2008年6月27日 (金)

いまさらながらNHK朝ドラ「ちりとてん」

 いまさらながらNHK朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の話。朝ドラは普段見ないのだが、咄家が主人公になるというので、HDDレコーダーを駆使しつつ、全話見た。
 正直なところをいうと、最初の一ヶ月が特にそうだったが、見るのをやめようかと思うことが何度かあった。

 主人公の女の子に魅力がないのである。主人公の女の子は自分勝手にやりたいようにやって、親兄弟に友人(とくにこのふたつ)、師匠、兄弟子ら周りの人間に多大な迷惑をかけているにもかかわらず、自分のことしか頭に回らず、しかも自分こそがいつも被害者という態度で反省のへったくれもないのである。

 主演の貫地谷しほりが最初のころ、トリックとかの仲間由紀恵のコピーっぽい演技をよくしていたのもうんざりだった。とはいえ、主演の貫地谷しほりは当初慣れない関西弁の演技に苦労していたという。演技は本人より演出家の責任が重いし、美人がギャグ風の演技をすると、みんな似た感じになってしまうのかもしれない。

 主役の女の子が、高校の先生が勧める地元の短大の日本文学科への進学を断り、「(良妻賢母の道を歩んだ)おかあちゃんみたいになりたくないんや」と啖呵を切って、大阪に出たのには笑った。地方短大の国文科がどう思われているか、はっきり描かれているからである。

 一番うんざりだったのは、そのダメダメな主人公の性格がけっこう自分にも当てはまったことである。私もそういや、人をねたんだりうらやんだり、人に迷惑をかけてもちっとも気づかなかったりするなあと、身につまされた。
 

 なんとか最後まで見通したのは、落語を下敷きにした筋立てが巧みだったこと。徒然亭草若の四人の弟子をはじめ、落語的な登場人物たちに魅力があったこと。渡瀬恒彦、和久井映美、松重豊、江波杏子、米倉斉加年ら、役者がすべて実力者ぞろいで、その演技で充分楽しむことができたからである。
 視聴率は十五%程度で、朝ドラとしては低視聴率だったらしいが、ずっと見ていた人はけっこう満足したのではないだろうか。

 ダメダメだった主人公も最後の三週ほどで、妙に物わかりがよくなり(人間的な成長があったということなのだが)、今まで友人に迷惑をかけていたことを悟り、母親にもきちんと謝りと、見ている人にカタルシスを与えるような展開になった。いらついて、途中で見るのをやめてなくてよかったと思ったが、少々ひっぱりすぎだったかもしれない。

 それにしても、一日十五分とはいえ、月曜から土曜まで、一週間で一時間半。ドラマを見る人は気長だなと感心。

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2007年4月20日 (金)

許し合える世界

 子どものいいところは、いやなことがあってもすぐに忘れることである。喧嘩をしてもすぐに仲直りをする。

 大人の世界はそうではない。『史記』を読めばよくわかるが、人はうけた侮りや屈辱を決して忘れず、おもてには出さなくても、仇をかえす機会をひそかに狙っているのが普通である。

 アニメは子どもの世界観を反映するので、登場人物同士が喧嘩をしてもすぐに仲直りするようになっていた。

 NHKが放送した『アニメ三銃士』の大ボスのリシュリー卿は「うらぎり者は二度うらぎる」が口癖で、うらぎり者を許さなかったが、これが大人の論理である。

 『戦闘メカ ザブングル』では、中心人物のひとりであるラグ・ウラロは、主人公のジロン・アモスへの嫉妬から敵にまわって、元の仲間たちを窮地におとしいれる。大人の世界なら、裏切りはぜったい許さんということになるのだが、のちにラグの改心は受け入れられ、また仲間に戻ることができる。

 ザブングルはそういった点でリアルではない、ユルいという批判もあるが、そもそも絶対的な悪人を作らないことを含めて、ザブングルの許し合える世界は、気持ちがよい。ザブングルの終わりの歌「乾いた大地」は「もしも友と呼べるなら 許してほしいあやまちを」で始まるが、ザブングルの許し合える世界をよくあらわした好曲である。

 子ども同士の許し合えるザブングルの世界に比べて、Zガンダムは許し合えない世界を描いて苛烈である。Zガンダムのレコア・ロンドは、仲間から満たされないので、なんとなくそれまでの味方から離れて、敵側についてしまう。これは、ザブングルのラグと変わらないふるまいだが、ラグが戻ることができるのにレコアは戻ることはない。また、気分にもとづいたあやふやなうらぎりのせいで、レコアは、「欲求不満女」と、Zガンダムできわめて評価が低い。

 子どものラグと大人のレコアという差はあって、まあ大人だからね、と結論づけることもできるのだが、ザブングルだったらねぇと、レコアの不幸を不憫に思うのである。

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2007年2月12日 (月)

テレビの向き不向き

 テレビは、情報を伝えるのに向き不向きがある。いちいち、ニュースを見るよりも、新聞(などの活字情報)を読んだ方が早い。同じ時間なら、音声で伝えられる情報量よりも、字を読んで手に入れられる情報量のほうが多い。

 テレビが活字よりも優れているのは、絵を出せること。百聞は一見にしかずというが、見なければわからないことは、テレビでないと伝えられない。

 テレビで現在人気があるのは、役に立つ情報を伝える番組がそうだ。『伊東家の食卓』もそうだし、『ためしてガッテン』、最近問題になった『発掘あるある大事典』などがそれにあたる。

 正直、テレビで教養・知識を得ようとは思わない。テレビが伝えることを鵜呑みにすることは、ネットで検索した情報をそのまま信じる以上に愚かなことである。何にせよ、詳しく知りたいことがあれば、図書館に行って数冊の本を借りる方がましである。
 『世界不思議発見』は、何回見ようがその国について詳しくならないのではないか。

 インチキダイエット番組より、害があると私が思っているのは、歴史番組。時代劇は稗史であり、良識のある人なら、しょせん作り事だとわかってくれる(だろう。たとえおしんが可哀想だからとNHKに米を送る人がいても)。嘘ばかりの歴史啓蒙番組は、そのタイトルを聞くだけでぞっとする。にせのダイエット情報を流す番組は打ち切りになる。だが、どうみても無茶な内容の歴史を伝える番組を制作しても、何のお咎めもないのだからいい気なものである。
 

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2007年2月 5日 (月)

ローマ物の映画

 年始に民放の深夜放送で『ジュリアスシーザー』と『スパルタカス』が流れた。ローマ人の物語に関心を持っていたので、録画して、早送りで見る。字幕なのはありがたい。

 思うに、シーザーの遭難とは、西欧人にとってなにか特殊な感慨がある場面なのだろう。日本人にとっての本能寺の変のようなものかと思うが、シーザー暗殺は、共和制か独裁か、その狭間における共和制主義者のテロリズムを扱っているので、イデオロギー闘争の面が強い。スターウォーズにも、ローマ史の影響はありありと出ている。

 『スパルタカス』がキューブリックなのは初めて知った。アメリカの奴隷制とその解放が反映された映画になっている。
 歴史を語ることは、政治観を語ることであって、映画もそれから免れえないのか。

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2007年1月21日 (日)

ビデオあれこれ

 ビデオがない時代には、子ども向きの番組で細かくストーリーがつながっていくものは作れなかったはずである。
 戦隊ものなら、最初と真ん中(必殺技が効かなくなる。誰かが死ぬなど)と最後、以外は敵が出てきてそれを倒すというワンパターンである。
 子どもも忙しくいつもテレビの前に座れるとは限らないのだから当然である。
 Zガンダムのように、細かいストーリーがあって、しかも途中で敵味方が入れ替わったりしていると、見ない回が何度かあればあっという間にわけがわからなくなってしまう。
 そのころに比べると、テレビを見る方もなんとか録画媒体を使って見るだろうからと、作る方も凝ったことができるようになったのではないか。

 HDDレコーダーのように、どんな長さの番組でもきれいに録画しておいてくれる機械ができたのはありがたい。何時にどのテレビを見なくてはと、テレビにしばられる生活は不健康である。

