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2007年4月28日 (土)

麺一本を

 いささか旧聞に属すが、東池袋の大勝軒が閉店した。池袋に住んでいた時期があるのだが、ラーメンの名店と薦められて、大勝軒に行ったのが、もう十一年前(たぶん、このあたり)である。

 朝、何時に行ったかもう記憶がないが、とにかく開店前にもかかわらず、もうけっこうな列が出来ていて、30分以上待ったと思う。注文してから出てくるまではほぼ瞬間といってよい時間だった。

 味はいうまでもなく、たいへんけっこうで、量にも満足した。西池袋ではなく、東池袋に私が住んでいたら、そして午前中は寝ている生活を私が送っていなかったら、何度も通ったはずである。

 驚いたのは目の前に座った客で、つけ麺だったかラーメンだったか忘れたが、一本とっては食べ、一本とっては食べる。食べるのも、また目をつぶり、眉間にしわを寄せ、文字通り吟味するという感じだった。私と変わらない20代前半の若者で眼鏡をかけていた。

 この男性客に驚いた話を剣道の友人の女性にしたところ、あんたがやっていることは、それと変わらないことだよ、と言われた。
 なんにせよ、素直に楽しめばいいところをいちいちこねくりまわさねば気が済まないところがそう見えたらしい。
 たしかに研究のために、本を読むとはそういうことかもしれない。もっとも、女性が言っていたのはそれに限らないようだが。

**GW中は更新を停止します**

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2007年4月27日 (金)

側面から観る芝居

 かつて凸型の舞台を作ったことがある。正しく言えば、その公演では私は制作で、制作側の要請として、舞台監督に作ってもらった。舞台が客席に張り出しているのは、シェイクスピアのグローブ座など、いくつか例がある。私の舞台は、張り出しというより、本舞台の両側を削って、高台の客席を設けたのだった。

 その公演は、私の集客努力が足りなかったこともあってか、観客が少なく、本舞台わきの客席を使ったのは一日だけだった。
 役者はみなみな演じにくかったと、ボヤいた。
 青山円形劇場のように、円形劇場もある。円形劇場での芝居はそれなりに観ていた。正面以外に観客を入れても、ちゃんとお芝居として成立するのだから、なんとかなると思っていたが、そう甘いものではなかった。

 さて、側面から本舞台を見るお芝居といえば、能がすぐに思い浮かぶ。正面席のほかに、中正面、脇正面の席がある。
 これが、ちゃんとお金がとれる席なのだろうかと、疑問があったが、ここ一年ほど、能楽堂でお能拝見の機会が増えて、氷解した。

 まず、地謡が側面を向く。これを見るだけで飽きない。
 役者も、側面を向くことが多い。能の演技もまわる動作が主で、とくに舞は旋回運動なので、側面からみても、損をした感じはしない。
 ワキは斜め後ろ向きに座るので、正面より側面からがよく見える。ワキツレは中正面に正対する。
 脇だと、橋がかりを通る能役者が近くから見える。これは楽しみだろう。
 能舞台が凸ではないのもよくわかる。正面より上手の席を作っても、地謡に隠れて、よく見えない。

 能をよく観ていれば、いろいろと工夫ができたはずだが、なんとなく凸舞台にしたのは失敗だった。いまさらながら、反省する。

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2007年4月26日 (木)

内田啓一『江戸の出版事情』

 今日は本の紹介。
 内田啓一『江戸の出版事情』(青幻舎、2007.3)がよい。B5版本文119頁総カラーで、税抜き1800円。
 河出書房新社の図説シリーズが、同じ程度の頁数で、カラーと白黒ページがまじって、ほぼ同じ値段である。たとえば、橘右近『図説 江戸文字入門』(河出書房新社、2007.2)が、カラーと白黒がまじって111頁。大きさは、横16.8、縦21.7センチでA5よりも横幅がやや大きい。
 図説シリーズも、この値段でよくやったという価格だろうが、『江戸の出版事情』は格安である。
 写真もこのためにあらためて撮ったのか、綺麗に写っている。筆者が、町田市立国際版画美術館学芸員をつとめたこともあるためか、構成も作品選択も美的に優れている。筆者の古典籍への愛情が伝わる好著である。
 ひととおりのジャンルが網羅されており、江戸の印刷物を概観するのに適当なのもよい。
 青幻舎は新興の書肆のようだが、頑張って欲しい。

