2007年9月21日 (金)

松野正子文・瀬川康男絵『ふしぎなたけのこ』について

 何年か前の正月、実家に帰ると、たしかトヨタがスポンサーになって、エジプトについての歴史番組をやっていた。ピラミッドは公共事業であり、雇用を作り出していたという趣旨だったのだが、折しも小泉政権が道路事業をはじめ、公共事業を削減していたころだったので、自動車メーカーであるスポンサーのあまりに露骨なメッセージに苦笑した。
 さて、実家に置いてあった、私が子どもの頃読んでいた絵本を、今の住居にもってきて、子どもに読んでいるのだが、そのなかに、松野正子文・瀬川康男絵『ふしぎなたけのこ』という作品があった。
 梗概は次の通り。

山の奥深くの村に住む「たろ」が自分の誕生日のお祝いのためにたけのこを掘りに行き、近くのたけのこに上着をかけるとそのたけのこがぐんぐん伸びだした。たろはあわてて、たけのこにしがみついだが、たけのこはぐんぐん伸び続け、空高くまで伸びた。たろの親や村人たちがたけのこを切り倒すと、たけのこは山を越え、谷を越えて倒れた。倒れたたけのこにそって、たろの親たちが行くと、おおきな湖のほとりにたろが倒れているのを見つけた。
 湖は実は海であり、たけのこのおかげで、何百年の間行き来が絶えていた海と安全に往復できるようになった。

民話のようだが、れっきとした近代に入ってからの作り話である。
 大人になってびっくりしたのは、この話のたけのこが露骨なまでに高速道路の隠喩になっていることである。高速道路のおかげで、山奥の僻地の村が遠くの人たちと、人の交流、物流ができるようになって栄えましたという話といって間違いない。
 『ふしぎなたけのこ』は福音館から、1966年9月に単行本が出ている(今も入手可能)が、もとは1963年の「こどものとも」(福音館が毎月発行している読切りの絵本)の一冊であった。
 そして、この1963年は、日本初の高速道路である「名神高速道路」の栗東-尼崎間71.4kmが開通した年なのであった(全面開通は1965年)。有名な列島改造論は1972年であるが、高速道路の発展が念頭にあるはずである。

 今は道路事業は見直され、道路公団も分割民営化された。問題となっていた、巨額の高速道路建設費用のことを考えると、きわめて金のかかる高速道路が、手前勝手に伸びたたけのこに置き換えられているのは、ほほえましい。現実をみていない絵空事とは、そういうことをいうのだ、と思っていた。

 ところが、最近になって、高速道路をふしぎなたけのこに置き換えたのは、意外とぴったりしていると思うようになった。高速道路も地方政治家と官僚が勝手に造り始めたもので、土地土地の人たちの意志の反映というには弱い。また、建設資金は、国がほとんどを負担するものであり、それこそ天の恵みといってよいものだからである。
 

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2007年4月26日 (木)

内田啓一『江戸の出版事情』

 今日は本の紹介。
 内田啓一『江戸の出版事情』(青幻舎、2007.3)がよい。B5版本文119頁総カラーで、税抜き1800円。
 河出書房新社の図説シリーズが、同じ程度の頁数で、カラーと白黒ページがまじって、ほぼ同じ値段である。たとえば、橘右近『図説 江戸文字入門』(河出書房新社、2007.2)が、カラーと白黒がまじって111頁。大きさは、横16.8、縦21.7センチでA5よりも横幅がやや大きい。
 図説シリーズも、この値段でよくやったという価格だろうが、『江戸の出版事情』は格安である。
 写真もこのためにあらためて撮ったのか、綺麗に写っている。筆者が、町田市立国際版画美術館学芸員をつとめたこともあるためか、構成も作品選択も美的に優れている。筆者の古典籍への愛情が伝わる好著である。
 ひととおりのジャンルが網羅されており、江戸の印刷物を概観するのに適当なのもよい。
 青幻舎は新興の書肆のようだが、頑張って欲しい。

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2007年4月25日 (水)

対談の打太刀仕太刀 その二

**前日の続きです**

 私が読んだ対談でもっとも見事な斬られ役を演じたのは、坪内稔典である。
 「芸術新潮」2006.6号は特集「芭蕉から蕪村へ 俳画は遊ぶ」と俳画特集なのだが、この分野でのスター学者雲英末雄の解説が多々ちりばめられ、また雲英文庫の展覧会の案内が記されるように、とにかく雲英末雄格好いいぞ本なのである。