 ちなみに私が最初にビデオデッキを購入したのは1993年になってから。質流れの中古家電を購入した。さっそくレンタルビデオ屋にいってビデオを借りた。AVは当然(?)借りたが、誰のを借りたのか記憶がない。AVといっしょにアラモを借りた。これははっきりと覚えている。同じ金額で借りるなら、長いビデオじゃないと損だと思ったからである。

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2006年11月 8日 (水)

CMバックボタン

 パナソニックのHDDレコーダー(DMR-EH73V)をここ一年ほど愛用している。HDD録画の再生はVHSに比べて劣化しないのがよい。

 正午と午後七時のNHKニュースはいつも録画していて、暇なときに早廻しで見ている。クローズアップ現代も録画していて、興味がある回を1.3倍再生で見る。

 NHK『日本の話芸』や『日曜美術館』『NHK杯将棋トーナメント』は毎週予約になっている。

 唯一、なんとかならないのかと思うのは、本体正面右よりにある、簡単ダビングボタン(正式名称は知らん)をぐるりととりかこんでいる青いランプ。まぶしすぎる。マジックで黒く塗りつぶしてやろうかといくどとなく思った。

 HDDレコーダーを使うと、CMは見る機会がない。CMスキップボタンがリモコンについているので、すっとばしてしまう。

 冒頭の一瞬で面白そうだなと思うCMもあるわけだが、惰性で押しているので、あとの祭りである。戻ってみるためには巻き戻しをせねばならず面倒である。

 そこで、CMバックボタンがあればと思う。ついていれば、面白そうなCMだけでも見てもらえるはずである。

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2006年11月 4日 (土)

PSPで動画

 「携帯動画変換君」を使ってもよかったのだが、ユーリードのVideoStudio9が使いやすかったので3500円ほどの、VideoToolBox2forMemorystickをダウンロード購入。Uの結婚式の動画をMPEG4に変換して、PSPで見られるようにいろいろと試す。

 ファイルが認識されず、ファームウェアのVer.を上げたりいろいろしてみるがダメ。ネットで調べてみると、私が買ってきた雑誌に誤りがあったようで、ネットの情報通りにファイルネームをつけてみると読み込む。
 これだけでかなりの時間がかかった。

 VideoToolBox2forMemorystickのいいところは、まず、複数のWMVファイルやJPEGファイルを合体させて、MPEG4ファイルにできるところ。でも、あまり使うことがないかな。
 もうひとつは、DVDから読み込んでそのままMPEG4ファイルにできるところ。リッピング用のソフトをかませなくてよい(プロテクトのかかっていないものに限るが)。

 ためしに、NHK「日本の話芸」から三遊亭楽太郎の「紀州」30分をMPEG4ファイルに変換してみるが、おそろしく時間がかかる(30分ほどか)。

 で、これからが大事なことだが、動画と音声とがほんのこころもちずれている。しゃべる口と言葉があっていないのだ。先日、Uの結婚式のためにスライドをDVD-Video形式で作ったのだが、これも再生機では微妙にずれていた。それの音はBGMだけだからたいして気にならなかったが、落語だとかなり気持ち悪い。

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2006年10月30日 (月)

一年間で

 快楽亭ブラックは一年間で365本の映画を観るノルマを己に課したらしい。

 蓮實重彦は、映画関係の授業をとった学生に、一年間で50本以上の映画をみなさいと言ったらしい(映画館でという条件付だったか)。

 一年間に50本の映画なら、一週間に一本である。私は90年代前半に池袋に住んでいたこともあって、それなりに映画を観ていた。それでも五十本には及ばなかったのではないか。

 演劇に関わっていたころは、一年間で三十本ほどの芝居を観ていた(劇場バイトで観たものは除く)。学生劇団同士のつきあいで観た、たいしたこともない小劇場芝居も多く含まれているので、そう質的にも金銭的も、すごい行為ではない。
 だが、映画に比べて、芝居を観るのは五割増しで疲れる。

 今でも映画・音楽雑誌に記事を書いている知り合いの演劇人Mさんは、一年間で五十本ほどの芝居を観ていた。Mさんのすごいところは、Mさんが観に行った劇団は、一二年の内にかならず人気が出たことである。これから来る、という嗅覚がすごかったのだ。
 いろんな分野で、この人が読んだ、観たなら、私も読もう、観ようという人がいる。Mさんは、芝居にかんして、私が第一に信用していた人である。

 一年間で何本とか何冊とかいう縛りは不健康なのではないかと最近思う。観たい時に、観たい映画をみて、読みたい時に読みたい本を読む、というのが、感性の錬磨、知識の吸収に向いている気がする。

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2006年10月25日 (水)

快楽亭ブラックの映画評

 快楽亭ブラックが雑誌にもっていた映画欄が次々に打ちきりになっている。『TV Taro』の映画欄が楽しみで、真っ先に読んでいたので残念である。
 
 快楽亭はブログ(http://kairakuteiblack.blog19.fc2.com/)で、

何よりショックなのは、もうあっしの映画評が望まれていないということだ。
(2006.9.20)

と述べる。
 たしかに、辛口だし、趣味が名画系(古い邦画)に偏っている。一般的な映画の観客とは趣味が違うのは事実である。

 が、打ち切りの理由は別のところにあるのではないかと疑っている。

 快楽亭ブラックは『放送禁止落語大全』(洋泉社、2006.4)を上梓しているように、非常に攻撃的な、普通のメディアでは尻込みするような題材を高座にかけている。

 以前は、快楽亭ブラックが何をやっているのかよくわからないまま、映画に詳しい人としてライターに採用されていた。それが、快楽亭ブラックが借金騒動以降、積極的に本やCDを出すに及んで、落語家としての実態が依頼主側にわかってしまったのだろう。

 快楽亭ブラックの高座は右翼の恫喝の的になりかねない。快楽亭ブラックを脅してもお金は出てこないだろう。だが、記事の依頼主はそうではない。あんなやつを雇ってどういう了簡だと因縁をつけられかねない。
 借金を返そうと、積極的に打って出たのが裏目に出た。臭いものには蓋の尻尾切りにあったのではないか。

 原稿収入が減って、快楽亭ブラックは今後ますます苦しい生活を送らねばならない。
 私に出来ることは、高座を聴きに行くかCDを買うぐらいだが、前者は田舎暮らしと育児で厳しい。せめてものことと、新宿のテイトムセンに寄るときは、CDがないか確認することにしよう。

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2006年5月13日 (土)

鈴木敏夫 プロフェッショナル その二

 前日の続き。

 二点目は、企画がはじまる最初に、自分の考えを紙に書いてしまっておく。人と意見をまじえて、いろいろと迷ったときに、その紙を取り出して見るという点である。それに対して、女性キャスターが最初から答えが決まっているということですか、と言った。ちなみに、韓国からの留学生で日本のアニメや漫画が好きな人にこの話をしたところ、同じ反応をされた。
 違うのである。最初に自分が何を考えたか、何をやろうと思ったか、というのは、実際に仕事を進めていくと、わからなくなってくる。そのときに、最初に書いた紙を見れば、自分が何のつもりでその仕事を始めたのか思い出せる。
 論文をはじめ、少し長めの文章を書くときには、あらかじめ要約を作るように私はしている。論文のミニチュアを作って、それを大きくして肉付けする。そうすれば、書きやすい。資料を操作したり、新たに資料を読み進めるなどして、こまごまとした細部を書いていると、自分がいったい何をやりたいのか、何をやろうとしているのかを忘れてしまう。そこで、要約の出番である。
 もちろん、完成した論文は、要約を単に引き延ばしただけのものでない場合がほとんどである。何か付け足したり、修正したりしている。さらに、投稿のため、要約を付さねばならない場合、最初に作った要約はまったく使えず、新たに書き下ろさねばならない。論文完成後の要約は、まんべんなく内容をかいつまんでいるが、最初の要約は、重要なところだけが書かれているからである。
 鈴木敏夫がやろうとしていることは、かなり納得のいくことだった。