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2007年4月25日 (水)

対談の打太刀仕太刀 その二

**前日の続きです**

 私が読んだ対談でもっとも見事な斬られ役を演じたのは、坪内稔典である。
 「芸術新潮」2006.6号は特集「芭蕉から蕪村へ 俳画は遊ぶ」と俳画特集なのだが、この分野でのスター学者雲英末雄の解説が多々ちりばめられ、また雲英文庫の展覧会の案内が記されるように、とにかく雲英末雄格好いいぞ本なのである。

 「芸術新潮」に収められた対談は、雲英末雄と佛教大学教授で俳人の坪内稔典でなされているが、ここでの坪内が悪役の演じ方、そして斬られぶりは、読んでいて爽快である。

まず、坪内が、

俳画で面白いのは蕪村だけという感じで、他の人のは正直言ってあんまりおもしろくない。絵としてもなんてことはないんじゃないかとおもってしまいます。

と口火を切る。こともあろうに、俳画研究の第一人者にむかってである。すぐさま雲英は「いやそれはちょっと違う。立圃にしても樗良にしてもふつうの絵とはちがう、俳趣、俳諧的な味わいというものがあります。」と切り返し、俳画のよさを説明する。
 坪内が愚かなのでは決してない。読者のために、わざと斬られ役となって、雲英の口から解説を引き出している。学者は負けず嫌いな人間が多い。坪内のようにさばけた人間は珍しい。

 そのあとも、雲英による蕪村の俳画の説明があって、坪内は、

なるほど。僕は何も知らないでぱっと見たときは、なにか意外なものが結びついていると考えました。甕から子供が飛び出すのも筧からツバキが流れ落ちるのも意外ですよね。でも、この図柄は司馬温公の故事を知っていなければおもしろくない。蕪村がこの絵俳書を贈った人たちは、この故事を知っているような教養人で、これを見ながら、句と画が呼応する楽しさを味わえる人たちだったということですね。

と、『美味しんぼ』の登場人物でもなかなかできなさそうな、納得ぶりを見せる。坪内自身のまとめもよい。

が、この程度は序の口。圧巻なのは、このあとである。
なんと坪内は、

先生、ちょっと見ていただきたいものがあるんです。知り合いからもらったものなんですが、(引用者、以下略)

と、軸物をとりだすのである。これは見事なまでの贋物で、雲英に一目で「あっ、これはだめです。」と烙印を捺される。坪内もすなおに「ニセモノの特徴を教えてください」と言い、以下贋物の特徴が雲英によって説明される。

 もはや仕組んであるのではないかという展開だが、編集部が軸物を用意したのではないとすれば、坪内自身、本物と思って持ってきたはずはあるまい。すごく茶目っ気があるというか、ここまで斬られ役に徹すると、むしろすがすがしさを感じる。

終わり近くには、坪内が、

今日先生のコレクションを見せて頂いて思ったのは、我々は活字というか、文字、言葉、書物だけに専門化し過ぎているということです。これは俳句に限ったことではないのですが、もっと絵とか美術的なものとの相乗作用を考えてもいいのではないか、そうすることでなにか開けてくる世界があるかもしれないと痛感しました。

と、平身低頭になる。

 さすがに、雲英もなさけをかけたのか、このあと坪内の「(引用者、前略)俳句の表現には根源的なところで、そういう問答という面があるんじゃないかと思うんですよ。」という発言に対して、「それは非常におもしろい視点だとおもいます。(引用者、以下略)」と俳人でもある坪内に手をさしのべて終わりになる。

