**ご注意**
"Harry Potter and Half-Blood Prince"、邦題『ハリー・ポッターと謎のプリンス』にまつわる文章です。本編三回とおまけ一回の続きものです。第三回とおまけにネタバレがくるので、未読の方は注意してください。
ハリーポッターシリーズ第六作"Harry Potter and Half-Blood Prince"は、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』の邦題と決まった。”Half-Blood Prince"をふつうに訳せば「混血の王子」である。実際、ある時期まで書店には「混血の王子」と予告されていた。「混血」がのちに述べるような理由で、差別語として忌避される傾向にあるので、そのようになったのだろう。翻訳の難しさというものを"HalfBloodPrince"の一語に感じた。それを述べるのが、今回の目的である。なお、UK版とUS版では、人種問題に配慮して一部内容が変えられているそうである。私が読んだのはUS版である。
手元にある辞書を見たところ、大修館の『ジーニアス英和辞典』初版(1988発行)では”half blood”の訳は「混血」。桐原書店の『ロングマン現代英英辞典』(手持ちの本には奥付がない。1990年に買ったと思う)では、なんと収録外。
両親が違う人種である場合の子どもの呼び方は、今では「ハーフ」が優勢である。『ジーニアス英和辞典』で「混血」なのは、時代のせいか、それとも「ハーフ」と訳してはそもそも英和辞典とはいえないせいか。
「浮浪者」が「ホームレス」になったように、「ハーフ」とおきかえて、めでたしめでたしかと思いきや、そうはいかない。Wikipediaでは、「混血」の説明に、「特に人(人間)を指してこのように呼ぶ場合は蔑称である危険性が伴う。(ただし欧米で使われるミックス(mix)という呼称はハーフより差別的でないとされる) 」と注意書きをつけている。つまり、英語の「half-blood」自体に差別的な意味合いがあると思われ、「混血」を「ハーフ」にするのは適切な置き換えとも言い難いようである。
ネット検索にかけたところ、「ハーフ」にかわって「ダブル」という呼び方があるとのこと。私の芝居の知り合いにJDNさんという父親が日本人、母親が白人系アメリカ人という人がいた。十二年ほど前(1993)、また聞きで、JDNさんが「俺は血が足されている、ハーフではなくダブルだ」と言っていたと知って、皮肉屋のJDNさんらしい諧謔だと思ったのだが、家では英語をつかって生活しているだけあって(日本語も恐ろしく堪能でしたが)、時流にあった意見を述べただけらしい。
私としては「ダブル」には違和感がある。「ハーフ」は半分に切っているからダメという意見が多いようである。「混血」が使われない理由は、血をまぜるという表記が、そもそも人種の違いがあることを強く意識させるからであろう。半分にしようが倍にしようが、「ダブル」も「ハーフ」も、「血」を操作した表現である点では「混血」とそう遠くない。ただ、一回英語をかますことで、その事実がかすんでいるだけである。
「ダブル」に近い発想の日本語が実はあって、「合いの子」がそれにあたる。「合いの子」は、週刊文春編『徹底追求 「言葉狩り」と差別』(1994)が収録した(スッパ抜いたと称している)「大新聞『言い換えリスト』」では、「あいのこ」は「特別な場合以外は使わない方がよい」とされるBランク(ABCと三段階ある)の差別語である。「混血児」への言い換えを勧められている。今の「言い換えリスト」なら「混血児」も「ハーフ」になっているか。
Wikipediaの「混血」には「動物に於いてこのように言われる場合は交雑種(雑種)ないしあいのこといい、家畜の場合は人間にとって都合のいい形質を作るために、人為的に行われる。 」とある。私の感覚でも「あいのこ」を使う場合は、「ラバがウマとロバのあいのこ」や、二つの機械の長所をとりいれて別の機械を生み出すときにいうなどである。洒落てはいるものの(江戸の戯作を研究してる私にとって洒落とはシャレ・ダジャレの言語遊技のことです)、人間には使わない。ちなみに「雑種」は英語では”Hybrid”。何でも英語にすればかっこうがよくなる日本語は便利便利(もちろん皮肉です)、ハイブリッドカーの正体は雑種車である。
「ダブル」を日本語に直すなら「ばいのこ(倍の子)」か。ふざけていると思うのなら、「ダブル」も同じぐらい私にとってはふざけている。また、英語圏で「ダブル」を使うからといって、日本語で「ダブル」を使わねばならない理由はまったくない。