 余勢を駆って、鈴木敏夫の『映画道楽』を買う。第二部映画製作編が、『水滸伝』のようにおもしろい。その他、さらに感じるところもあったのだが、それはまた別の機会に。

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2006年5月12日 (金)

鈴木敏夫 プロフェッショナル その一

 NHKの「プロジェクトX」の後釜に「プロフェッショナル」という番組がある。ほとんど観ていないのだが、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫の回(2006.04.06)は興味を持ったので、録画し、つい最近になって、それを観た。
 いろいろと刺激を与えられる内容だったが、特に納得したのが二点。

 一点目は、組織の中で悪者を作らないこと。組織の中で、誰か悪者を作って、それに文句をいって追い出してしまえば、今度はまた次の悪者を作らねばならなくなると鈴木は述べていた。何かを制作するのは総力戦である。現場の人間としては、苦労のはけ口として誰かスケープゴートを作りたくなるが、現場の人間たちを監督する立場からすれば、一人の無駄もつくりたくないはずである。
 ブログ記事で『オシムの教え』を素材に、オシム監督も、誰かを決めて叱ることをしないと言っていたことを書いたが、鈴木敏夫とオシム監督とは共通する。
 もう二年ほど前だが、渋谷である人の結婚を内輪で祝う会をやって、二次会(三次会?)は、渋谷の中央街にある焼き鳥居酒屋に入った。土曜日だったが、私が座った真裏に、初日をすませた劇団の一行がきていた。演出家とおぼしき中年男性が、劇団員とおぼしき若者たちにむかって偉そうに、能書きをたれていた。特に一人の劇団員をネチネチとしめあげているようで、「オレが何を言っているかわかるか」「わかりません」「○○(伏せ字は劇場名。まったくたいしたことのない劇場だった)のプロセ(プロセニアムアーチ。舞台を額縁に見立てたときのフチ)の高さを考えてみろよ。ちっとは頭を使え」などと、もったいぶった言い方をしているのが聞こえた。芝居に関わっていた昔を思い出して、今までの楽しい気分が完全にぶちこわしになって、私一人テンションがさがってしまった。
 言いたいことなら、スバリと言ってやればいい。もってまわった言い方をすれば、より深く理解できると思うのは間違いである。ズバリ言ってわからない相手は、そもそも問題意識がないのだから、婉曲に絞り上げてもまったくの無駄である。

 二点目は明日載せます。

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2006年4月 5日 (水)

テレビなしの生活

 かつて三年半ほどテレビなしで生活していた。壊れたが金がないのでとりあえずテレビなしで生活したら、何の問題もないので、そのままにしていた。妻と暮らすようになって、妻が退屈してはいけないと、テレビを買ったのだが、私の方がしょっちゅう見ているので、テレビなしで生活していたとは思えないと言われた。
 冬季五輪のレークプラシッド大会(1980)のとき、私はアニメを見たかったのだが(『ニルスのふしぎな旅』だった気がする)、五輪はとても重要なのだからといって、泣く泣くジャンプ競技にチャンネルを変えられた。
 その後、トリノを含めて、冬季五輪は七回行われたが、今となってみて、母にとってあれは本当に大事なことだったのかと疑問に思う。世の中には重要そうに見えて、当人にとって実は違うことがたくさんあって、大きなスポーツイベントなど特にそうである。

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2006年3月27日 (月)

鬱々とする映画

 見終わった後に、鬱々とする映画がある。昔は、ハッピーエンドよりも鬱々としたバッドエンドの方が好きだった。『サウンド・オブ・ミュージック』のような話は嫌いで、トラップ大佐が前の奥さんを殺して湖に沈めているぐらいでなければ満足しませんよ(元ネタはヒッチコックの……)、とふざけて言っていた。
 二十代後半から、体力がなくなったのか、二時間ほど見たあげくに、暗い結末になるのは我慢できなくなった。そのような映画を観ると、時間を返せと思うようになった。バッドエンドに耐えられるのは、健康で強靱な人だけである。
 Zガンダムのテレビ版の最後を愛するような人のために、私が観た中で鬱々とした終わりの映画には、『砲艦サンパブロ』『西部戦線異状なし』『ブレードランナー(最初の劇場公開版以外)』『未来世紀ブラジル』『Uボート(ディレクターズカット版ならなおよし)』などがある。
 戦争映画は、悲愴なものが作りやすい。特に日本軍の視点にすれば、負けてしまうので、あたりまえである。反戦映画とは一ジャンルだと思うが、『Uボート』などを観ると、根本的に邦画の反戦映画とは作りが違うと感じる。
 基本的に、全体の調子が陰鬱である。ラストが助かりそうで助からない。という映画が観ていて鬱々とする。

補足:映画の紹介も書いていましたが、記憶が曖昧なので、削りました。ちょうど数日前にBS2で『砲艦サンパブロ』がやっていて、録画して終わりだけ観たのですが、かつての記憶通りでした。

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2006年3月26日 (日)

映画評:『機動戦士ZガンダムⅢ ー星の鼓動は愛ー』

            **ネタバレあります**

 先日『機動戦士ZガンダムⅢ ー星の鼓動は愛ー』を観てきました。本来ならかなり先まで観られないはずでしたが、ちょっとした事件があって、時間が生じたので、その隙に行ってきました。平日の昼で、十五人ほどの入りでした。女性客は、カップルで来た一人だけでした。
 新訳の最後ですが、ハッピーエンドになっていました。私としてはこれでよかったのだと思います。というか、子ども向け番組で、主要登場人物のほとんどが死に、主人公が最後に廃人になってしまうテレビ版の方が、どうかしています。テレビ版もこう終わるべきだったのです。
 廃墟の劇場での台詞が変更されたと思ったのですが、あとでインターネットで確認したところ、その通りでした。「あなたたちは地球の重さも大きさもわかっていないんだ」だったと思うのですが、カミーユにいい台詞を言わせたと思います。「人類は地球を捨ててニュータイプになって進歩して万々歳」的な発想はSFとしてはおもしろいかも知れませんが、「中世紀」の「地球人」である私にとってはずーっとさきのお話なのでかえってむなしいです。
 知り合いのディープなZファンが、ハリウッド的なハッピーエンドは嫌だと言っていたのですが(そいつはまだ観ていない)、Zファンにはどううけとめられたのか興味があります。
 とりあえず、鬱になる結末が好きな人のための映画を、明日紹介します。
 声優ですが、サラが池脇千鶴さんでなくなっていました。セイラさんの声が井上瑤さんのライブラリー出演であるように、ZⅡでの声優問題への答えは、アニメファンの懐古趣味に応えるということでした。ラスト近くのカイとセイラさんのツーショットを設けたのも、ファーストのファンへの配慮でしょう。
 営業的にはよかったと思います。
 内容について、予想されてはいたのですが、地球に帰る回数が減って、キリマンジェロの嵐やダカールの日がなくなりました。それに従って、ロザミアやフォウのエピソードが割愛されました。強化人間が出てくると、話がグンと暗くなってしまうので、それがなくなったことも、ZⅢの雰囲気を明るくしています。第三十三話から第五十話までが約一時間四十分になったのですが、全体的に、よく編集されていて、作った側にとっては快心の作だったのではないでしょうか。
 これで、全編描き直しだったら、文句なしだったのですが。

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2006年3月25日 (土)

映画パンフレット

 映画のパンフレットを買ったことがほとんどない。学生時代、貧乏だったので、映画を観に行っても、パンフレットを買う余裕がなく、それが習慣づいてしまったからである。
 観に行った芝居はビラとチケットをすべて保管してある。
 歌舞伎など伝統芸能では、パンフレット(筋書きですね)を必ず購入する。それがないとよくわからないからである。
 池袋に住んでいた頃は、映画館がたくさんあって、一度なくなった文芸座などでは、一回の料金で三本立てを観られたりしたので、かなりの映画を観た。その当時のB級映画にとても詳しくなったが、自分の人生に利するところがあったとは、今振り返ってみると、全く思えない。娯楽は娯楽だったのである。
 せめてパンフレットがあれば、映画にまつわる思い出や、映画そのものの記憶がよみがえりやすいだろうが、いまさらどうしようもない。