 打太刀仕太刀のそれぞれの動きが見事にかみ合った、剣道の高段者による日本剣道型をみるような対談だが、ここまで上手にまとまったのも、自分は雲英の引き立て役と坪内が自覚していたためであろう。

補記:2008年10月6日に雲英末雄先生はお亡くなりになられました。私は近世文学の研究者なので、ちょっとだけお話したことがあって、あえば会釈するていどの関係でした。あまりに急にお亡くなりになったので驚いています。それに、学者にとって68歳で亡くなるとは早すぎます。紋切り型ではなく、惜しい人を亡くしたと思っています。

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2007年4月24日 (火)

対談の打太刀仕太刀 その一

 先日、森博嗣と土屋賢二の対談集『人間は考えるFになる』をとりあげた。
 対談は、打太刀と仕太刀がはっきりすると面白くなる。どちらかが、斬られ役(打太刀)になって、片方(仕太刀)に花をもたせないと、つまらない。

 相手を言い負かしてやろう。相手よりも一言でも多くしゃべって紙面に載せようなどとケチなことをどちらかが考えている場合はろくな対談にならない。

 森と土屋の場合、対談の回を重ねるごとに、土屋が素人代表となって、素朴な疑問を森にぶつけ、それに森が鮮やかな回答をするという形式が確立する。

 先崎学『先崎学の実況! 盤外戦』(講談社文庫、2006.5)に収められた、先崎学と森博嗣の対談では、さすがに先崎の本だけあって、先崎と森が途中で打太刀と仕太刀をかえて、それぞれの持ち味を引き出している。

 殺陣では、斬る側よりも斬られる側が上手でないと見栄えがよくないように、対談でも、斬られる側に力量がいる。
私は、対談で上手な斬られ役になる人を高く評価している。

**明日に続きます**

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2007年4月23日 (月)

考えるFになる

 森博嗣・土屋賢二の共著『人間は考えるFになる』(講談社文庫、2007.3)は、買うかどうか迷った。
 森博嗣の文章は好きだが、土屋賢二の、あの言語ゲームのような、もってまわった文体は読みこなせないからである。
 読んでみると、とくに問題はなかった。さいしょは「森:先生のお話の筋がまだ捉えきれてしませんが……」とかみ合わないところも多い。だが、土屋が打太刀、森が仕太刀という分担がはっきりして、対談がかみ合ってくる三章あたりから、がぜん面白くなる。
 森の小説理論にもとづき、土屋が「消えたボールペンの謎」という短編(処女)小説を記し、後半に収録される。
 随筆だと気になる土屋の言語ゲーム的文章も、小説の文章だと思うと気にならない。小説は構成も練られ、オチも気が利いており、面白い。土屋は小説家になっても、イケるんじゃないかと思う。

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2007年4月22日 (日)

MLA

 推理小説家森博嗣に「MORI LOG ACADEMY」(以下MLAと略)という随筆がある。肝腎の推理小説は代表作『すべてがFになる』を読んだだけだが、MLAは最新巻の五集に至るまで全部揃えている。
 この人のことは、先崎学『先崎学の実況! 盤外戦』(講談社文庫、2006.5)で先崎学と対談したので知った。
 MLAはもともとがブログの連載記事であり、
http://blog.mf-davinci.com/mori_log/index.php
で、読むことができる。
 だが、パソコンの前でじっくり読むより(毎日読んではいるが)、文庫本を気軽に持ち出して、ちょっと空いた時間に、頭の栄養を補給するのに適した内容である。
 バートランド・ラッセルは、自分の考えているようなことは、ウィトゲンシュタインがより巧妙になしとげてしまうので、生きる意欲が減退すると、愛人への手紙に書き記したという。私の考えているようなことも、森博嗣がよりエスプリのきいた文章で、形にしてしまうので、読んでいると、もうブログなど書かなくてもいいかと思ってしまう(手紙を送る愛人はいないが)。
 そういうわけで、意見が合致するHRや社会よりも、とてもじゃないが考えつかない、算数や理科の項が特に面白い。

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2007年4月21日 (土)

