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2006年11月30日 (木)

木下順二が亡くなった

 今から七八年ほどまえ、私が小屋付のアルバイトをしていたころ、あるお芝居の初日の幕が下りたすぐあとに、猛烈な勢いで楽屋に突っ走っていったお年寄りがいた。見たのは一瞬ながら、もうそんな速度で走っては危ないだろうというお歳のようだった。ひょっとしたら杖もつかっていたかもしれない。
 不審な顔つきをした私に、上司(正社員のおじさん)が、たったいま上演された芝居の脚本を書いた木下順二先生だよと教えてくれた。
 木下順二の名前や、その代表作が夕鶴であることなどは知っていたが、私にとって、もうすっかり過去の人というイメージがあって、思わず、まだ生きていたんですかと口にしてしまった。
 
 十月三十日に木下順二が亡くなった。享年九十二。私が見たのは八十代前半にあたる。
 気にくわなかったのか、感激したのか、それはわからない。しかし、八十を越して、芝居が終わったあとに、楽屋へ突っ走る、その情熱が強く印象に残っている。

 木下順二には『本郷』という生い立ちをつづった随筆がある。木下順二は本郷生まれで、小学校から旧制高校まで熊本で過ごした。本郷界隈は多少知っているのと、妻が熊本出身なのに興味をもって、講談社文芸文庫で四五年前に読んだ。
 熊本の地主階級について、先祖からうけついだ土地を寸分も減らすことなく、次の世代に伝えていくことを無上の使命にしている、といったことが書いてあった(手元にないのでうろおぼえ)。
 私がよく知っている熊本人の特徴がまさにそれである。
 あと、東京で身につけた鼻濁音を、飛行機のプロペラ音の真似でからかわれたことが、『本郷』のなかで、印象に残った部分である。

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2006年11月29日 (水)

東京ドーム何個分?

 先日、埼玉の森林公園の園内バスに乗っていると、東京ドーム何個分云々(何個なのかよく聞き取れなかった)のアナウンスがあった。

 よくビールの年間消費量を東京ドーム何個分かで説明している。これについて、よくわかんないよ、実感がわかないよ、といった文句の文章を読んだことがある。同感。

 体積ではなくて、面積が森林公園の場合、使われているのだろう。

 しかし、円形はならべるとどうしても隙間ができる。八個分とか、二行四列でならべると当然隙間があく。面積を説明するのに東京ドーム何個分というのは、感覚的にわかりづらいのではないか。

 もちろん、東京ドームの面積を計算して、森林公園の面積を割ったのが、東京ドームの数なのだろうが、それなら何平米かで言ってもらった方がましではないか。

 サッカーコート何面分とかどうだろう。
 

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2006年11月28日 (火)

俳句をすると

 興味はあるが、人生でおそらく手が回らないと思うのは俳諧(俳句)の研究である。小西甚一『俳句の世界 -発生から現代まで』(講談社学術文庫)をはじめ、岩波文庫の『蕪村俳句集』『一茶俳句集』『芭蕉七部集』『おくのほそみち』(そういや自筆本の複製も持っていた)など、けっこう買ってはいる。いつかは読むものと思っているが、余裕がない。
 
 さいきんになって『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫、2006.9)が出た。もちろん、本人の編集ではない。寺山の俳句と俳句にまつわる文章や発言を集めた本である。寺山といえば、短歌である。俳句はそのつぎ。オリジナリティも高く評価されていないのはたしか。とはいえ、好きな寺山のことなので、買ってしまった。

 実を言うと、研究はともかく、折をみて俳句の実作をやってみようかと思っていた。

 だが、『寺山修司の俳句入門』を読んでわかった。俳句に携わるとかなり面倒のようだ。句会に入り、点者に指導してもらい、高点句を同人誌に載せてもらう。寺山の発言や文章も、句会や同人誌を念頭において、どう詠むかというもの。
 
 もちろん、自己流よりは指導の先生がいる方が上達も早いだろうし、句会仲間と詠んでいくのも楽しいかもしれない。同人誌に載るのもうれしいだろう。

 でもなぁ、そういう世界は文学研究で、もう十分だよ。俳句ぐらい、好き勝手に詠んでみたいと思うがね。そういうわけで俳句はいよいよお預け。本記事の題名に、俳句を詠むと、でなく、俳句をすると、と書いたのは間違いではない。
 

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2006年11月27日 (月)

鯨の味

 まだ鯨漁が禁止されていなかったころ、長崎の江戸町あたりの魚問屋では、鯨を売っており、その鯨のにおいがプンプンしていた。
 江戸町のとなりの築町にある塾に、小学生のとき通っていたのでよく覚えている。
 小学校の給食でも鯨が出ていた。
 けっこう食べていたのである。
 そういうわけもあって、鯨が食べたいかと言われれば、ああ食べたいと答える。
 ところが、熊本育ちの妻はほとんど鯨を食べたことがないらしくて、鯨に執着心がない。熊本人が執着するのは馬刺しだが、逆に私は全然興味がない。普通に魚の刺身を食べたらどうかと思う。