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2006年3月22日 (水)

映画のトイレ休憩

 映画も三時間ほどの超大作が珍しくないが、トイレ休憩がないのが常である。制作者としては、一気に見てもらった方が、観客が乗っていけると思うのだろう。ミュージカルでも「ラ・マンチャの男」が中休みを抜かすことで、成功したことは有名である。また、劇場としても、少しでも回転をよくするためには、トイレ休憩は入れたくないはずである。
 私が体験した中では、オールナイトを除けば、『東京裁判』(1983)で、一回のトイレ休憩があっただけである。とある国では、映写機が一台しかない映画館がほとんどで、リールをかけなおすたびに、明るくなって休憩になるといった話を新聞で読んだことがある(いつ、どこの国、何新聞かは失念)。休憩では、トイレに行くほか、それまでの感想を語り合うなど、違和感なくやっていると書いてあった気がする。
 今どきの映画館の椅子はとても座り心地がよいが、それでも三時間ほどの映画を休憩なしでみさせるのは、ちょっとした暴力である。日本泌尿器学会とかが、二時間半以上の映画は休憩も設けるべきと勧告してくれるとありがたい。
 「長編映画、休憩あります」の条件で上映する映画館があったら、けっこう人が集まるのではないか。休憩時間に、おせんやキャラメル加えてパンフレットを売れば、それなりに収益があがると思うがいかが。
 

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2006年1月 5日 (木)

『ハリーポッターと炎のゴブレット』(字幕版)

 『ハリーポッターと炎のゴブレット』(字幕版)を観てきました。映画版『ハリーポッターとアズカバンの囚人』を観たときは、原作および翻訳本を一切読んでいなかったのですが、今回は翻訳本はもとより「HalfBloodPrince」(謎のプリンスの邦題はやむを得ないか)まで読んでの観劇です。
 「炎のゴブレット」は翻訳本で二冊組と従来の倍の分量があります。上映時間もほぼ三時間ととても長かったのですが、なんとか時間内にうまくまとめられています。私は十分楽しんだのですが、一緒に観に行った妻はさわりだけのダイジェストという印象で、底が浅い感じと言っていました。
 なんと、三歳ぐらいの女の子を連れてきているおかあさんがいました。どうなることかと心配したのですが、一回退場しただけで、女の子は最後までおとなしくしていました。もっとも、女の子はずっとおかあさんにしがみついたままで、スクリーンを観ておらず、せめて吹き替え版に連れていってやれよと心より思いました。

 以下、ちょっとネタバレですが、気になったことを一点だけ。
 最後の試練の迷宮(『シャイニング』のジャック・ニコルソンが出てくるかと)で、セドリック・ゴドリーが樹木に襲われた際に「Harry! Harry!」とハリーの名前を呼びます。字幕では「助けて」になっていたと思います(間違っていたら教えて下さい)。
 字幕の戸田奈津子さんは、誤訳で有名で、『指輪物語』の映画版では直訳すればいい箇所を意訳したことからおかしくなってしまったのですが(なおDVDでは修正されている)、ここも直訳でよかったのでは。
 セドリック・ゴドリーはホグワーツ校の正統な代表であり、ハリーよりも年上です。ゴドリーにも矜持というものがあるでしょう。ここで「Help me !」と言ってしまっては、ぶちこわしです。助けてといいたいけれど言えないから「Harry! Harry!」と言うにとどまったところに、機微があるのだと思います。

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2005年12月25日 (日)

ぐ~チョコランタンの作劇法

 子守をしていることもあって、NHK教育「おかあさんといっしょ」の着ぐるみ人形劇「ぐ~チョコランタン」 をよく観る。私(いま満32歳)にとっての「おかあさんといっしょ」の人形劇は、「ぶんぶんたいむ」や「にこにこぷん」である。
 記憶が定かでないので、ひょっとしたら的はずれかもしれないが、「ぶんぶんたいむ」や「にこにこぷん」と「ぐ~チョコランタン」を比べると話のつくり方に大きな違いを感じる。
 昔の人形劇は「ぶ~ふ~う~」のオオカミや「にこにこぷん」のじゃじゃ丸のように、やんちゃな悪玉が入っているのが普通だった。良い子と悪い子がいて、悪い子が無茶をして騒動を起こすのが基本的な話である。良い子と悪い子のかけあいで進んでいく。古い形の漫才に近かった。
 「ぐ~チョコランタン」では、ジャコビは、発明好きの男の子なのだが、道徳から逸脱するような無茶はしないのである。
 毎回の話は、妖怪や宇宙人が出てきたり、ジャコビの発明品で騒動がおこるなどして進んでいく。だれかが引っ越ししなければならなくなるとか妹が姉に優しくしようとするとか、メインキャラクター同士の掛け合いによって進んでいくこともあるが、何か異分子を入れて話を作る回が圧倒的に多い。端的に言えば、ドラえもん化している。
 そんなわけなので、メインキャラクターのズズと、脇役の「伝説の勇者」ガタラットが同時に出る場面では、ガタラットが強い印象を残してしまい、ズズの影が薄い。いくら高齢化社会でも、ガタラットがしゃしゃり出てはおかしい。
 九州弁をしゃべるジャコビが悪玉になってしまうといろいろと問題があるのかもしれないが、ここはジャコビの性格づけをやんちゃにして、あくまでメインキャラクター同士のやりとりだけで話を作るべきである。
 「ドレミファどーなっつ」を観ていないので、この路線変更がいつ行われたのか興味がある。

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2005年12月13日 (火)

映画評:『機動戦士ZガンダムⅡ -恋人たち-』

 12月1日にシネリーブル池袋で『機動戦士ZガンダムⅡ -恋人たち-』を観てきました。一作目は三人で観ましたが、今回は都合がつかず一人で観ました。映画の日だったそうで千円で観られて得しました。平日昼間の回ですが、映画の日のせいか、三十人ほど入っていました。埼玉でⅠを観たときは、男客かつ十代の若者ばかりでしたが、カップルあり、女の親子連れありと客種に富んでいました。

 最近になって、知り合いの美少女Kさん(二十代ですが)がビデオ百円の日を利用してZガンダムを観ていたことを知ってかなり驚いたのですが、ロボットアニメは男の観るものという固定観念は古いのかも知れません。でも、女性客にはGacktの曲を聴きに来た人もいるとは思います。

 さて、前回がテレビ版全五十話のうち第十四話までで、ちょっとペースが遅いと思っていたのですが、今回は第十五話から第三十二話まででした。ラスト一回で五十話まで終るか心配です。

 とはいえ、テレビ版十八話分を一時間半ほどの映画にするのも、結構大変だったようで今回の内容も大とばしで進んでいきました。テレビ版を観ている、予備知識があるの二点のおかげで、内容が追えたのかもしれませんが、よくまとまっているのではないでしょうか。変わったところとか、省略されたところが、上映途中にちらちらと頭に浮かんで、テレビ版を見直してみたいと思いました(ハッ、それが狙いか)。

 前作もそうでしたがテレビ版と書き下ろしの映像がごったになっているのが、つらかったです。ホンコンシティあたりは書き下ろしも多かったのですが、宇宙に戻ってくるとテレビ版の映像ばかり。もう、文句を言ってもしょうがないのかも知れませんが、もう少し頑張って欲しい。

 ホンコンシティから始まるフォウのエピソードは、心の中で「おぉ、ホンコンだよホンコン」と叫んでいました。実をいうと、Zガンダムはあまり好きではないのですが、やはりホンコン篇はいいです。ホンコン篇がZガンダムを名作にしているのは間違いないでしょう。書き直しのフォウはちょっと女らしくなったでしょうか(今時ならちょっとフェミニンになったぐらいいうのでしょうが)。

 フォウの声優が島津冴子さんでないのは、盆暗な私にもわかりました。サラの声が違うのも。今回のZガンダムではサラとフォウの二人の声優がオリジナルから変わっているのですが、このことについて、のちにまとめて書きます。

