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2007年2月28日 (水)

しばらく休載

 二月も今日で終わりです。二十八日までしかないのが恨めしいです。
 ここふた月ほど抱えている、やるべきことが、せっぱ詰まってきて、ネタの収集にも、文章書きにも時間を欠いていました。
 書いたもののお蔵入りになっている文章のほかは、もうストックもないので、しばらくブログの更新はお休みします。再開は三月中旬の予定です。

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2007年2月27日 (火)

歌舞伎のたて

 日ごろ、他人の映画評・劇評は読まない。ひとつは、他人がある芝居をみてどう思うかなど、どうでもいいから(他人が食べたものの味がいちいち気になりますか)。二つめは、自分の意見と合致することがないから(違う意見を見るのが楽しみという人もいるが)。

 が、二月の歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言はゆえあって、ネットを巡って、劇評をいくつか読んだ。

 十一段目にひややかな人が多くて驚いた。渡辺保にいたっては、チャンバラ扱いである(http://homepage1.nifty.com/tamotu/review/2007.2-1.htm)。

 歌舞伎のたての場面が、評価されないのは文学性と無縁だからと、どこかで郡司正勝が書いていたのを読んだが(郡司正勝・坂東八重之助編『歌舞伎のタテ』だと思っていたが、見つからない)、そうなのだろう。
 七段目で十分なカタルシスを得られるはずで、安っぽい仇討劇で復讐が達成されるところまで見なくては満足できないのでは、人間として低く見られるということか。

 歌舞伎のたては様式がきちんとあり(詳しくは先述の『歌舞伎のタテ』をどうぞ)、美しい。見ればだれでもわかるので、軽く扱われているのかもしれないが、それだけにごまかしがきかない。中村勘三郎のニューヨーク公演では、最後に延々とたてがくりひろげられたが、勘三郎は芝居というものがわかっているなと思った(わぁ、偉そう)。

 私は歌舞伎のたてが大好きである。剣道をやっていたせいもある。「特権的な肉体」という言葉がこびりついた小劇場上がりというのもある。たてをくりひろげる役者の躍動感が好きなのだ。
 
 だが、歌舞伎のたてが好きなのは、歌舞伎が好きな人の中では少数派だろう。

 映画俳優ではジェット・リーが好きである。リー・リンチェイと名乗っていたころから好きだ。もちろん、これは映画通ぶった人には言わない。どう反応されるか、わかっているからである。

 だから、日ごろ、他人の映画評・劇評は読まない。おわかりか。

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2007年2月26日 (月)

拍手するな

 日本の伝統的な演劇には拍手をする必要がないと説いていたのは、服部幸雄だったか(何に書いてあったかなぁ。さいきんそんなのばかり)。能が引き合いに出されていたが、たしかに能は拍手のしどころがない。
 私も能ではまったく拍手しない。とはいえ、われわれは現代の観客なのだからと、歌舞伎でしないほど、私は依怙地ではない。
 先日、『仮名手本忠臣蔵』を通しで観劇したのだが、芝居の途中にやたらに拍手するお客がいて困った。感極まってかもしれないが、妨害に等しい。服部幸雄の気持ちがはじめてわかった。
 四段目の判官切腹や六段目の勘平腹切でも、今回拍手しなかった。切腹の場面である。拍手をしたくなる気持ちがどうして生まれるのかわからない。
 自然に拍手が出たのが、十一段目の小林平八郎と竹森喜多八とのたて。途中、兎跳びのような形で二人が刀を交える場面があるが、あれに似たことを剣道の稽古でやったことがある。かなりきつい。それまでのたての激しさを考えると賞賛ものである。

 ついでに書くと、やたら笑うのもやめてほしい。六段目には笑いの要素があるが、勘平を待受ける悲劇を考えると、私は全然笑えない。まあ、はじめて見る人もいるし、笑うのが素直なのかもしれない。だが、勘平が二人侍を出迎えようとする場面で、勘平の舅殺しを疑い、逃亡するのではと、おかやが勘平の腰にしがみつくところは、笑うところではない。隣の客がそうだったので記す。

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2007年2月24日 (土)