文楽2.0

 人形浄瑠璃とアニメは似ている。生身の人間が演じることを見せものにしない点で共通する。人が出てこないと、人が演じるよりも細かいことが表現できる。人間のできない演技もできる。人間が一人で演じれば済むのに、三人で一つの人形を扱うのは非効率である。にもかかわらず、三人遣いへと人形操りが進化したのは、その点につきる。
 また、人形芝居もアニメも外国では子どもが対象であるのに、日本では大人向けになっているのは、この利点による。

 人間が出る芝居は、どうしても役者に配慮しなければならない。千両役者をできるだけ多く集めればいい芝居になるかというとそうではなく、それぞれに見せ場を作ってやらねばならない。作劇に制約が多い。

 人が演じなければ、役者の見せ場に配慮する必要はなく、純粋に筋が洗練できる。元禄頃、まだレビュー色の強い初期歌舞伎に対して、人形浄瑠璃が近松門左衛門に見られるように、文学性の高い戯曲を持ち得たのはそのためである。

 人形浄瑠璃の魅力は文学性の高さであったが、歌舞伎も人形浄瑠璃から戯曲を移入し、作劇法を洗練させて、次第に追いついてくる。
 十八世紀を通して、人形浄瑠璃の人気が落ちるのと反比例して、歌舞伎の人気が上がっていったが、ともに文学性の高い戯曲をもとにするなら、人間が演じるほうが、観客を魅了する。

 「なんといっても歌右衛門でした」「私は海老様が大好きです」そういった、役者好きを生み出さない点で、人形浄瑠璃は負けている。
 劇場に行けば、上手の客席に座って、本舞台などそっちのけで、じっと大夫を見ている女の観客もいる。かつてはほぼ黒子だった人形遣いが、顔を見せるのも、人形遣いの地位向上とともに、観客の心を動かす要素の一つとして認められるようになった証しだろう。だが、人形が演じるという点で、人形浄瑠璃は歌舞伎に決定的な差を付けられている。

 この差を埋める方法が一つある。歌舞伎が「役者萌え」なら、人形浄瑠璃も「人形萌え」を作り出せばよい。現在、人形浄瑠璃の人形は、立役、女役など定型のものである。これを海洋堂に頼むとかして、もっと「萌える」人形にしてはどうだろう。
 義太夫は残すのも一手だし、現代風の音楽、声優を使うのも一手である。

 岡田斗司夫が、着物を着て、扇子と手ぬぐいをもって、座布団に座ってハナシをすれば、なんでもよいとする、落語2.0を提唱している。
 それと同じように、語り物つきの人形劇という形式を生かして、大人向きの現代的な人形劇、いうなれば文楽2.0を作れないものだろうか。

 残念ながら、以上のことは妄想にすぎない。落語は一人でするので、はじめやすいが、人形浄瑠璃には大勢の人が必要である。文楽はユネスコの世界遺産に登録された伝統芸能であり、既存の芸能者から、逸脱を期待するのも無理である。

 私が大金持ちなら、小林一三が宝塚歌劇を生み出したように、財を投じて、文楽2.0を実現させることも可能なのだろうが、今の身の上では宝くじにあたっても無理な計画である。

 とにかく、人形浄瑠璃とアニメは似ている。アニメはいろいろと姿を変えながら、世界に通用する価値を創造している。人形浄瑠璃が、その洗練にもかかわらず、もはや伝統芸能としてしか生きるすべがないことを、惜しむのである。

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2007年4月20日 (金)

許し合える世界

 子どものいいところは、いやなことがあってもすぐに忘れることである。喧嘩をしてもすぐに仲直りをする。

 大人の世界はそうではない。『史記』を読めばよくわかるが、人はうけた侮りや屈辱を決して忘れず、おもてには出さなくても、仇をかえす機会をひそかに狙っているのが普通である。