 「芸術新潮」に収められた対談は、雲英末雄と佛教大学教授で俳人の坪内稔典でなされているが、ここでの坪内が悪役の演じ方、そして斬られぶりは、読んでいて爽快である。

まず、坪内が、

俳画で面白いのは蕪村だけという感じで、他の人のは正直言ってあんまりおもしろくない。絵としてもなんてことはないんじゃないかとおもってしまいます。

と口火を切る。こともあろうに、俳画研究の第一人者にむかってである。すぐさま雲英は「いやそれはちょっと違う。立圃にしても樗良にしてもふつうの絵とはちがう、俳趣、俳諧的な味わいというものがあります。」と切り返し、俳画のよさを説明する。
 坪内が愚かなのでは決してない。読者のために、わざと斬られ役となって、雲英の口から解説を引き出している。学者は負けず嫌いな人間が多い。坪内のようにさばけた人間は珍しい。

 そのあとも、雲英による蕪村の俳画の説明があって、坪内は、

なるほど。僕は何も知らないでぱっと見たときは、なにか意外なものが結びついていると考えました。甕から子供が飛び出すのも筧からツバキが流れ落ちるのも意外ですよね。でも、この図柄は司馬温公の故事を知っていなければおもしろくない。蕪村がこの絵俳書を贈った人たちは、この故事を知っているような教養人で、これを見ながら、句と画が呼応する楽しさを味わえる人たちだったということですね。

と、『美味しんぼ』の登場人物でもなかなかできなさそうな、納得ぶりを見せる。坪内自身のまとめもよい。

が、この程度は序の口。圧巻なのは、このあとである。
なんと坪内は、

先生、ちょっと見ていただきたいものがあるんです。知り合いからもらったものなんですが、(引用者、以下略)

と、軸物をとりだすのである。これは見事なまでの贋物で、雲英に一目で「あっ、これはだめです。」と烙印を捺される。坪内もすなおに「ニセモノの特徴を教えてください」と言い、以下贋物の特徴が雲英によって説明される。

 もはや仕組んであるのではないかという展開だが、編集部が軸物を用意したのではないとすれば、坪内自身、本物と思って持ってきたはずはあるまい。すごく茶目っ気があるというか、ここまで斬られ役に徹すると、むしろすがすがしさを感じる。

終わり近くには、坪内が、

今日先生のコレクションを見せて頂いて思ったのは、我々は活字というか、文字、言葉、書物だけに専門化し過ぎているということです。これは俳句に限ったことではないのですが、もっと絵とか美術的なものとの相乗作用を考えてもいいのではないか、そうすることでなにか開けてくる世界があるかもしれないと痛感しました。

と、平身低頭になる。

 さすがに、雲英もなさけをかけたのか、このあと坪内の「(引用者、前略)俳句の表現には根源的なところで、そういう問答という面があるんじゃないかと思うんですよ。」という発言に対して、「それは非常におもしろい視点だとおもいます。(引用者、以下略)」と俳人でもある坪内に手をさしのべて終わりになる。

 打太刀仕太刀のそれぞれの動きが見事にかみ合った、剣道の高段者による日本剣道型をみるような対談だが、ここまで上手にまとまったのも、自分は雲英の引き立て役と坪内が自覚していたためであろう。

補記:2008年10月6日に雲英末雄先生はお亡くなりになられました。私は近世文学の研究者なので、ちょっとだけお話したことがあって、あえば会釈するていどの関係でした。あまりに急にお亡くなりになったので驚いています。それに、学者にとって68歳で亡くなるとは早すぎます。紋切り型ではなく、惜しい人を亡くしたと思っています。

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2007年4月24日 (火)

対談の打太刀仕太刀 その一

 先日、森博嗣と土屋賢二の対談集『人間は考えるFになる』をとりあげた。
 対談は、打太刀と仕太刀がはっきりすると面白くなる。どちらかが、斬られ役(打太刀)になって、片方(仕太刀)に花をもたせないと、つまらない。

 相手を言い負かしてやろう。相手よりも一言でも多くしゃべって紙面に載せようなどとケチなことをどちらかが考えている場合はろくな対談にならない。

 森と土屋の場合、対談の回を重ねるごとに、土屋が素人代表となって、素朴な疑問を森にぶつけ、それに森が鮮やかな回答をするという形式が確立する。

 先崎学『先崎学の実況! 盤外戦』(講談社文庫、2006.5)に収められた、先崎学と森博嗣の対談では、さすがに先崎の本だけあって、先崎と森が途中で打太刀と仕太刀をかえて、それぞれの持ち味を引き出している。

 殺陣では、斬る側よりも斬られる側が上手でないと見栄えがよくないように、対談でも、斬られる側に力量がいる。
私は、対談で上手な斬られ役になる人を高く評価している。

**明日に続きます**

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2007年4月23日 (月)