にくめない高師直

 『仮名手本忠臣蔵』の高師直は、大名の品格を失わずに演じる必要があるらしいが、実際に演じるのは大変だろう。そもそも塩冶判官の妻に懸想して、とった行動が付け文というのが、悪人のとる行動ではない。武力で塩冶判官を滅ぼし、力ずくで奪い取るのが正しい悪人である。
 顔世御前に断わられて、腹立ち紛れに塩冶判官にいやみをいい続けるのも、柄が小さい。岡惚れがばれて、ふてくされて文句をいう中学生かといいたくなる。
 こんな具合なので、せいぜい意地悪なじいさんであって、悪人とはいいがたい。
 むしろ、怒って斬りかかった塩冶判官も、小学生同士の喧嘩ではないのだから、もう少し我慢してやりすごせばよかった。なお、正しい対処方法は、山本博文『学校で習わない江戸時代』(新潮文庫、2007.1)に書いてある。
 そういうわけで、高師直を私は憎めない。刃傷の場以降、討ち入りの場面まで高師直が出てこないのは残念である。

 なお、二月の歌舞伎座で『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言を見た。高師直を演じた中村富十郎の色魔ぶりに期待したのだが、エロじじいよりもいやみなじいさんといった演技。終演後、着物のおばさん客が「富十郎さんといえば、どうしても(七十を過ぎて)お子さんを(ふたり)作ったことが、頭にあるでしょ。みているとそれでいっぱいになっちゃって」などと語っていたので、意識してエロは抑えたのかもしれない。

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2007年2月23日 (金)

先払い、後払い

 都内に出る機会がほとんどないので、最近は「日本の古本屋さん」サイトをよく使う。商品選びに値段はもちろん重要な要素だが、先払いか後払いかも同じぐらい重視する。
 私の場合、商品を見ないと、それに値するお金を払えないのではなく、時間が惜しいのである。本は必要だから注文している。一日でも早く手元におきたい。先払いだと、その分損する。古本屋のほとんどが、ネット振込がつかえる銀行振込ではなく、機械に並ばねばならない郵便振込を指定しているのも、面倒さを上げている。
 とはいえ、古本屋のほとんどが先払いを掲げている。私は絶対やらないのでわからないが、踏み倒される例も多いのだろうか。本が相手の元にいってしまえば、お金を強制的に回収することはかなり難しい。ネットオークションはすべてといってよいほど先払いだが、それと似た感覚なのかもしれない。
 先払いを掲げておきながら、ときおり後払いにしてくれる店がある。理由はよくわからないが、「日本の古本屋」サイトに顧客評価のリストがあると勘ぐっている。個人情報保護は大事だろうが、ブラックリストを作っておけば、損を防げるはずである。
 さいきんになって、「日本の古本屋さん」からの注文は後払い。店への電話やメールでの直接注文は先払いになっている店を発見し、その思いを強めている。

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2007年2月22日 (木)

師と士

 小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮文庫、2007.2)に、看護士が看護師なら、弁護士は弁護師だろうとある。さすがに批評の達人だけあって、うまい。
 士が師になると、「人」から「先生」になるわけだから、普通は立派に感じられるはずだ。だが、弁護師になると、とたんにインチキっぽくなる。手品師や講釈師とおなじ響きになる。
 逆はどうか、教師が教士なら安っぽくなるはずである。ただし、一部の人は違うだろう。錬士、教士、範士のうちの教士がそうであって、武道に携わった人にとって、教士号は尊敬の対象である。
 もういっかいひねって、錬師、教師、範師ではどうだろう。もちろん、これはいけませんね。

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2007年2月21日 (水)

図書館員の態度

 小谷野敦の『新編 軟弱者の言い分』(ちくま文庫、平成18・11)に「図書館と著作権」という一節がある。東大の図書館の対応の悪さをののしり、また理不尽な著作権法に異を唱えた内容である(どこが軟弱なのかわからないが)。
 私も調べ物のために、あちこちの図書館をまわるが、不愉快な思いをすることが少なくない。腹が立つが、波風をたてても損をするのは自分なので、じっと我慢している。「図書館と著作権」には非常に共感を覚えた。図書館をよく利用する人ならきっと心当たりがあるはずである。
 応対の悪いもの、むかし国鉄の切符売り、いま図書館員である(あ、昔もか)。
 利用者の利便性を考える職業でないのが理由だろう。競争原理、自由経済原理を適応して、なんとかやつらの尻をたたけないものかと常々考えている。