けっきょく、「ハーフ」の代わりに「ダブル」を使いましょうという運動・傾向が今後盛んになったとしても、私としては「ダブル」を使うのは、気持ち悪くて、絶対使用せよという法律ができない限り、まずやりたくない。「ダブル」にどうしてもしたいという人は、「ダブル」を広めるよりも「合いの子」を差別語ではないという見解を広める方が適当だと思う。
先の「大新聞『言い換えリスト』」(1994)がよしとしていた「混血児」だが、堀田貢得『実例・差別表現 -糾弾理由から後始末まで、情報発信者のためのケーススタディ』(大村書店、2003)では、
つい最近まで「あいのこ」は混血児を指す言葉で、侮蔑性が強いとして、「混血児」と言い換えるべきだとされてきた。または「ハーフ」と場合によっては呼称すべきとされていた。ところが二〇〇一年一月、NHKが放映したドキュメンタリー『アジア発見・日比混血児』という番組に対し、放映後、「コムスタカ」(移住労働者と連帯する会)という市民団体から、NHKに対して抗議がされたのである。「混血児という言葉は『純血』との比で差別性がある。混血児は『国際児』にするべきである。『ハーフ』という表現もイギリスにおいては差別表現、よって『ハーフ』は『ダブル』とするべきである」
外国人との共生を標榜する人権団体「在日コリアン人権団体」や「全国朝鮮人(外国人)教育研究協議会」もこの主張を支持、すでに「国際児」「ダブル」という表現を使っている。国際化時代の新たな差別表現として配慮を必要とする言葉である。
としており、日本が島国であることや鎖国政策のため異民族との交流が少なかったことを理由にあげて、日本人にとって「民族差別の側面は難しい側面を持っていることを否定できない」としている。
私としては「混血児」が差別的だという感覚はなかった。しかし、差別的だと、当人に抗議されたなら、考え込まざるをえない。「混血」が劣ってるという発想には「純血」が優位にあるという考えが土台にある。「混血児」に抗議した団体をみればよくわかる。「純血」のため圧力をうけていると感じている人たちが抗議しているのである。とはいえ、これを弱者のルサンチマンと片づけるのもすっきりしない。だからといって、ここで「混血児」をダメにしてしまうと、表現上の不具合が一気に増えてしまうので、そうもしたくないと二律背反の状態にある。
なお「国際児」も私の感覚にはなじめない。『広辞苑』第五版で「国際」とは「 諸国家・諸国民に関係すること。もと『万国』とも訳され、通例、他の語の上に付けて用いる。」とされる。この「諸」がくせもので、二国に限った交流を「国際」とはふつう言わない。たとえば「日韓」「韓日」など、二国間の略称を冠につける。
もちろん、いくつもの人種、国籍の血を受け継いだ人はいるはずで、そういった人のことを「国際児」というのは妥当なのかもしれない。しかし、両親で二つの国籍あるいは人種の場合が、「混血児」のなかで圧倒的に多いはずである。それなのにすべて「国際」とするのは無理がある。慣れの問題とも思えない。「彼はアメリカ人が父親で日本人が母親の国際児です」ぐらい、説明のともなった文章でなければ、納得はいくまい。
また、すでに幅をきかせている語に「国際人」がある。英会話学校に通って「国際人」になろうとか、日本人ももっと国際的にならなければならないとかいう言説がある。ここでは、「国際」とは先天的な状態ではなく、ある時点で生み出される後天的な状態である。
それに対して、Wikipediaが「混血(こんけつ)とは、何がしかの分類上に於いて、異なるグループ(種族・人種・民族等)に属する親同士の交配ないし性交の結果によって子が生れる事。またはその生まれた子を指してこう呼ぶ。」ように「混血」とは先天的なものである。
「国際人」と「国際児」は実態が近いものなのだろうか。「国際児」が長じて「国際人」となるのか。いま、「国際人」という言葉が人口に膾炙している以上、「国際児」を広めるのは困難が伴うだろう。
とりあえず名称については、より適当なものを模索する必要があるだろう。
補足:差別語特集もやっていると滅入ってくるので、もう打ち切りにしようかとも思うのですが、せっかく書いたのでいちおう載せることにします。ハリポタの話題にすぐはいるつもりが、「混血」が差別語かとの考察が長々と続いています。見返すとひどい文章です。「ダブル」や「国際児」への批判がかなり長くなりました。やや感情的になってしまったかもしれません。
明日の文章は、逆接ではじまります。つっこみどころも多いかと思いますが、明日の記事を待ってもらえるとありがたいです。
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