 今回の内容を観て思ったのですが、第三作では、ひょっとしたらロザミアのエピソードと、「キリマンジェロの嵐」「永遠のフォウ」が割愛されるかもしれません。

 書き直しですが、アニメ技術の向上は感じます。冒頭でクワトロたちが正面に滑り降りてきます。アニメで真っ正面に移動する人(物)を描くのは難しいと、宮崎駿が書いているのを読んだことがあります。コンピューターがそういったことを可能にするのでしょうか。戦艦の動きなどもそうでしたが、ところどころに、どうだこの技術を見てみろ!と言わんばかりの場面がありました。

 新訳をうたっていますし、テレビ版と切りはなして、映画版を評価したいのですが、それを妨げているのは、しつこいぐらいくりかえしますが、テレビ版の映像を使っていることです。それがなければ、今回の声優問題はなかったか、より小さなものだったと思います。

 島津冴子さんは、もう声優業をやめてしまったのかと、うちでネット検索して驚きました。島津さんが代理人を通して発表している内容などから判断すると、どうやら、
 1、音響監督が何らかの理由で島津さんを使いたくなかった。
 2、音響監督が何らかの理由で「ゆかな」さんを使いたかった。
 3、あるいはその両方。
によって、今回のフォウは島津さんからゆかなさんになったそうです。何らかの理由については、ネット検索しかできない私にはもうわかりません。

 それで、フォウを島津さんに戻して欲しいという運動が起きているのが声優問題です。
 常識的に考えれば、絶大な人気があったフォウの声優をかえてしまうのというのは、変です。しかし、一部で噂されるように、島津さんに大きな故障があったり、音響監督の藤野貞義氏が膝にのった女性を抜擢した、という極端な話ではないと思っています。
 
 私は、役者の半数程度を毎回集めてくる形式の劇団にいたことがあります。ある公演で、お客さんにウケても、なんとなく一緒に仕事がやりづらい、同じタイプでもっとよい(と思われる)役者を使いたいといった理由で、演出家が次の公演にはその役者を使わないということが何度もありました。
 
 今回の藤野貞義氏の件は、サラを池脇千鶴さんにまかせたこともありますし、声優の面でなんらかの新機軸を打ち出そうとしていたのだと思います。

 しかし、大人だったら、少し探して連絡が取れなかったのでこれ幸いと知らないところで話を進めるのではなく、徹底的に連絡先を探して島津さんに断りを入れておくぐらいの仁義はきっておいてよかったのではないでしょうか。
 島津さんのフォウを楽しみにしていた人は憤懣やるかたないでしょうし、島津さんの心中は察するに余ります。

 それはそれとして、ゆかなさんのフォウですが、声質は島津さんよりやや細いですが、演技は島津さんの型にのっとったこともあって、しっかりしていて、きちんとフォウを演じきったと思います。山田康雄さんから栗田貫一さんに声優が変わった頃のルパン三世のように(今はかなりいいそうですが)、ちょっと気持ち悪くて受けつけないなぁということはありませんでした。
 
 こんなことを言って慰めになるかわかりませんが、Zガンダムが、百年、二百年と受け伝えられ、時には再アニメ化などをされていく際に、おそらく島津さんのフォウが、のちのフォウを演じる人たちの亀鑑になるのではないでしょうか。

 フォウの声優変更より、演出の違いという点で、検討しなければならないのはサラの声優変更だと思います。

 正直に言いますとテレビ版の時は、サラは見ていてどうでもよいキャラクターの一人でした。映画版では、サラのエピソードは多く取り上げられていて、サラというキャラクターを話の中心に据えようという意図が伝わります。声優ではなく、普通の役者の池脇千鶴さんをもってきたのも、サラを重視して、といって間違いありません。
 
 池脇千鶴さんのサラですが、上映中は誰がアテているんだ?、ジブリのアニメかい、と思いました。エンドロールで池脇さんだとわかったのですが、あえてプロの声優をつかわないジブリのアニメと同様の効果があったと思います。台詞が浮き立って、印象づけたという点では成功でしょう。

 しかし、映画版では「シロッコの眼」などパプテマス・シロッコがらみのエピソードが割愛されていることもあって、梟雄シロッコの凄さが伝わりません。結果として、シロッコに縛られているサラも、あやふやな感じがします。
 これは映画の尺にかかわるので、どうしようもないのかもしれません。第三作で、第二作でここまでサラをとりあげたことが無駄にならないことを祈ります。

 そういえば、バスク・オムもでてきません。視覚障害者への偏見を助長するとか非難をうけて、登場できなくなったとかでなければよいのですが(出てこなくてもいいけど)。

 声優の変更は、演出効果としてはともかく、営業面では失敗だったのではないかと思います。アニメファンは非常に保守的です。ノスタルヂアを求めてZガンダムの映画版を観る人も多いでしょう。その人たちへの切り札は、これは新訳なんだ、ということになりますが、テレビ版の映像が多く使われているようでは説得力がありません。
 かえすがえすも、予算不足が悔やまれます。

補記:2005年7月15日の記事が第一作の感想です。

補記2:『語ろうZガンダム!』(レッカ社著、カンゼン、2005・10)の「ゆかなさん」のインタビューを立ち読みしました。ゆかなさんはTV版を見ていないそうなので、ゆかなさんのフォウが島津さんのフォウに沿ったものという見方は間違いかもしれません。ただし、地声に近い声を出したら、富野監督に「アニメじゃないんだ!」と怒られたので、ロザミヤ・バダム対象のオーディションで使ったより低い声を出したそうですので、演出する側は島津さんのフォウを意識していたのではないかと思います。2005.1.02

補記3:そういえばバスク・オム劇場版第一作にでていました。誰も指摘がなかったというのは、その筋の人たちは私のブログなど読んでいないということか?2006.2.22

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2005年11月18日 (金)

紀宮さまとクラリス

 十五日火曜日に紀宮さまが黒田慶樹さんに降嫁した。失礼を書くと、むかしは紀宮さまは不細工だなぁと思っていた。しかし、私も三十を過ぎたこともあって、三十代の女性を見ても、美醜はあまり人物評価の要素としては高い順にこない。品の良さそうな方だなぁと思ってテレビを観ていた。
 熱心に観ていたのではないので、どういうきっかけで映ったのかわからないが、ヨーロッパのアルプスとおぼしき背景に、お城と二人の男女が描かれた絵が紹介された。紀宮さまがお書きになった絵だそうで、どこかで見たようないびつな城の形と女性の髪の色が茶色なのは気になったが、皇族であるし、実際に訪問なさったどこかの国を描いたのだと瞬時には思った。
 ところが、アナウンサーは今回のご結婚のドレスは紀宮さまがお好きな、あるアニメのお姫様をイメージして作られたという紹介があった。
 ああっ、わかってしまった。『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスだ。紀宮さまも大人の気品があっていいねぇと思っていたのだが、ご本人はいつまでもお姫さまの気持ちをもっていたのだろうか。
 実をいうと、私ども夫婦は結婚式を挙げていないので、妻にそういったお姫さま願望があるかわからないが、女性一般の心理として、紀宮さまにもとくに驚くには価しないかも知れない。それに、日本には稀少な本当のお姫さまだし、まあいいんでしょうね。
 紀宮さまがクラリスだとすると、黒田さんがルパンというわけで、そう考えると、黒田さんの雰囲気もルパンっぽく見えてくるのが不思議である。

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2005年9月20日 (火)

『SHINOBI』観てきました

『SHINOBI』を観てきました。原作の山田風太郎『甲賀忍法帖』と比較すると、月とスッポンです。とはいうものの、『甲賀忍法帖』は天才山田風太郎が書いた一連の忍法帖の中でも傑作中の傑作で、そう簡単に匹敵するような映画が出来ると思うのが贅沢だと思いましょう。
 役者を中心に観るなら、美男美女をはじめ個性的なあるいは演技達者な人たち(もちろんこの要素が複数ある人もいます)がいっぱいでているので、けっこう楽しめます。私としては、虎牙光揮演じる筑摩小四郎がよかったです。やはり、アクション映画はトンボを反れる(もともとトンボを切るは誤用)ぐらいの人が出てないと面白くありません。アクション映画では音声を拾い損ねることが多いのに、せりふがちゃんと聴き取れるように録音されていたことは評価されてよいでしょう。ロケも遠くまで出かけたようで、日本の自然と四季が美しく描けていたのも眼福でした(タイトルといい外国に売ろうという魂胆があるのかもしれません)。基本的に「絵」の綺麗な映画です。
 