補記:全員が悪い人というわけではないのだが、不親切な人のいる確率がかなり高い職場だと思います。

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2007年2月20日 (火)

コピーカード

 先日、出身の大学に行ったが、図書館をはじめほとんどのところのコピー機が、コピーカードを購入して利用するようになっていた。
 コピーカードをいちいち購入しなければならないのは、不便である。
 逆にコピー機の管理者にはいいことづくめだろう。まず、現金を頻繁に回収する手間が省ける。釣り銭が足りているかなど気を遣わなくてよい。
 最大の利点は、コピーカードはきっちりと使い切るのが難しいことである。1000円のカードを買って、105枚ちょうどコピーする人はいない。かならず、どこかで端数が出続ける。プリペイドカードは現金よりも多く使えることになっているが、つかう機会がなければ意味がない。そのぶんは、コピー業者の含み得である。おそらく、馬鹿にならない金額だろう。端数をどこかで換金しますという話は聞いたことがない。

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2007年2月19日 (月)

絶望した、感動した

 小説は人間の絶望を書くものなので、小説中に「絶望した」と書いてはならないと三田誠広が書いていた気がする。町田康の『告白』には主人公が「絶望した」と書いてあるのが何箇所かある。
 感想文で書いてはならないのが「感動した」である。感想文にその言葉を使わせないように生徒に教え込むのに、教師は苦労する。
 「感動した」を思いっきり文章につかって、さまになったのが安藤鶴夫である。名前をもじって「かんどうするお」と言われたほどである。もう、筆者が感動に感動しまくっていることが、十分に伝わっているのに、とどめのように「感動した」がやってくる。
 町田のも安藤のも、プロだけができる芸当である。

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2007年2月18日 (日)

空腹と寒さは

 空腹と寒さは若者の友である。私もつねに悩まされてきた。学生のころ、腹が減って、寒い夜は、インスタントのみそ汁を飲んで、ふとんにくるまって、寝てこました。
 空腹状態は、慣れれば案外平気である。
 満腹から空腹になっていくのがつらい。芝居にかかわっていたころ、あまり食べなかった。食事に誘われたときに、満腹から空腹になるのがつらいので、もうしばらく空腹のままでいると言ったら、変人扱いされた。
 脂肪肝の一件いらい、あまり食べないようになった。食べないなら食べないで平気である。体重は、病気のせいもあるが、ここひと月で5キロほど減った。
 いまはこの懐かしい空腹状態を楽しんでいる。

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2007年2月17日 (土)

爪切り

 それほどの物音でもないのに、寝ている赤ん坊が起きる音がある。爪切りの音がそうだった。周波数に関係するのか、ぱちんぱちんととなりの部屋でやっていると、かならずぐずりだす。
 もう、子どもは大きくなったが、習慣で爪切りは必ず一人になってやるようになった。
 剣道をしていたので、かつては頻繁に手の爪、足の爪を切っていた。稽古にでかけて、爪が伸びていることに気づくと、爪切りを探して買った。伸びていると怪我をする。そのため、うちには爪切りが五個ある。
 いまは剣道もしてないので、キーボードを叩くのに邪魔になるかが、爪切りの目安である。

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2007年2月16日 (金)

戦場の霧

 将棋は模擬戦争として、戦国武将たちに愛好されたらしいが、将棋が強くなったとしても、現実の戦争に強くなるとは思えない。
 将棋はすべての情報が素通しになっている。現実の戦いでは、敵の戦力や配置、そして行動は不明であることが多い。情報はつねに不確実で、「戦場の霧」=「戦場における不確実性」との戦いが戦争のすべてである。
 軍人将棋は相手の駒がなにかわからない。ボードシミュレーションゲームはさいころが使われる。コンピュータでシミュレーションゲームができるようになって、戦場の霧がより再現できるようになった。
 とはいえ、将棋の敵の駒の正体がなにかわからなくなっていたり、駒同士の戦いをさいころを振って決めるのであれば、将棋はここまで普及しなかっただろう。戦場の霧を排除したことは将棋の欠点ではない。すべてがお見通しになっているからこそ、将棋は純粋な論理ゲームとして美しい。

