飯島友治『落語聴上手』(筑摩書房、1991.11)(よくもつけたりという書名)にある一節を紹介する。
安藤鶴夫が桂三木助の『芝浜』を褒めたことについて、「安藤さんねえ、『芝浜』の褒め方はタイヤキのアンと同じだよ」と飯島は述べた(57頁)。
以下がその下りである。
安藤鶴夫が四ッ谷でタイヤキを食べて「この店のタイヤキはすばらしい、尻尾までアンが入っている」とカンドウスルオ〔記者仲間ではその感動ぶりに対してこう命名していた〕を発揮。尾までアンの入っているタイヤキのお披露目の元祖になってしまいましたが、評論家といわれる人の言としてはちょっと首をかしげた。
「安藤さん、タイヤキは尻尾の部分にアンが入っちゃいけなんいだよ。あそこは口直しの部分なんだ。職人のおやつで腹っぷさぎに出されたもので、しっかりした家庭ではあんなものおやつには出しゃあしない。職人が汚れた手でそこをつまむ。アンが入っていないからそこが固くなっている。軟らかいところを食べているから最後の固いところで口を締めるんですよ。甘くなったアンをとり、口直しをする部分で、残りは捨てちまった。よしそこにアンが入ったところでなんグラム入る?二十粒かそこらのことでしょう」と話したら、「ハハァ」って言ってました。それ以後は、タイヤキの尻尾にはアンが入っているものとなってしまいましたが。
飯島友治は、安藤鶴夫をやりこめたと思って得意げだが、私は可笑しくてたまらなかった。飯島友治が生きていれば、「飯島さんねえ、あなたの落語評論はタイヤキのアンと同じだよ」と言ってやりたいぐらいである。
タイヤキをどこぞの店がはじめたさいに、飯島友治が考えたような機能を尻尾にもたせるために、尻尾にアンを詰めなかったとはとても思えない。
アンコを惜しんだのが自然であり、もっともな理由であろう。職人が尻尾をつまんで云々は、「江戸っ子は宵越しの金をもたない」のたぐいの、負け惜しみのこじつけとしか思えない。尻尾までアンが入っていないのを、かえって口直しになっていいやと開き直ったとしか思えない。
飯島友治の落語評論を一言でいうと自然主義である。スタニスラフスキーシステムにもとづいた新劇のような、写実的な演技を尊しとする。
同著に落語での模範的な「食べる演技」が記されているが、
左手に椀を持ちます。指は椀を支える形を示し、重さも意識している。右手は箸〔扇子〕をもって構えます。吸い物では蓋があるからそれをとり、口元まで運んでちょっと留める。吸い物は昆布や鰹節でだしをとるので、蓋をとればそのにおいが漂う。口元でそっと留めることによって暗示します。(49頁)
と、万事この調子なのである。飯島友治は落語家を集めて、写実的な演技を指導したが、その飯島友治にまっこうから反発したのが立川談志である。談志の弟子の立川志らくが、『全身落語家』(新潮選書、2000.09。37・38頁)において「写実派」と「印象派」ということばを使って、写実的に演じればよい落語になるわけではないことを説明しているのが、要を得ている(談志自身も同じようなことはいっぱい書いているが、どれに書いてあったか、さっと出てこないので、志らくの文章を参照先にしておく)。
今では、私自身も、写実的に演じることと、よい落語であることは必ずしも結びつかないと思う。
理屈のないところに、無理な理屈をつけて、「正しい」ものをこしらえてしまうことが、飯島友治の欠点である。それをよく示すのが、先述のタイヤキの一話であるのに、本人がそれにまったく気がついていないのが可笑しいのである。
**明日に続きます。**
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