 アニメは子どもの世界観を反映するので、登場人物同士が喧嘩をしてもすぐに仲直りするようになっていた。

 NHKが放送した『アニメ三銃士』の大ボスのリシュリー卿は「うらぎり者は二度うらぎる」が口癖で、うらぎり者を許さなかったが、これが大人の論理である。

 『戦闘メカ ザブングル』では、中心人物のひとりであるラグ・ウラロは、主人公のジロン・アモスへの嫉妬から敵にまわって、元の仲間たちを窮地におとしいれる。大人の世界なら、裏切りはぜったい許さんということになるのだが、のちにラグの改心は受け入れられ、また仲間に戻ることができる。

 ザブングルはそういった点でリアルではない、ユルいという批判もあるが、そもそも絶対的な悪人を作らないことを含めて、ザブングルの許し合える世界は、気持ちがよい。ザブングルの終わりの歌「乾いた大地」は「もしも友と呼べるなら 許してほしいあやまちを」で始まるが、ザブングルの許し合える世界をよくあらわした好曲である。

 子ども同士の許し合えるザブングルの世界に比べて、Zガンダムは許し合えない世界を描いて苛烈である。Zガンダムのレコア・ロンドは、仲間から満たされないので、なんとなくそれまでの味方から離れて、敵側についてしまう。これは、ザブングルのラグと変わらないふるまいだが、ラグが戻ることができるのにレコアは戻ることはない。また、気分にもとづいたあやふやなうらぎりのせいで、レコアは、「欲求不満女」と、Zガンダムできわめて評価が低い。

 子どものラグと大人のレコアという差はあって、まあ大人だからね、と結論づけることもできるのだが、ザブングルだったらねぇと、レコアの不幸を不憫に思うのである。

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2007年4月19日 (木)

運がいいとか

 高校及び大学一二年のころは、麻雀をよくした。徹夜麻雀も月に一二度はしたと思う。私の麻雀の腕前は中の下で、金銭的には損したはずである。今となっては、あの時間をもっと有意義に過ごせばよかったと思うが、麻雀が私に教えてくれたことが一つだけ。
 ツイていたり、いなかったりは、その時々だが、長い目で見れば、実力どおりの結果になる。徹夜麻雀をしにいって、早い時間にボロ勝ちしていても、帰るころにはすっかり勝ちを吐きだしている。逆に、早い時間に大負けしていても、丁寧にやっていれば、その分もとりかえせる。
 また、勝つ日もあれば、負ける日もあるわけで、積み重ねで物事を見れば、運がいいとか悪いとか、運不運に一喜一憂する必要は、まったくない。全部、自分の実力の通りであり、自分の責任である。
 私は今までの人生でもうだめだ、絶体絶命だという事態になんどか陥ったが、それもなんとか切り抜けて今に至る。

 ただ、運が悪いと思うのは若くして病気になることである。人生が長ければ、前半で実力が出せなくても、後半でなんとかなる可能性は高い。不慮の事故、病気に会うことは運が悪いとしかいいようがない。
 長生きするのも芸のうち。年末年始と脂肪肝から体調を崩したので、私もここのところ注意している。

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2007年4月18日 (水)

NHK将棋テキスト、その他

 三月末のことになるが、2007年度NHK将棋講座テキスト四月号を購入。購入の理由は、渡辺竜王が講座を担当しているから。内容はやや上級者向き。中井女流六段が担当した前期が初級者向けだったので、入れ替わり。
 NHKの講座テキストの購入は、藤井猛九段が担当した藤井システムの講座いらいなので、もう六七年ぶり。
 池袋東武の旭屋に行って驚いたのが、テキストの数。囲碁が平積みで二十冊以上置いてあるのに、将棋は棚に二冊入っているだけ。地元の中型書店でも、囲碁は十冊ほどあるのに、将棋は二冊だけ。
 なんだこれは。将棋テキストが売れて、たまたま在庫がないのだと思いたいが……。囲碁に比べて、将棋は雑誌が多いので、ファンの嗜好が分散していると思いたいが……。
 いや、将棋は危機なのだろう。