考えるFになる

 森博嗣・土屋賢二の共著『人間は考えるFになる』(講談社文庫、2007.3)は、買うかどうか迷った。
 森博嗣の文章は好きだが、土屋賢二の、あの言語ゲームのような、もってまわった文体は読みこなせないからである。
 読んでみると、とくに問題はなかった。さいしょは「森:先生のお話の筋がまだ捉えきれてしませんが……」とかみ合わないところも多い。だが、土屋が打太刀、森が仕太刀という分担がはっきりして、対談がかみ合ってくる三章あたりから、がぜん面白くなる。
 森の小説理論にもとづき、土屋が「消えたボールペンの謎」という短編(処女)小説を記し、後半に収録される。
 随筆だと気になる土屋の言語ゲーム的文章も、小説の文章だと思うと気にならない。小説は構成も練られ、オチも気が利いており、面白い。土屋は小説家になっても、イケるんじゃないかと思う。

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2007年4月22日 (日)

MLA

 推理小説家森博嗣に「MORI LOG ACADEMY」(以下MLAと略)という随筆がある。肝腎の推理小説は代表作『すべてがFになる』を読んだだけだが、MLAは最新巻の五集に至るまで全部揃えている。
 この人のことは、先崎学『先崎学の実況! 盤外戦』(講談社文庫、2006.5)で先崎学と対談したので知った。
 MLAはもともとがブログの連載記事であり、
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/index.php
で、読むことができる。
 だが、パソコンの前でじっくり読むより(毎日読んではいるが)、文庫本を気軽に持ち出して、ちょっと空いた時間に、頭の栄養を補給するのに適した内容である。
 バートランド・ラッセルは、自分の考えているようなことは、ウィトゲンシュタインがより巧妙になしとげてしまうので、生きる意欲が減退すると、愛人への手紙に書き記したという。私の考えているようなことも、森博嗣がよりエスプリのきいた文章で、形にしてしまうので、読んでいると、もうブログなど書かなくてもいいかと思ってしまう(手紙を送る愛人はいないが)。
 そういうわけで、意見が合致するHRや社会よりも、とてもじゃないが考えつかない、算数や理科の項が特に面白い。

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2007年4月17日 (火)

考えながら書くな

 太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(光文社新書、2007.02.20)は、ブログならよいできだが、出版物としては、これを出版しなくてもという本である。内容は、本職の字幕制作の裏事情を除けば、それほど珍しい考察が書かれているわけでもない。だが、筆者の実直な人柄がうかがわれ、読後感は悪くない。
 なのに揚げ足をとって悪いが、気になる点をいくつかあげる。

 「そんなに叫んでどうするの ~「!」の話」の節は、字幕やテロップにかぎらず、「!」、「?」、「!?」(あわせて一字)の使いすぎをいさめた内容である。気になったのが、筆者がためしにつかった「かくて一億総ヒノタマ、みんなで叫べば怖くない!?」(66頁)の「!?」が行頭にきていることである。
 校正係の問題かもしれないが、出版物としては気持ち悪い。

 もうひとつは考えながら書いていること。「驚異の語学力」の節では、外国人力士の日本語上達法について、あれこれ考察したあと、「と、書いていたら、この疑問そのものをずばり書名にした本がすでに出ていた。」と宮崎里司『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(明治書院、2001.3。2006.3に新装版)を紹介している。
 だったら、「驚異の語学力」の節は意味がないのではないか。ブログなら、他人と見解がかぶってもいいかもしれないが、本にするなら、すっぱりと内容を削って、別の面白い話を入れればよい。

 『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕騒動について、原作ファンが文句をつけたのは、太田が指摘している字幕の長さではなく、ストーリーの改変につながる字幕の変更である。「You are not Boromir.」を「うそつき」としてしまったのが致命的だった。中学生でも翻訳できたし、字幕も問題がない長さだった。
 あの字幕騒動について、何が問題だったのか、太田が詳しく知らないのは明白である(196頁)。批判にさらされた同業者をかばってやりたい心情はわかるが、知らないことに関しては沈黙すべきである。

 「押し読ませ」の節や「売りたい ~胃痛編」の節で、映画配給会社がいかに字幕に介入しているかが、あきらかにされている。はなはだしい場合は、まったく制作者の意図を逆に取った字幕をつけるように強要する場合もあって驚く。

 『ロード・オブ・ザ・リング』の戸田奈津子も、話をわかりやすくししようとしすぎて失敗したのかもしれない。誤訳・珍訳と思える表現でも、字幕翻訳者の責任ではない場合があるとわかったのが、この本の収穫である。

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2007年3月26日 (月)