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2007年2月15日 (木)

教員の力

 学習に関して教員の及ぼす力は、微々たるものである。賢くなる生徒は放っておいても賢くなる。教員の力でよくなる生徒は二十人に一人ぐらいで、よくできた年でも十五人に一人ぐらいではないか。十人に一人を自分の力で賢くできる教員はかなりの「名将」である。

 誤解のないように書いておくが、これは一クラス四十人の教室で私が教えて、二人しか賢くならないという意味ではない。一年たてば、若者は程度の差はあっても、なんらかの伸びをみせる。そこに教員が及ぼせる影響はどのくらいかという議論である。自分が教えなければ、こいつはここまで伸びなかっただろうな、と思える生徒の数の話である。

 しかし、甲という教員の力でのばせる生徒がAとBだとして、乙という教員が教えた場合に、AとBが伸びるとは限らないのが悩ましい。私のおかげで伸びた生徒もいれば、私に当ったために伸びなかった生徒もいる。

 だいたい30人ほどが選手登録をしているJのサッカーチーム、あるいは一軍登録が二十二人の野球チームを例に、監督の力でどれだけの好選手が生まれるか、監督が変わって芽を出した選手がいないかなどを考えれば、極端な話でないことは了解できるだろう。

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2007年2月14日 (水)

大きな声

 生徒や学生によく通る大きな声が出ますねと時々驚かれる。なにか訓練でもしているのですかと聞かれることもあるが、とんでもない。剣道をしていたので、大きな声は出るが、それだけである。あとは職業的馴致である。

 教育実習に行くと、背が低くて小つくりな女子学生がいたりする。こんな小さな体で、やっていけるのかと疑問に最初は思うが、実習期間が終わることには堂々としてくるし、声もよく通るようになる。

 大学では、マスプロ用の大教室でなくても、テニスコートぐらいの大きさ(かな)で、マイクが置いてある教室がある。事務員にマイクを使いますかと聞かれることもあるが、その程度の教室なら、地声でやってしまう。

 もっとも、授業の声は、きちんと聞こえて、記号としての役割をきちんと果たせばいいので、マイクが使える場合は、積極的にそれを使うのがよいのかもしれない。

 私はお芝居に関わってきたせいか、マイクを使うのに心理的抵抗がある。歌舞伎座だって、歌舞伎公演ではマイクは使わない。

 マイクがいちばんよくないのは手にすると、なにか歌わねばならない気持ちになること。冗談を言っているのではない。普通の人間がマイクを持つのは、カラオケが一番多いはずである。

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2007年2月13日 (火)

点と網

 国文学も進化して、辞書も充実し、分野によっては索引も備わり、公開されたテキストデータも多くなった。それらをつかえば、碩学と変わらない、あるいはそれ以上に、簡単に用例を見つけることができるかもしれない。

 その反面、索引やテキストデータの検索では碩学には追いつけない。便利な品々を使えば使うほどそう思う。

 検索が得意とするのは、浜の真砂から色のかわった一粒をとりだす行為である。色の変わったものがたくさんあれば、それぞれもらさず見つけられる。しかし、それは点をみつけるだけである。

 碩学は点ではなく、網で覚えている。蜘蛛の巣状に知識をもっている。単発の用例ではなく、話の筋にしたがって覚えている。知っているそれぞれの単語が相関性をもってたくわえられている。

 ことばもむやみやたらに用例を選べばいいものではない。ある言葉に関連して、和歌ならこの歌、俳諧ならこの句というのが決まっている。小説にも、この場面というものがあって、それで覚えているひとも多い。