 NHKの将棋講座テキストといえば、小学校四年生のときに、将棋部の先輩から、たしか青野現九段の棒銀戦法を借りて、読んだのが思い出。先輩のお宅までうかがい、NHKのテキスト数冊をうやうやしくうけとって、持って帰ったのが、今となっては懐かしい。
 下手の棒銀上手が困るというように、棒銀は強力な戦法だったが、駒の損得より攻撃を重視する将棋観が染みついてしまった点で、最初に覚えた戦法としてはよくなかったかもしれない。

 息子がそろそろ四歳になるのと、私が将棋が趣味なので、将棋の盤と駒を買ってきて、教えたらと、母や妻にいわれるのだが、乗り気がしない。
 自分の趣味は趣味として、息子にすすめたいとは思わない。将棋は好きだが、将棋が好きなせいで、人生は損をしている。損をしてまでやりたいか自分で判断できるころまで、教えなくてよいと思っている。

 女流棋士会の分裂騒動のさいに、棋士会が残留工作につかったアメが、NHK講座などの仕事の紹介だという。
 たしかに、前期の講座は独立派のリーダー中井女流六段が担当し、今期の聞き手の石橋女流四段も独立派。テキストみると、途中脱落したと聞くが、矢内女流名人も当初は独立派である。
 残留派では、斎田倉敷藤花が別冊の担当をしている。観戦記の二人は、独立派、残留派どっち。
 これが、ガラっと残留派で占められてしまうのかと思うと、残留派へのアメはそうとう甘みのあるものだといえよう。

 ちょっと話しはそれるが、今回の独立騒動はいまの女流棋戦のスポンサーが話しをまとめるべきだった。分裂して、女流棋士へのイメージが低下すれば、棋戦の価値も下がって、結果としてスポンサーが損をする。
 落語協会から円生が独立しようとしたときは、席亭が反対したのでダメになった。スポンサーが後押しする。あるいは反対する。そのどちらかで決まったはずである。

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2007年4月17日 (火)

考えながら書くな

 太田直子『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(光文社新書、2007.02.20)は、ブログならよいできだが、出版物としては、これを出版しなくてもという本である。内容は、本職の字幕制作の裏事情を除けば、それほど珍しい考察が書かれているわけでもない。だが、筆者の実直な人柄がうかがわれ、読後感は悪くない。
 なのに揚げ足をとって悪いが、気になる点をいくつかあげる。

 「そんなに叫んでどうするの ~「!」の話」の節は、字幕やテロップにかぎらず、「!」、「?」、「!?」(あわせて一字)の使いすぎをいさめた内容である。気になったのが、筆者がためしにつかった「かくて一億総ヒノタマ、みんなで叫べば怖くない!?」(66頁)の「!?」が行頭にきていることである。
 校正係の問題かもしれないが、出版物としては気持ち悪い。

 もうひとつは考えながら書いていること。「驚異の語学力」の節では、外国人力士の日本語上達法について、あれこれ考察したあと、「と、書いていたら、この疑問そのものをずばり書名にした本がすでに出ていた。」と宮崎里司『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(明治書院、2001.3。2006.3に新装版)を紹介している。
 だったら、「驚異の語学力」の節は意味がないのではないか。ブログなら、他人と見解がかぶってもいいかもしれないが、本にするなら、すっぱりと内容を削って、別の面白い話を入れればよい。

 『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕騒動について、原作ファンが文句をつけたのは、太田が指摘している字幕の長さではなく、ストーリーの改変につながる字幕の変更である。「You are not Boromir.」を「うそつき」としてしまったのが致命的だった。中学生でも翻訳できたし、字幕も問題がない長さだった。
 あの字幕騒動について、何が問題だったのか、太田が詳しく知らないのは明白である(196頁)。批判にさらされた同業者をかばってやりたい心情はわかるが、知らないことに関しては沈黙すべきである。

 「押し読ませ」の節や「売りたい ~胃痛編」の節で、映画配給会社がいかに字幕に介入しているかが、あきらかにされている。はなはだしい場合は、まったく制作者の意図を逆に取った字幕をつけるように強要する場合もあって驚く。