中国書籍の値段

 『今古奇観』を版本で読みたくなったのだが、その機会がない。ふと、「日本の古本屋」サイトで検索すると、影印本(版本を写真でとった本ぐらいに思ってください)が出ている。
『全図今古奇観』の掃葉山房1929年版を1988年10月に中国書店が影印にして出した本を買った。
 影印本は12000部を初版で刷っているらしく(本に書いてある)、値段は、はじめ6.0元、上にシールが貼られて6.2元。裏表紙には20元と刷ってあって、その上に$37の値札。そして古本屋から私が買った値段は3150円。

 2007年一月の平均レートで、日本円100円が6.46元である。あまりに安すぎるので、いまではこういった書物には、もっと高い値が元でついているのだろう。

 なお、37$なら、これを書いている2007年3月8日正午で116円13銭なので、4292円。
A5版厚さ三センチほど(総ページ数が書いていない)の影印本への対価として、古本とはいえ3150円は格安である。4300円でもまだ安い。いくら本の作りが、英語のペーパーバックのようであっても、日本ではこうはいくまい。

 すでに記したが、12000部という部数も、驚きである。白話小説だから現代人が読めるのかもしれないが、繁体字なので中国本土の人は読むのに苦労するはずである。市場が十倍なのかもしれないが、日本ならこの種の本は千部刷っても冒険だろう。

 戦後しばらくの時期は、日本の印刷費が安いからという理由で米国の雑誌が日本で刷られていた。中国で印刷すれば、学術書ももっと安く印刷できるのだろうか。さて。

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2007年3月15日 (木)

学力別クラス編成

昨日の続きです。

 山本直樹『極めてかもしだ』は学力別クラス編成への反抗が、後半の主題になる。読んでいたころは、かもしだたちの反抗にあまり疑問も抱かなかったが、いま読むと、それほど目の敵にすることか、と思う。現在の予備校など、ふた昔まえの変速自転車のような、過剰なまでの段階別クラス編成をうたっているところばかりである。

 私の出た高校では、数学や英語は進度に合わせてクラス分けをしていた。私は数学の出来が悪かったので、進度の遅いクラスに行って、ずいぶんと助かった。
 高校の非常勤をしたこともあるが、中高一貫校のせいか、上と下とおそろしく差がある学校で教えるのにとても苦労した。

 私は学力別クラス編成は悪いと思わない。一番下に進度をあわせるわけにはいかないから、どうしても中ぐらいよりちょっと上に授業の水準をあわせる。そうすると、一番下は「死んで」しまう。そういった生徒を見るのは忍びない。補講をするなり、特別クラスにして、今までの遅れを取り戻してやれないかと思う。

 もちろん、学力別クラス編成を悪いと思う人もいる。おたがいの学力をあらわにして、それでクラスをわけてしまうと、自分は下のクラスなのだと思って、努力しなくなってしまうと言われる。学力という明確な基準によって、人を分ける点が、「差別」として教育者このみでないのもある。

 偏見を含めていえば、学力別クラス編成が嫌いな教育者は、グループ学習が好きな気がする。たしかに、学力に差があるものどうしで、一クラスを作った場合に、もっとも有効なのがその仕組かもしれない。だが、グループ学習は教師の負担を優秀な生徒に転嫁するようで、どうしても好きになれない。

 十人程度のクラスであれば、国語力のとても劣っている生徒をかなりよくする技法を私は持っている。最近は、教育欲がないのでこんな挑発をいうのもなんだが、学力別クラス編成が嫌いな人は、分けたあとにどういう授業をすればいいのか、よくわかっていないのだろう。

 というのが、『極めてかもしだ』の感想かと、読み返して苦笑い。

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2007年3月14日 (水)

オキツカナメ

 山本直樹に『極めてかもしだ』という漫画がある。雑誌連載時代に不定期で読んでいた。1986年に有害図書指定をうけている。私が読んだのは十代のころなので、かなり性描写が過激な印象があった。最近、手にする機会があったが、それほど過激に感じなかった。漫画全体の性描写が次第にきわどいものになってきたのもあるし、私自身が大人になったせいもある。
 性描写よりも、なによりも、再読して驚いたのが、ヒロインの名前が沖津要(オキツカナメ)であること。
 オキツカナメといえば、落語ファンや国文学研究者は間違いなく、早稲田大学の教授で落語の著書のある、「興津要」と漢字変換するはずである。
 これは偶然ではない。山本直樹は早稲田大学教育学部国語国文科を出ている。ずばり興津要は、山本のいた学科の先生だったのである。興津要は1924年生まれで1999年に没した。1960年生まれの山本直樹が在学していたころ、興津は五十代後半である。
 書き忘れていたが、興津要は男である。ヒロインの名前に恩師(なんでしょうね)の名前を使おうとした理由が、『極めてかもしだ』最大の謎である。

『極めてかもしだ』の話、明日に続きます。

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