 細かいアラを指摘していけばキリがないのですが、なぜ映画が原作に及ばないのか、大きなことだけひとつ書きます。山田風太郎の作品には共通する大きな主題があります。「『大義、親を滅す』ることの悲劇」がそれです。「大義親を滅す」とは「主君や国の大事のためには肉親を捨てるのもやむをえない。大きな道義のために私情を捨てること。(広辞苑第五版)」ということです。山田風太郎の小説では大義と私情のはざまで葛藤する人々の姿が共感を呼ぶのです。
 『甲賀忍法帖』もそうで、甲賀弦之介と朧が、自らが背負う立場や役割と自分たちの愛の間で苦しみます。映画『SHINOBI』では、自分たちの愛を優先させていた二人がおのれの背負う立場を優先させていく姿が描かれ、最後は朧が思いを封して弦之介刺し、頭首として二つの谷を救います(弦之介の側から見ると谷のためにわざと刺されたことになります)。大義が親を滅するという点で、風太郎の味わいを出したつもりなのかも知れません。
 しかし、原作では、おのれの背負う立場に強く影響されている二人(朧はちょっと弱気ですが)が、結局大義に押し潰される形ながらも自分たちの愛に殉じて言い分を通す(朧は自死しますが、弦之介は朧が勝ったことにします)ところが映画と違います。支配的な行動倫理とその変化の割合が逆なのです。
 映画が「私たち愛し合っています。でも結局は、それぞれの谷の頭領としてその立場に沿って行動します」であるのに対し、原作が「私たちはそれぞれの谷の頭領です。でも、やっぱり愛してます(殺せません)」なのです。前者の苦衷も心を打ちますが、後者の方が訴えるところが大きいのではないかと思います。
 原作のままでは、あまりに朧が受動的で仲間由紀恵に見せ場がないと、ああなったのかもしれませんが、朧が弦之介刺す展開はどうだったのかなと思います。原作にほぼ忠実だった漫画『バジリスク』の偉さが今更ながらわかりました。
 
補記:映画を観てきた当日に書いた文章を手直しました。いらないところを削ったので読みやすくなったのではないかと思います。

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2005年9月 1日 (木)

見なければどうでしょう

  『女王の教室』というテレビ番組が話題になっているらしい。午後八時以降はよほど見たい番組がない限りテレビを見ないのが、ここ三年程の習慣になっているので、番組の存在に気がついたのも最近である。実際見たのも、何回目かわからないが、おしまいから数分程度であった。
 度を過ぎた管理教育をする小学校教諭の話だそうで、番組批判のメールが大量に局に届き、あまりに過激なので放送を打ち切るようにという投書がスポンサーにまで届いたらしい。
 わずかの時間ながら番組を見た感想は、演出が凝っていて、小学生の子たちの演技が上手ということであった。ドラマとして、根本的な作りがもっと雑だったら批判も起きなかったかも知れない。
 話題になっていることを知って、番組紹介のホームページに行き、あらすじを確認した。文章ではなく、場面場面の映像と台詞をフラッシュで紹介するようになっていたので、見終わるのに随分時間がかかった。時間がかかるかわりに、番組の雰囲気はよく伝わる。あらすじを見た感想は、天海祐希もよくそんな役引き受けたなということである。天海祐希演じる「阿久津真矢」の性格だが、いまふうの言葉で言えば「ありえない!」のである。やっぱりお芝居はお芝居であって、見る人の目を引くために極端に出来ているし、それが世の常である。
 しょせんはお芝居なのだから、気にくわなければ、チャンネルを変えるか、テレビを消すかしてしまえばいいのではないか。私は、ある新書の内容に腹を立てて原稿用紙十枚程の批評文を書いたことがある(結局ブログには載せないことにしました)。その本が間違った論理を使って脅迫的な内容を読者に突きつけており、啓蒙的な書物であるべき新書でそのようなことが書いてあることに腹を立てたからである。テレビで放送されるものなどろくなものがないと見切りを付けているので(特に民放はひどいなぁ)、テレビで腹の立つことがあれば見ないだけの話なのだが、投書(メール)して文句を言う人は、テレビ放送の善良性をまだ信じている人なのだろう。
 『女王の教室』のエンドロールは、撮影が終って天海祐希がスタッフに挨拶して退場する中で流れる(私が見た回からその後変わっていなければ)。映画のエンドロールで、メイキングが使われるのは珍しくないので、テレビでもやっただけかもしれないが、それよりあらかじめ番組批判に備えて、『女王の教室』が作り物であることを伝える役割を果たしている気がする。文句があったら、エンドロール見て下さいよ、これは作り物なんですよと。『女王の教室』の視聴率は15~20%のあたりとそう悪くないそうで、『女王の教室』をめぐる騒動に番組制作者はしてやったりと思っているのではないか。

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2005年8月19日 (金)

ベスト・キッドのヒロイン

 私がまだ学生演劇に携わっていたころ、ハムレットをもじった現代劇を作ったりしたこともある脚本家だった知り合いのNさんが、映画『ベスト・キッド』について語ったことがある。Nさんは私より四歳年上で、一度は芝居をやめたにもかかわらず、また芝居をはじめて、私が舞台スタッフをすることになったある芝居の端役をしていたので、話しをする機会があったのである。
 『ベスト・キッド』は男の主人公が3まで続くのだが、ヒロインは各作ごとに替わっている。2・3とも、冒頭は次のようになっているという。主人公が車を洗っていると、空手の師であるパット・モリタがあらわれ、彼女はどうしたと聞くが、主人公は別れたよの一言で済ませる。その一言で、前作のヒロインのことは清算されてしまって、新たなヒロインが心おきなく登場することになる。
 ヒロインのためにあれだけ大立ち回りをして愛を勝ち取ったことが、いとも簡単に無になってしまうことをNさんは言いたかったのだと思う。Nさんは私と同い年の女優のFさんのことを好きになって、役者として復帰したのだと公演中に噂を聞いた。FさんとNさんとは全く接近することなく、Fさんは同じくその芝居に参加していたS君という年若の役者と、公演終了後つきあい始めた。
 その後のNさんの胸中は知りようがないが、意外と達観していたのではないかと思う。

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2005年8月 7日 (日)

映画評:『逆境ナイン』

 きわめて不足している時間をやりくりして、七月中旬に島本和彦原作の映画『逆境ナイン』を観てきた。私はここ三年程島本漫画に関心を持っている。『逆境ナイン』はおととしネットオークションで手に入れた。長らく絶版だった漫画が復刊されることは知っていたが待てなかったのである。
 最初の五分ほどは後悔していた。あきらかに安い予算と余裕のない日程で撮られたこと。漫画的表現を再現するために用いられた特殊効果の貧弱なこと。日本映画にありがちな、メジャー映画のどうでもいいパロディがあること。その前に観た映画が『スターウォーズ・エピソード3』だったこともあって、様々な面でその落差にがっかりしてしまったのである。
 だが、劇場を去るときには、私は『逆境ナイン』に満足していた。最大の要因は、主演の玉山鉄二の熱演である。不屈闘志というほぼありえないような人物を、気迫のこもった演技でやりとげた玉山鉄二に満足したのである。私が入ったのが夜十時からの回で、私を含めて男性二人(知り合いではないです)、玉山鉄二ファンとおぼしき女性二人、最後列で観ていた非番の劇場バイトとおぼしき女性二人が観客の全てだったのだが、おそらく玉山鉄二ファンの女性二人はかなり満足できたのではないか。女子マネージャーを演じた堀北真希も魅力を存分に発散させていたので、私以外の男性客が、島本和彦好きではなく、堀北真希のファンでも満足しただろう。
 先に述べたように、映画としては荒い出来だと言わざるを得ない。しかし、それでいいのだ。原作は島本和彦の漫画だが、島本和彦という漫画家は決して絵がうまいわけではない。『燃えよペン』『吼えろペン』に描かれるような、厳しい締め切りをくぐりぬけながら、作者自身の持つ激しい情熱のため、時には破綻しかねない物語を、名編集者ササキバラゴウと一緒になんとかまとめあげた作品が『逆境ナイン』である。そのように荒削りながらも、どうしても読む者に訴えかける魂が鎮座しているのが、島本和彦作品の魅力である。今回の映画も荒いところはあるが、玉山鉄二の演技をはじめ、観る者がどうしても感じいってしまうものがあった。その点で、映画は原作の魅力をうまく再現できていたと言えよう。入れてほしかった台詞が削られていたり、ナインの特訓がなくなっていたり、監督サカキバラゴウが単なる道化になっていたりと不満はあるが、二時間に収めるために、脚本・編集はかなりがんばったのではないか。原作好きなら、映画もきっと楽しめるだろう。
 なお、エンディングロールは岡村孝子の「夢をあきらめないで」が流れる。これを最後まで聴かずに出て行った女性二人は損をしたと思うぞ。