 『ロード・オブ・ザ・リング』の戸田奈津子も、話をわかりやすくししようとしすぎて失敗したのかもしれない。誤訳・珍訳と思える表現でも、字幕翻訳者の責任ではない場合があるとわかったのが、この本の収穫である。

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2007年4月16日 (月)

審美に

 雁屋哲作花咲アキラ画『美味しんぼ』第98巻(小学館、2007.4)は「日本全県味巡り 長崎編」で、故郷長崎が扱われていることもあって久しぶりに購入。むかし(おそらく七年ほど前)、古本屋で60巻まで『美味しんぼ』を一括購入したことがあるが、それ以来。なお、そのときの『美味しんぼ』はバイト先に寄付した。

 内容だが、もはや「るるぶ」漫画版という感じ。駆け足で、名産・名物を紹介していくと、旅行雑誌に限りなく近くなる。

 『美味しんぼ』なので、山岡と雄山との料理対決がある。味覚は主観的なので、人それぞれだろうが、長崎の味を知っている身からすれば、山岡側の料理がうまいんじゃないかなというのが率直な感想。

 ド・ロさまそうめん(けっこう食べるが)、六兵衛などは救荒食だし、イギスもうまくはない。そのあたりが割を食って、ぎりぎり山岡側が勝っていると思う。

 勝負は、京極が「双方とも長崎の食文化を見事に掴んだと高く評価するよ。共に優劣付けがたい内容やった。」(219頁)というように、ほぼ互角ながら、

単純に食文化だけでなく、長崎で一番大事な”平和と国際友好”を我々に突きつけて見せてくれた点で、「至高のメニュー」のほうが抜きんでていた。(220頁)

という理由で雄山側の勝利となる。
 どちらかといえば、長崎でもマイナーな郷土料理を集めた雄山側を勝たせてやりたいという、筆者の配慮もあったのかもしれないが、「平和と国際友好」が審美に関係あるかと疑問に感じる。

 もちろん「平和と国際友好」は大事である。諸手をあげて賛成である。だが、絵のコンクール、作曲のコンクールがあったして、「平和と国際友好」が表現されているから、入賞となるとして、どう思うか。
 単なるグルメ合戦ではなく、「平和と国際友好」が表現されているから勝ち、という方針がお好きな方もいるだろうが、私は釈然としない。
 味で勝負しているのだから味で決めればよい。単なる味の勝負だけでなく、テーマがなければだめと作者がしていることは、絵画や音楽と比べて、料理が劣った芸術だと、作者が感じている証しではないか。
 いつもはどちらがうまいか、読むだけでは優劣がつけられないので、見過ごしてきたが、今回は故郷の長崎の料理が扱われ、味が想像できるものだっただけに、違和感があった。

補記:ブログ記事はストックもあったし、新記事も書いていたのですが、なんとなく億劫でなかなか再開しませんでした。

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2007年4月 2日 (月)

甘くない菓子は

 味覚というたいへん主観的な話を一つ。

 うちのマンションの近くにチョコレートとケーキの店があって、高級感を出して、チョコレート一個を二百円で売ったりして、このあたりでは流行っている。

 だが、私は行かない。ひとつは、むかし書いたが店員の態度が好きになれないから。

 二つめはうまくないから。そこのチョコレートは、あまり甘くないのである。妻は、甘くないのが最近の菓子の流行で、カカオの風味が強く感じられるほうが高級感があるというが、私はとうてい受入れられない。

 デメルのザッハトルテを食べてみろ。梅園のぜんざいを食べてみろ。一口食べれば、頭を殴られたほどの甘さだ。「うわー、甘い。甘い」と思いながら食べるのが、いい菓子である。カステラの甘さを減じても、玉子の風味がよくでていて、いつものカステラより美味しいわとは思えまい。
 甘くできないのは、まともな砂糖を使っていない証拠。

 私にとって甘くない菓子は菓子ではない。

補記:新年度だからではないのですが、ちょっとバタバタしています。一週間ほど更新を停止します。

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