾーン」を走ることになる。
 児童Aが足の速い子になるようにし、児童Bが足の遅い子になるように順番を決める。
 
 当日の運動会の結果だが、K先生の作戦があたって、うちのクラスが圧勝した。
 なにごとも、作戦なのだと痛感した。

 昨日、息子の幼稚園の運動会だった。このことを思い出したので、しるしておく。

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2006年9月 7日 (木)

帝王切開という名称

 帝王切開とは名付け方がよい。
 母体がなんらかの事故で死亡した際に、まだ生きている胎児をとりだすのに、慣習的に行われたとか、暗ーい話だけだったら、おなかを切るのだけはやめてください、という人も少なくないだろう。
 ローマの大英雄カエサルが、母のおなかを切って生まれたので、帝王切開とは、誤伝らしく、さらにいうなら帝王切開じたいが、誤訳らしいが、「帝王」という豪華な修辞が、印象をよくしている。

 ちなみに語源について、詳しい考察をしているのは下記のページ。
http://home.att.ne.jp/wind/alchemist/dict/teiousekkai.html

 開腹出産とか切腹出産とか名前がついていたら、妊婦はだれでもしりごみするだろう。
 もし、『国家の品格』で有名な藤原正彦の家なら、「切腹出産」の必要があっても、うちは武士道を信奉しているので、「切腹出産」などもってのほかと言うに違いない。ちなみに、藤原家ではうなぎは背開きしか食べないという(また、勝手なことばっかり書いてしまった)。

 なにはともあれ、秋篠宮妃紀子様が無事出産なさったのはめでたい。昔だったら前置胎盤は、子どもは生まれたけれども、母親は出血多量で死亡の確率が高かったはずである。本来、出産とは母の命がけである。この世に生を受けたわれわれは、母に感謝しなければなるまい。
 

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2006年7月 8日 (土)

似ていない方が可愛い?

 自分の子どもの可愛らしいのは、半分だけ自分に似ていることである。クローン人間のように、まったく同じだったら、可愛らしさより気持ち悪さを感じるだろう。自分に似ているけれども、妻の要素が入って、変化があるところがよいのである。
 弟子はまったく師匠と同じように出来る。だが、三遊亭円生が弟子の好生があまりに自分に似ているためにかえって疎んじてしまったように、師匠に似すぎた弟子は師匠に好かれない。
 芭蕉の高弟其角は、芭蕉とまったく詠風が異なるにもかかわらず、終生目をかけられていた。その理由は、はっきりしないが、先のようなことが原因だと考えている。

補記:一歳一ヶ月の娘(仮に花子としておく)について、妻が「さいきん、花子も可愛くなってきたわね」と言っていた。今日、義姉からさくらんぼをいただいたので、お礼にさくらんぼを持っている娘と息子の携帯電話で写真を撮って送ったところ、花子は妻の小さいころにそっくりと返事をもらった。たしかに、さいきんは妻にも似てきたと私も思っていた。妻に問いだたすと、さいきん可愛くなってきた発言は、自分に似てきたことと無関係だそうだが。

補記二:ここ何日か、夜のあいだニフティのブログが非常に重たくて、更新できない状態でした。

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2006年3月21日 (火)

三月生まれの子

 二歳十ヶ月になる息子を週三回託児所に通わせるのに、送迎バスを利用している。息子は一歳児クラスに通っていて、順調にいけば、四月より二歳児クラスにあがり、その翌年の四月に、託児所の上にあたる幼稚園の年少組に入ることになる。
 バス停を利用しているのは、うち以外に幼稚園児が二組と、託児所の二歳児クラスの女の子が一人である。
 女の子は三月生まれで、やや小柄である。そのせいか、その子のお母さんはうちの子は三月生まれだからが口癖になっている。息子は五月生まれで、三月生まれのその子とは二ヶ月しか違わないこともあって、学年は下だが体格は息子の方がよい。さらに、親のひいき目だが、息子の方が利発に感じる。
 小さいうちは、生まれた月によって、差が大きいので、その子のお母さんの嘆きももっともである。だが、うちは三月生まれだからと口にすることが、女の子の発育をより阻害しているように感じる。
 息子はやんちゃなので、バス停で待っている間、公園の池に落ちたことがある(どこが利発かと)。また、気分屋なので、今日は行きたくないと稀に泣いたりすることがある(バスに乗ると平気だったりする)。
 息子が池に落ちたあたりは、池に落ちましたねとよく言われた。息子が今日は行きたくないと泣いた日の迎えは、妻が行ったのだが、妻は三月生まれの子のお母さんに、今朝泣いていましたよと、うれしそうに言われたらしい。気のせいかも知れないが、うちの子がよろしくないときには、そのお母さんはうれしそうなのである。
 私も妻も怒る以前に、気の毒だと感じている。
 私が八月、妻が四月生まれで、三月生まれの感覚はわからないが、大人になっても、三月生まれだから劣っているということはまずない。三月生まれの優秀な人を私はたくさん知っている。また、二十歳前後になれば、誕生日が早く来るのはむしろつまらないという意見が周りには多かった。
 気に病まないでと言ってやりたいが、気に病むことは、わかっていても頭から離れないから気に病むのであろう。「うちの子は三月生まれで……」が口癖でも、どう反応していいか困る。

