物語としての新聞
新聞にはそれぞれカラーがある。真実を伝えれるのが報道の使命なら、伝えられる内容はどの新聞でも変わらないはずだが、実際には、紙面の組み方、見出しの付け方をはじめ、掲載紙の主義主張にそった内容が伝えられる。
たとえば、朝日新聞と産経新聞では、同じ事件でも伝え方がまったく違う。
一人で書く小説ならともかく、新聞社はたくさんの従業員を抱えているので、ある新聞社の社説と違う考えの新聞記者もいるだろう。むしろ、自社の新聞は寸分違わず我が意にかなうものばかり、という人はすくないはずである。
私的には違いがあっても、オレたちは朝日新聞だから、読売新聞だから、それらしい記事を書こう、購読者はその新聞らしい記事を読みたいのだから、そう思って書いているのではないか。
人は真実と思いたいことを真実と認識するという。
新聞は、ある傾向にそった真実を信じたい人たちに、都合のよい物語を提供する、物語発生装置なのではないだろうか。
補記:実は1200字ほどで、具体的にある新聞のある記事を批判する内容を書き、結論として「物語としての新聞」なのだ、という記事を書きました。具体的には朝日新聞なんですが。
でも、朝日新聞を批判しても、批判の内容は週刊文春か週刊新潮の記事のように、それもひとつのおきまりであって、面白くないので、抽象化しました。
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コメント
いわゆる開放前の中国や、北朝鮮、ソ連がメディアで好意的に扱われていた時代を生きて来たので、左がかった朝日が大嫌いになってしまいました。
そこで長い間、産経をとっていたのですが、右硬直にうんざりしてきて、近年、読売にしました、しかし、野球の記事が多すぎるので、毎日に変えました。もうこうなると朝日でもいいかなと思ってます。というのは、サッカーが好きで、朝日はサッカーに比較的好意的なようなので。
なんともいい加減です。
投稿: 傍らの人 | 2009年4月23日 (木) 10時18分
傍らの人さま
なんだかんだいって、選択の自由があるだけ日本もマシのような気がします。
私自身、十年ほど前から新聞をとるのをやめてしました。ネットで新聞社のHPを回るだけなので、新聞社には心苦しいのですが。
投稿: Iwademo | 2009年4月23日 (木) 12時02分