 網で覚えていると知識の運用にむだがない。だからこそ、一語一語の注釈が学問の基礎を支えている。点を探して事足れりとしていると、毎回それきりである。

 今のやり方を続けて、身につけた注釈技術が、論文を形づくるために役立つかと問われても、到底自信が持てない。

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2007年2月12日 (月)

テレビの向き不向き

 テレビは、情報を伝えるのに向き不向きがある。いちいち、ニュースを見るよりも、新聞(などの活字情報)を読んだ方が早い。同じ時間なら、音声で伝えられる情報量よりも、字を読んで手に入れられる情報量のほうが多い。

 テレビが活字よりも優れているのは、絵を出せること。百聞は一見にしかずというが、見なければわからないことは、テレビでないと伝えられない。

 テレビで現在人気があるのは、役に立つ情報を伝える番組がそうだ。『伊東家の食卓』もそうだし、『ためしてガッテン』、最近問題になった『発掘あるある大事典』などがそれにあたる。

 正直、テレビで教養・知識を得ようとは思わない。テレビが伝えることを鵜呑みにすることは、ネットで検索した情報をそのまま信じる以上に愚かなことである。何にせよ、詳しく知りたいことがあれば、図書館に行って数冊の本を借りる方がましである。
 『世界不思議発見』は、何回見ようがその国について詳しくならないのではないか。

 インチキダイエット番組より、害があると私が思っているのは、歴史番組。時代劇は稗史であり、良識のある人なら、しょせん作り事だとわかってくれる(だろう。たとえおしんが可哀想だからとNHKに米を送る人がいても)。嘘ばかりの歴史啓蒙番組は、そのタイトルを聞くだけでぞっとする。にせのダイエット情報を流す番組は打ち切りになる。だが、どうみても無茶な内容の歴史を伝える番組を制作しても、何のお咎めもないのだからいい気なものである。
 

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2007年2月11日 (日)

実学系

 大学もゼネラリスト教育の名残のするものがさらに減り、手に職を身につけるための実学系の大学が増えるはずである。ゼネラリストを育成する必要性は決してなくならないだろうが、すべてのひとにゼネラリスト教育が必要であるわけではない。
 国によっては、高校の時点で、実学系の学校が全体のうちかなりの割合を占めるところがある。もちろん日本にも、実業・商業・工業・農業・水産などの高校があるが、戦後教育の方針のため普通科の下に見られるという不本意な結果にある。大学全入の時代には、大卒は高卒と同じ響きをもつようになるだろう。そのとき、実学系の大学がいよいよ優れた人材を輩出して、胸を張れる状況になればいいと思う。

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2007年2月10日 (土)

官僚制と腐敗

 中国の多くの王朝にとって、官僚制の腐敗が滅亡の大きな要因となっている。歴史書を読めば、一目瞭然である。官僚制とは、統治に必要だが、間違いなく腐敗する。
 日本が将来衰退したならば、官僚制の腐敗によって衰退したと、歴史教科書に記されるはずである。山川の教科書なら太字である。
 中国の歴史と比べると、現代ではさらに政治家の汚職が加わった。民主的な選挙で選ばれる政治家が、中国の王朝史になかっただけで、もしあれば、政治家の汚職もかならず記されたであろう。
 毀誉褒貶はいろいろあるだろうが、小泉政権が政治汚職と無縁だったので、長期政権を保てたことは、留意されていいはずである。

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2007年2月 9日 (金)

朝型生活

 午後十時に寝て午前五時に起きるという朝型生活を実施してもうすぐ一ヶ月がたつ。私はもともと夜型で、朝起きてなにかをするというのはまったくダメだった。毎年一度は朝型生活に変えてみようとするのだが、三日坊主で終わるのが常だった。今回は、病気をきっかけにして、変えたのがよかったのか、暖冬で朝の寒さが厳しくないせいか、珍しく続いている。

 目覚ましにiPodnanoを使っている。イヤホンをつっこんで寝て、音楽で起きる。最近は時間前に自然に目が覚めることが多いが、目覚まし時計だと、家族に迷惑がかかるので、助かっている。
 目覚ましにかける曲はQueen。ウェンブリーでのライブ盤から何曲か選んで、起きがけはそれを聴いている。