(「TV TARO」E難度チェック風に)TV雑誌「TV TARO」の玉山鉄二インタビューによれば、初日に指を脱臼してしまったのこと。確かに、試合前日にもかかわらず、玉山鉄二が右人差し指にギブスをしている場面がある。

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2005年7月28日 (木)

山田奈緒子の設定

 テレビ朝日系列で放映されたドラマ「トリック」(堤幸彦演出)は仲間由紀恵と阿部寛が当たり役である。仲間由紀恵のその後の役者人生も「トリック」の成功なしにはありえなかっただろう。だが、「トリック」の初回(母の泉編)を観て、仲間由紀恵が演じた山田奈緒子は、堤幸彦がかつて演出した「ケイゾク」の中谷美紀が演じることを当初想定して設定されたのではないかと思った。初回では、山田奈緒子は心から笑えない、うまく笑うことができないといった難しい設定になっているのだが、仲間由紀恵にそういった細かい演技ができるわけではなく、まったくなおざりの設定になってしまった。だが、これが中谷美紀だったら無理して演じきることができたかもしれない。
 仲間由紀恵・阿部寛ではなくて、中谷美紀・渡部篤郎(この人はほっぺが魅力的だと思います)で演じられる「トリック」というのもそれなりに趣があっただろうが、仲間由紀恵・阿部寛によって、時には深刻な事件でも、明るく健康的に場面が作られてこそ「トリック」の人気があったのだと思う。

 なお、来年の正月ドラマ「八犬伝」で、仲間は伏姫、渡部はゝ大法師(ちゅだいほうし)らしい。楽しみのような怖いような。

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2005年7月15日 (金)

映画評:『機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-』

  「Yさん(私のイニシャルです)ってZガンダムに出てくるジェリド・メサにキャラが似てますよね」と心外なことをガンダマーの後輩諸子に言われたことがあって、ようしそれなら映画観に行ってやろうじゃないのということで、後輩たちと映画『機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-』を観に行ったのである。
 Zガンダムが放映されていたのは、私が小学六年生の時で記憶がかなり曖昧なので、予習を兼ねて別冊宝島『僕たちの好きなZガンダム』を見て、一応の流れを確認しておくことにした。初代ガンダムにはやや思い入れがあり、その内容も鮮明に記憶にしているにもかかわらず、Zガンダムの場合、各話の内容がほとんど思い出せず、『僕たちの好きなZガンダム』を読んでも、そんな場面見たっけという程度なのである。実を言えば、Zガンダムは内容が陰惨かつ複雑に入り組んでおり、主人公は支離滅裂な性格をしていたため感情移入もできず、当時からあんまり面白いとは思っておらず、無理して見ようとも思っていなかったため見すごした回も多く(そのころビデオの普及率はかなり低かった)、それが輪をかけて内容をわからなくしていたのである。おそらくクラスの中で、ティターンズとエゥーゴがなぜ戦っているのか理解できていたのは、アニメ雑誌を購入していたT君一人だったろう。
 さて、映画の感想になるが、テレビ版のフィルムと新たに描き足したフィルムをつなぎあわせているのが著しく興を削ぐ。もっと気合いを見せて、今の作画技術で全編描き直すべきだ。四百十八席もある大劇場で見たので、テレビ版のフィルムは見るにたえない。パンフによれば、新しく書き直したところは劣化処理をほどこしてテレビ版と違和感がないようにしたそうだが、そんなことよりもっとすべきことがあるだろう。今の作画技術なら、昔は滑稽としか思えなかった円盤型可変MSアッシマーが非常に恰好よく描けるほどであり、全編それでやってくれよと大変惜しまれる。
 よい点は内容が整理されて筋がわかりやすくなったことである。テレビ放映時は、イデオロギー闘争であるにもかかららず、各陣営の主張がちゃんちゃらおかしくひたすら変だと思っていたが(なんで地球に住んではいけないのかわけがわかりません)、映画版では地球人対スペースノイドの人種間抗争として整理された(と感じた)ので、パレスチナ問題のようなものかとそれなりに腑に落ちた。
 主人公カミーユが名前にケチを付けられたからといっていきなり人を殴る場面は省かれて、その他カミーユの奇矯さが控えめに描かれるにとどまったのはよいことである。
 後輩によれば、台詞が変わったり、声優が昔と交替した役があったそうだが、私には全くわからなかった。
 主題歌は観る前までは昔のままでやってほしいと思っていたのだが、Gacktの曲はオープニングもエンディングもアニメに合って非常によく、申し分なかった。もっと聴かせてほしいと思ったほどである。
 観て損をしたとは言わないが、今更昔のフィルムの使い回しとあっては、「今のSEEDファンやスーパーロボット大戦などから入ってきたファンはZガンダムの内容などわからないので、ここらで要約版を作って、そいつらに見せて、また模型売ったれ」ということなんだろうと揶揄されても文句は言えまい。
 次作よりフォウが登場するが、服装はいかにも時代遅れとなってしまった(未来の話なんですがね)こともあるので、なんとか手をうってほしい。なにせフォウあってのZガンダムだから(ベルトーチカはどうでもいいです)。

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2005年7月 2日 (土)

映画評:『電車男』

 電車男は、本などになる前に、友人Aのホームページで存在を知った。ネットで生まれた感動話など眉唾だと普段なら思うところだが、Aが紹介するものは芝居でも映画でも音楽でも本でも見所のあるものばかりなので、当時長かった通勤時間を利用し、ブラウジングできるPHSを使ってログをまとめたページをためしに覗いてみた。最初は、軽い気持ちで読んでいたのだが、ひきこまれてしまって、帰宅途中にこいつはいかんと、乗り換え駅構内の喫茶店に入って腰を据えて最後まで読んだ。壁に向って携帯電話を覗いている中年男が涙していることに気づいた人はさぞかし気持ち悪かっただろう。
 映画になったので、内容を知りたがっていた妻と一緒に観に行った。二時間でまとまるのかやら、AAなどをどうやって映画に取り込むのかといろいろ心配していたが、うまくまとまっていて監督の力量がうかがえた。
 電車男の山田孝之をはじめ、すべての役者が好演していたのだが、やはり圧巻はエルメス役の中谷美紀だろう。サイトの中で「似ている芸能人」とされているからといった安直な理由で選ばれたのなら、大外しするのではないかとかなり心配していた。中谷美紀は演技が神経質すぎて好みの役者ではなかったのだが(歌手としてはけっこう好きですよ)、中谷美紀が得意とする映像向けの非常に細かい演技が見事に嵌っていた。映画として台詞を聴かせる場面が多かったのだが、中谷美紀は声がたいへん良くて心地よかった(しかし、映画を観ているときには歌手もしていたことを忘れていた)。映画版のエルメスをみてしまうと中谷美紀以外にありえないだろうと思えてしまう。ここまで中谷美紀がうまく演じてしまうと、連ドラでエルメスを演じる伊東美咲はかなりやりにくいはずだ。
 メグ・ライアンの出てくるようなハリウッド恋愛映画は、1「男女が出会うが気が合わない」、2「ふとしたきっかけでお互いのよさがわかって接近していく」、3「ふたりが結ばれる直前に、困難がきっかけで仲違いが起こる」、4「二人の恋もかくやというところまでいくが、困難を乗り越えふたりはむすばれる」といった展開が定跡である。
 電車男の場合、結ばれそうな二人の間にある障害は、電車男の自意識だけである。エルメスに対する電車男の引け目が障害になるわけだが、自意識とは馬鹿にできないもので、人間は自意識のために生き死にする存在であるにもかかわらず、ある人物の自意識とは他人にとって必ずしも理解しやすいものではないのである。電車男は終始おのれの自意識と戦い続けているわけだが、その引け目がどのくらい理解されるのか、映画にすると難しいのではないかと思っていた。映画で初めて電車男を知った妻は、涙していたので、うまくいったのだろう(どんなつまらないドラマでも泣くのですが)。
 それにしても、秋葉原のツクモ電機の裏通りで二人が結ばれる恋愛映画なんて、空前絶後に違いない。

