« 学力別クラス編成 | トップページ | スキーウェア »

2007年3月16日 (金)

Why思考とHow思考

 アメリカではなにをするにしても「Why?」(なぜそれをやるのだ)と聞かれた。日本では、「Why?」をとばして、「How?」にすぐいってしまう。とは、ここ二年ほどアメリカの研究所にいて、さいきん日本に帰ってきた友人の弁である。

 アメリカにいるうちに、Why思考に染まってしまったため、日本での、Whyはいいから、どうやるのかそれをはっきりさせてよ(How?)、という要求についていけず、戸惑っているらしい。

 さいきん英米文学の学術誌を読む機会があった。考証にきびしい国文学と比べると、ざっくりした研究だなと思う反面、どのような立場でどの手法で研究するかにとても気をつかっていると感じた。まず、立脚点はどこのなのかを問われる英米での文学研究は、それだけ社会と密接な関係にあるといえる。

 国文学だと、研究手法や対象はさまざまだが、なんでそんな研究しているのというご挨拶はない。もちろん、文学史で軽く見られているものより、重く見られているものを研究するほうが、評価される。だが、なぜそれを扱ったかなど、口をはさむのは、よけいなことと思われている。ただ、学問として科学的検証・論証がなされているかが問題にされる。ひたすら学問的な精緻さ(よくいえば。悪く言えば、些末なこと)を巧みに追究すること、すなわちHowが評価の対象である。

 英米文学はWhyも視野に入れておかねばならないので、英米文学は政治的な言説の荒波をうけやすい。国文学は社会状況と関わりが少ないので、やりたいことに専念できるという点はよい。そのかわり、社会からおいてけぼりをくって、見向きもされない危険性がある(そして、その危険はほぼ現実のものとなった)。

 国文学では、指導教員がじぶんのうけもちの学生の研究対象を一方的に決めてしまうことはない。何をやっても学生の勝手とされる。

 さいきん、アメリカ出身の国文学者が、自分の指導する学生の研究対象を、自分の専門分野に近いものに変えてしまうことを知った。その学者の学問的な名声やすぐれた人柄はよく知っているので、国文学的な「美徳」に反する、そのぞっとする行為との矛盾を不思議に思っていた。

 How?を重視すれば、対象はなんでもいいはずである。How?よりさきにWhy?がくる学問を教えているなら、学生の専門分野を変えてしまっても、当然のことかとなっとくした。

 さて、友人の話をふりだしに、我が身の研究にひきつけて、あらあら現状を分析したのだが、Why思考とHow思考のハザマカンイチとなって煩悶している友人に対して適切な助言ができずに困っている。

 会社組織はチームワークが大事、郷に入っては郷に従えと、How思考に戻すか、アメリカで身につけた思考法が無駄にならないようにと、Whyがわかってもらえるまで説得し続けるか、そのどちらかだろう。

 自分のやりたいようにやるしかないだろう、と言うしかないのだが、これもWhyを自分の好き嫌いにまかせてきた、Why思考を軽視している人間の返事なのかもしれない。

|

« 学力別クラス編成 | トップページ | スキーウェア »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/103175/14278041

この記事へのトラックバック一覧です: Why思考とHow思考:

« 学力別クラス編成 | トップページ | スキーウェア »