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2007年2月 8日 (木)

紅一点の逆

 かつて女子大学の学園祭を手伝いに行った話を書いた(2005.08.20)。女子大に大義名分があって、堂々と行けるのだから、とても楽しみにしていたのだが、行ったそうそうびっくりしてしまった。
 その大学には附属中学高校が併設されていた。私が最初に行ったときは登校時間で、学校へ向う道は一面、女子生徒で埋まっている。中学生が多いのか、私だけが頭抜けてみなの黒髪を見下ろしている。私は身長が169センチなので滅多にないことである。そして、まわりをみると、ところどころ歩いている先生方が電信柱のように抜きんでているのが見える。ちょっぴり怖かった。
 さて、大学だが、どこに行ってもおんなおんなおんなである。自分一人が男で、学食で食べているときも、男は私一人である。うれしいよりもなんとなく不安を感じた。
 考えてみれば、大勢の男の中に女がひとりという状況はよくある。安い居酒屋なんかに行くと、男五人に女一人とかよくある。男十人に女一人でも珍しくないだろう。女性は紅一点であることを強いられる場合が多いためか、男たくさんに女は自分ひとりでも平気なようだ。
 紅一点の逆、黒一点(?)は滅多にないが、滅多にないために、あると男はけっこうつらいはずである。女五人に男一人で飲みに行って、上手い具合に話を合わせて盛り上がれるという男は少ないのではないか。
 女子大の先生など、黒一点の状況でも、上手くやっている。慣れの問題なのだろうが、そこまでの道は険しそうだ。

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2007年2月 7日 (水)

助六熱

 息子の助六熱だが、いよいよ高じている。
 DVDも買って見せた。市川海老蔵の写真集も買ってしまった。助六の手ぬぐいを、息子はランチマットに使っている。正月には、じいさんに助六の凧を買ってもらった。
 このまえ、幼稚園の友だちと遊んでいるのを見ていると、「よし、オレは助六に変身だ」などといっていた。さすがに通じなかったのか、最近ではボウケンジャーに戻っていたが。
 助六は喧嘩早くて、普通のヒーローではないのだが、そういったことも本能的にわかっているのかもしれない。

 ちなみに娘は、歌舞伎のお姫様をみると、「ちゃん(娘は自分をそう呼ぶ)はこれ」と言いながら指さす。

 なんでも、ものは影響である。

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2007年2月 6日 (火)

正義の味方

 子どもは正義の味方にあこがれて、オレは正義の味方だ(ボウケンジャーだウルトラマンだなど)という。
 実際には、正義の味方とはほど遠く、友だちを喧嘩して泣かせ、先生の言うことは聞かず怒られ、どこが正義なのかわからない。どんな悪ガキでも正義の味方は大好きである。
 『七人のおたく』という映画があった。内容はほぼ忘れたが、戦隊ショーをしている後ろの幕に「力なき正義は無力なり。正義なき力は暴力なり。」と書いてあったことだけ覚えている。
 規則を遵守し、秩序をまもることができないにもかかわらず、オレが正義だなどということについて、子どもがわかっていないあかしというのは簡単である。
 むしろ正義の本質をついていて、実質とは関係なく名乗りたくなるのが正義なのかもしれない。
 

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2007年2月 5日 (月)

ローマ物の映画

 年始に民放の深夜放送で『ジュリアスシーザー』と『スパルタカス』が流れた。ローマ人の物語に関心を持っていたので、録画して、早送りで見る。字幕なのはありがたい。

 思うに、シーザーの遭難とは、西欧人にとってなにか特殊な感慨がある場面なのだろう。日本人にとっての本能寺の変のようなものかと思うが、シーザー暗殺は、共和制か独裁か、その狭間における共和制主義者のテロリズムを扱っているので、イデオロギー闘争の面が強い。スターウォーズにも、ローマ史の影響はありありと出ている。

 『スパルタカス』がキューブリックなのは初めて知った。アメリカの奴隷制とその解放が反映された映画になっている。
 歴史を語ることは、政治観を語ることであって、映画もそれから免れえないのか。