補足:最初に掲載した文章のわかりにくいところをちょっと改めました。

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2006年2月17日 (金)

育児あれこれ

 企業が育児休暇をとりやすくすれば、育児休暇を取る男性が増えるかというと、そんなことはないと思う。ほとんどの男性にとって、育児よりも会社の仕事の方が楽だからである。
 家事や育児が女性の仕事と決めつけるのはジェンダーというものだろう。とはいえ、育児に関しては、ジェンダーだけではなく、生物学的な性差の影響がどこかに出てくる。一生懸命、子どもの世話をしても、子どもが愛するのはけっきょく父より母である。「父は永遠に悲壮である」のかもしれない。
 少子化対策として、出生金や出産費用の対策ばかり語られるのは不十分である。人が一人増えてまず困るのは、必要な面積が増えることである。『たけし君、ハイ!』の頃のように、大人になっても一部屋にみんなが布団を敷いて寝ている状態には戻れない。広い家に住まねばならぬとすれば、それだけでも物いりである。
 子どもを産み、育児に力を入れるのは、金持ちに育てて老後の面倒をみさせようとか算段があるわけではなく、自然の感情である。だが、子どもを作る方が、子どもを作らないのよりも損だとわかれば、誰だって二の足を踏む。
 おそらく、日本史上の我等が最良の時は1980年代であり、そのときに働いて、年金生活に入る人たちよりも、のちの人たちは貧しくなるはずである。うまれただけで割を食うことが決まっているのに、だれが子どもなぞつくりたがるものか。
 ベビーシッターはなぜ日本で流行らないのだろう。育児は母親の責任という見方が縛りとなっているのかもしれないが、育児の予行練習という面でもいいだろうし、夜間の一時的な託児では保育園・幼稚園に比べて融通がきくし、預けに行く手間もないので家庭教師並みに普及すれば便利だと思うのだが。責任問題とか資格の問題があるのか。二児の父なので当然なのかもしれないが、子どもも好きだし、扱いもそれなりに慣れているので、いまさらながらベビーシッターのアルバイトをすれば楽しいだろうと思う。

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2006年2月 3日 (金)

似ているのに

 私には息子(二歳八ヶ月)と娘(八ヶ月)がいる。名前は仮に「太郎」と「花子」にしておく。
 母が、あるとき「花子も太ってきて、可愛くなくなってきたわね」と言った。あとで妻に、母がこんなことを言っていたと告げると「親はともかく、客観的に見ればそうかもね」と妻は言った。
 私は花子が可愛らしいと信じて疑っておらず、花子のことを「プリハナ(プリティーな花子の略)」とよく呼んでいるぐらいなので、正直驚いた。
 妻に「そんなことないよ」と抗議したところ、「だって、あんたにそっくりじゃない」と言われて、ショックだった。
 兄妹だけあって太郎と花子は似ているのであるが、「じゃあ、太郎も可愛くないというわけ」と聞くと、「太郎は恰好好いよ」という返事がきた。花子が可愛いと信じていてくらいなので、私の判断はあやしいかもしれないが、たしかに太郎は恰好好いのである。これは友人も言っていたし、嘘ではないと思う。
 どうして太郎と花子が似ているのに、太郎は格好良くて、花子は可愛くないのか、問いただすと、妻の友人が「太郎はソース顔、花子は醤油顔」と言っていたのを引き合いに出された。確かに太郎は濃い顔である。
 そういえば、知り合いに三人姉妹の長女がいた(2005.12.26の記事に登場するのはこの人)。おかあさんも知っているがかなりの美人である。残念ながら、美人のお母さんにそっくりなのは末娘だけである。二女と知り合いは似ているのだが、二女は美人で、知り合いはそうでないのである。仲がよいこともあって、本人には、「妹、おまえに似ているのになぜ美人なの」とよく言っていた。
 人のことは言えなくなりました。いやあ、兄妹似ているのに、兄は格好良くて、妹はイケてないとは。別に妻が美人というわけではないが、私に似ていることで、娘に感謝されることはなさそうである。