追記 その後、テレビガイド雑誌により、テレビ版『電車男』はエルメス視点で描かれ、電車男のライバル?になりそうな二枚目男性を出すなど、けっこう手を加えることがわかった。伊東美咲演じるエルメスの性格付けは「天然」だそうで、この属性を強調するならやりやすいかもしれない。

追記2 米国から自動的にスパムコメントがつけられるので、この記事へのコメントは受け付けない設定にします。 2005年8月16日

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2005年6月22日 (水)

ちゅらさんの東京

 「ちゅらさん」というNHK朝の連続ドラマがあった。そのころ、二年半ぶりにテレビを手に入れたこともあってはじめのあたりはよく見ていた。沖縄育ちのちゅらさんは東京に出てきて一風館という下宿屋で暮らすようになるのだが、東京のどこなのかはっきりしない。護国寺から雑司ヶ谷のあたりだと感じるのだが、劇中で具体的な地名は明言されてはいなかったのではないだろうか。一風館での暮らしは、明らかに高橋留美子の『めぞん一刻』の一刻館を意識して描いたのだろう。無愛想・無関心な住民達とちゅらんさんがうちとけていく展開は面白かったが、いろいろと忙しくなったこともあって、その後は見る回数がぐんと減ってしまった。
 「ちゅらさん」がカルト的な人気を帯び始めたのは、私があまり見なくなった頃と一致している。後半は、現実感のなさが常に漂い、妊娠・出産の苦労は伝えられることがなく、ちゅらさんがかかる病気も具体的な病名は不明のままだった(知り合いの医療関係者は、男性医師(小橋賢児)が女医(小西真奈美)を振って看護婦(ちゅらさん)とくっつくところだけは現実的だと言っていた)。わずか一年で女の一生を描くという朝ドラは無理がつきまとうので、どのドラマもどこか非現実的な展開があるのだが、「ちゅらさん」の非現実さは、見ていて夢のようだと全体を感じるような現実感のなさなのである。「ちゅらさん」は、最初にちゅらさんの島にやってきた病気の男の子の夢だった、というオチがつくのではないかと、最後の最後まで疑っていた。
 このドラマがカルト的人気を博したことについて、大学生やフリーターなど自分の生活に現実感を得ない人たちが、理想郷としてちゅらさんの世界を愛したのではないかという分析が、当時ネットにあって、非常に納得した。その後、続編も制作されるが、非現実路線、理想郷路線が引き継がれたのは妥当であり、私も何回か見たが楽しませてもらった。
 もしちゅらさんの一風館が東京のどこにあるかがはっきりしていたら、たとえば浅草だから谷根千だから人情に包まれて生きていけたとするなら、あそこまで人々に共感されなかったと思う。わざとぼかして書いたのは卓見である。ちゅらさんはユートピアに生きているからだ。
 今期の朝ドラの「ファイト」は、逆境に挫けない女の子の姿を描いているようだが、視聴率が低迷し、「ファイト不発」などと揶揄されているのも、よく理解できるのである。
追記 沖縄では「ニライカナイ」、すなわち「奄美・沖縄地方で、海の彼方にあると信じられている楽土。そこから年ごとに神(赤また・黒また・まゆんがなし、など)が訪れ、豊穣をもたらすと考えられている。」(広辞苑第五版)という思想がある。ちゅらさんが、神であり、東京の人たちに「豊饒」をもたらしたとも、あるいはちゅらさんの島にやってきた男の子が神で、ちゅらさんに「豊饒」をもたらしたとも解釈できる。
 ドラマ内でおばあが東京に出る前のちゅらさんにニライカナイの話をする場面があるそうで、このドラマの構成はずいぶん考えられて作られたものだと思う。

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2005年6月 8日 (水)

映画『里見八犬伝』

 深作欣二監督作品の『里見八犬伝』だが、いろいろ毀誉褒貶はあるものの、豪華な役者陣や音楽など、それなりに楽しめる作品だと思う。ただ、薬師丸ひろ子と真田裕之とのラブシーンのぬるさは、日本映画史上屈指であろう。これより、ぬるいラブシーンのある映画はなかなかあるまい。さすがの深作欣二の手もアイドルの壁は越えられなかったのだろうか。
 また、NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』で非難囂々だった鎌田敏夫が脚本を担当しているが、各場面は面白いものの、全体を通して観ると全く駄目という傾向は、『里見八犬伝』ですでに顕著である。

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2005年6月 7日 (火)

原田知世の結婚

 好きな女性のタイプや女優を聞かれることが稀にあるが、特にありませんと答えるのも気まずいことが多いので、原田知世(のような人)と答えることにしている。
 原田知世の出る映画はすべて観たとか、出るドラマはかならず観るといったファンではなく、同じ郷里の長崎の出身でもあり、『時をかける少女』などを観てなんとなく好ましいと思っている程度である。それでも、好みのタイプの筆頭であるのは確かである。
 昨年、たまたま機会があって原田知世の代表作『時をかける少女』を、十年ぶりぐらいに観た。驚いたことは、私も年をとったせいか、印象がかなり変わって、映画の中の原田知世に対し、長崎によくいるタイプのきれいな女の子だと思ったことである。もともと私の方が五つ年少であって、しかも『時をかける少女』を最初に観たときは私が小学生か中学生ぐらいだったはずなので、ずっと年上の印象があった。もうひとつ驚いたことは、演技があまり上手でないということである。むしろ大根に近いかもしれない。それを初々しさに結びつけて映画を成功させているのは、大林監督の力量だろう。
 同時期に薬師丸ひろ子の『探偵物語』『里見八犬伝』『Wの悲劇』を観る機会があった。薬師丸ひろ子は、原田知世より上の扱いを受けていた角川映画の看板女優である。だが、私は顔の造作も雰囲気も嫌いだった。ところが、『探偵物語』や『Wの悲劇』の薬師丸ひろ子はすばらしかった。私が東京に出てきて、都会の女の子はきれいだなと思ったころの、きれいな女の子だった。演技はやや過剰だが、懸命さが伝わってくる感じだった。原田知世より薬師丸ひろ子の方が映画の出演回数に恵まれていたのも、故あってと思う。
 原田知世は2005年5月に入籍したそうである。妖精めいた印象もあって、結婚などしないのではないかと思っていたが、ちゃんと現実の色恋をしていたようである。一方、薬師丸ひろ子だが、最近『タイガー&ドラゴン』に出演していたのだが、すっかりおばさん扱いされていてため息が出た。角川映画の主役を張っていた頃に比べると、年を取ったのはいなめないが、味が出てきて非常に好きである。
 しかし、私がかつて薬師丸ひろ子ファンであったなら、今では好みのタイプは薬師丸ひろ子だということはないだろう。原田知世だからそう言い続けられるのではないかと思っている。

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