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2007年2月 4日 (日)

若旦那より

 亡くなった杉浦日向子が、なれるものなら若旦那になりたいと書いていたような気がする。この若旦那願望は女性に散見する。
 お金があって悠々と生活していて、女にもててとなると楽しいだろう。
 ちょっと違うが、漱石の小説に出てくる高等遊民になりたいと口にした女性も知っている。
 私は若旦那にはなりたくない。和事に出てくるのは、つっころばしでもぴんとこなでもまっぴらである。
 じゃあ何になりたいかというと、落語「居残り佐平次」に出てくる佐平次である。口が達者でいろいろ器用で、スイスイと世の中を渡っていきたい。

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2007年2月 3日 (土)

付箋はダメ

 図書館で付箋(ポストイット)を禁止しているところは多い。コピーのために付箋をつけておかねばならないときは、付箋の糊づけ部分を折ってから、本に挟むようにしている。
 図書館員に注意されたら、折っているんだぞと見せてやろうと待ちかまえている。付箋をつかって注意された人を何人も見たことがあるが、むこうも勘がいいのか、いまだ注意されたことがない。糊づけ部分を折った付箋は、そこを折り返して再利用している。
 図書館の付箋への対応はいささか過剰ではないかと思っていた。
 その認識を改めなくてはならないことが起きた。岩波の旧古典大系のある一冊に、いつも使っているのとは違う、幅五ミリ、長さ三センチほどのビニルの付箋を貼って、コピーに行った。コピーが終わって、付箋をいきおいよくはがすと、なんとその下の紙まで剥がれてしまった。字の部分が剥がれてしまい、そこはなんとも復元しようがない。
 不幸中の幸いは自分の本だったことである。

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2007年2月 2日 (金)

父母会とかPTAとか

 幼稚園の父母会に妻が出た。あるお遊戯会の出し物で子どもが着る服について、女の子のお母さんがいろいろと注文をつけて、かなり時間が経っても意見が集約しなかったらしい。妻は、幼稚園側が最初に提案した服で何の問題もなかったので、その後はかなり苦痛な時間を送った。
 幼稚園の父母会だとか、小学校のPTAとかそうだが、どの親も吾が子尊しで来ているので、うまく意見がまとまらない。
 元大学教員で推理小説家の森博嗣が、子どもの学校行事を嫌っていて、体育祭や授業参観も含めてまったく参加しなかったと『モリログアカデミー』(どの巻かは忘れた)に書いていることには驚くが、その気持ちもわからないでもない。大学の教授会の非効率を森博嗣はことあるごとに嘆いていた。教授会はまだ何かをよくしようとして合議している。父母会やPTAは、自分に利益を誘導するための場である。
 詳しいことはわからないが、何かの時点で痛い目にあって、それ以来やめたのではないかと勘ぐっている。
 まあ、学者は変な人間が多いので、ハナから学校行事を無視することもありそうだが。

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2007年2月 1日 (木)

江戸城天守閣の再建を

 江戸東京博物館のバーチャルシアターを見ながら、東京都が観光のために江戸城の天守閣を再現しましょうなどと言い出さないのはいいことだと思った。
 明暦の大火(1657)で天守閣が焼失していらい、江戸時代のほとんど間、天守閣がなかったのだから、なくて当然である。

 しかし、天守閣など全然なかった墨俣城のあとに、三層の天守閣を模してつくった歴史資料館が造られている世の中である。
 天守閣の存在が疑わしいのに天守閣を再現したものを、模擬天守というらしく、ウィキペディア(2007.1.20)には、三十四の模擬天守が紹介されている。
 土木大好きの鈴木俊一都知事とかが、江戸城にも天守閣をと言い出さなかったのは幸運である。宮内庁の管轄なので、江戸城を観光資源にしようという試みがないのだろうが。

 とはいえ、いま、日本橋のうえの高速道路を、おそろしいほどの金額をかけて地面に埋めようとしている。そんな金があれば、江戸城の天守閣が再建できるのではないか。おなじ無駄金なら、江戸城天守閣の再建のほうが、夢があろう。

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