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2006年2月 2日 (木)

トイレトレーニング

 私がものごころついた頃には、独りで用を足せていた。母は、なぜか早かったのよと言っているが、なにごとにも厳しい母のことだからどうせスパルタ式でそうせざるを得なくなっていたのだろう。
 現在、二歳八ヶ月の息子にトイレトレーニング(日本語で何というのだろうか。用便訓練か)をしている。私も最初はおまるをつかっていた。息子用におまるを買っているのだが、どうも具合が悪そうである。おまるそのものが小さいのである。
 私の子どもの頃は、白鳥のおまるを使っていた。子どもだったためにあらゆるものの印象が巨大なのかもしれないが、今売ってあるものよりもだいぶん大きかった気がする。便所は和式だったのだが(汲み取り式でけっこう怖かった)、和式にくっつけられるようにできていたのではないか。
 今のおまるは、上の座る部分だけをとりはずして、大人の洋式便座にはめこむようになっている。だから、下の部分(排泄物をうける部分)がついていたとしても、小さいのである。
 子どもはただでさえ用を足すのが大変なのに、寒い便所におもむき、踏み台を使って洋式便座によじのぼり、大人用便座に子ども用便座がくみあわさった不安定な便座にまたがるとすれば、大仕事である。おまるでさっとすませれば楽だと思うのだが、今のおまるは小さいせいか、きっちり座るのすら億劫そうである。はねるのが嫌なのか、全然座りたがらない。
 現在、息子は、小便をおまるではしないが、ベランダの排水溝に向ってはするといった状態になっている。男の子の場合、座ってするのよりも立ってする方が気持ちがよいのか、自然なのか、とにかく息子は立ちションをしたがる。洋式便器に向って立ってするには、踏み台を正面に用意してそれに乗る必要があり、また方向を十分に定める必要がある。
 いずれどうやってもできるようになるのだからと、甘く見られているのかもしれないが、洋式便座でのトイレトレーニングとそのための道具は、自然の摂理に反して、面倒なものになっている。

補足:二月末までに大小ともにトイレでできるようになりました。踏み台をつけるのと、支えてやるのとが必要ですが、かなりの進歩に親としては大満足です。

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2006年1月30日 (月)

死んで惜しい

 死んで惜しい人というのはそうそういない。もちろん、家族や友人、会社の同僚など個人的に見知っている人たちは悲しむだろう。だが、その死が人類全体の発展の損失であり、かけがえのないものである人は、史上でも稀である。
 ニュートンやアインシュタインは掛け値なしの天才だが、科学的な発見ならば、何十年何百年おくれはしてもいずれは誰かが発見しただろう。
 社会のいちにんが欠けたとしても、巨視的にみれば、だれかがそれを補えるのであり、だからこそ人間はこんなに多いのである。
 もちろん、これは現在の人間が不要なまでに多いというわけではない。江戸時代と現代の人口の差は、進歩的な社会を生み出し、営むために必要な人員の差である。江戸時代には、生きていれば有為の仕事をしたはずの人たちが、歴史的には惜しまれることなく、大勢亡くなっているといえる。
 その観点で人口の増減を考えるべきだろう。老人の年金を支える人員が減るという危機感から、少子化問題が語られるのは、見るのも聞くのも嫌である。私にはふたりの子どもがいるが、年金を支えさせるために、生んだのでもなければ、育てているのでもない。そもそも自分の老後の面倒をみさせるためですらない。年金制度なんて、やめてしまってはどうだろう。死んで惜しい人なんてそうそういないのだから。

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