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2006年11月25日 (土)

ちゃんぽん

 ちゃんぽんは、長崎の郷土料理であり、四海楼の陳平順の考案ということまでわかっているが、チャーハンと同じく、一般名詞のように受け取られている。
 チャーハンにいろいろな種類があるように、ちゃんぽんもいろいろな種類があって、店ごとに大きく違っていても問題ない。
 昔、ラーメンで有名な喜多方に行ったときに、ちゃんぽんがお品書きにあって、ちゃんぽんがあるなぁと言ったら、同行者に長崎のちゃんぽんと比較するなら食うなと、機先をさされた。
 何事もお国自慢の私のことだから、そう思われたのだろうが、先に述べたようにちゃんぽんは一般名詞なので、どんなちゃんぽんが出てきても腹が立たない。
 
 違うと腹が立つのは皿うどんであって、これは堅焼きそばであってはならない。どこがちがうのかというと、豚骨からとったスープを加えているか、片栗粉でとろみをつけた餡がかかっているかによる。

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2006年11月24日 (金)

熊本ラーメン

  さいきん、妻が故郷の熊本ラーメンを食べたがっている。埼玉の近所にも熊本ラーメンを標榜する店があるのだが、魚出汁や醤油が入っているらしくて、妻が求める味ではないらしい。
 熊本に店があったら、醤油ラーメンでも熊本ラーメンなわけと聞いたら、猛烈に怒られた。
 替え玉をしない。ニンニクチップがかかっている。ニンニク油が入っている。長浜ラーメンなどよりも太めの麺。もちろん豚骨だが、長浜ラーメンよりも油濃くない。
 のが特徴らしい。
 妻の職場でも九州の人はラーメンにうるさいですねと、暗に煙たがられているらしいが、食べたい欲がなくならないらしい。
 私なら、池袋に出たついでに桂花や味千に行けばいいのだが、妻は滅多に都内にいかないのでそうはいかない。しかし、むかし池袋の桂花で食べたら、熊本と味が違うと文句を言っていたので、満足しないのかも知れない。私も熊本で桂花を食べたことがあるがよくわからない。
 ホームシックのひとつか思っている。

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2006年11月23日 (木)

極上の月夜、の落語

 先日(2006.11.6)、日本テレビ『極上の月夜』という番組で落語特集をしていた。100人の女子高校生に落語をきかせて、つまんないという評価があがれば退場というシステム。さすがに本職の落語家は出なかったが(怖いだろうよ)、博多大丸染丸、峰岸徹、デーモン小暮、ダチョウ倶楽部の上島、ラサール石井、森下千里(森高の誤植ではない)が落語(というより漫談を)やって、林家木久蔵師匠。

 退場をくらったのは小暮と上島。色物の説明をしていた小暮と三平ばりのダジャレを言っていた上島が認められなかった。女子高校生はせっかちだなぁと思うが、噺家に上手も下手もなかりけり行く先々の水に合わねば、の川柳も事実である。

 木久蔵師匠には判定システムはなし。よかったね。
 演目は、木久蔵師匠の師匠を語る「林家彦六伝」。もうひとつの得意ネタ「昭和歌謡史」より適切な選択。CDで聴いたことがあるが、内容はほぼ一緒。だが、あちこちの地方文化会館でやっているネタだけあって、洗練されていて面白い。マクラのちょっとした小咄でも間がうまくてうける。小ネタでも上島のように連呼すればいいものではない。
 判定システムがあっても、大丈夫だったんじゃないかなという出来。

 落語好きだと人に知られると、笑点のメンバーって上手なのとたいてい質問される。答えはみんな上手。
 桂歌丸さんは、芝居噺をよくやるけど、あんまり声色がうまくなくて、人情噺もよくやるけどお歳だから、女性の演じ方に艶がないのはたしか。でも上手。という答え方をよくする。
 それは基本的な技術がかなり高い上で、その短所を述べたまでであって、高座を聴いて楽しめないという意味ではない。

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2006年11月21日 (火)

人件費よりも

 むかし、プロの小劇場劇団のある制作さんから、制作費で人件費よりも高いものはないと聞いた。
 小劇場芝居の大部分が、この人件費を誰かがかぶることですませている。
 人件費は形に見えないものに払われている。人の使った技術や時間は見えないが、とても貴重である。
 音楽関係者は、まだ音大の学生とか、プロになりきっていない人たちでも、決してロハで仕事をすることはない。自分たちの世界を守るために重要なことである。
 芝居にもそういった慣習が根付かないかと思っていたが、おそらく今後も根付くことはないだろう。
 人が持っている時間や技能が只だと思い、目に見える物体(しばしば金)を節約するために、無駄に人を使う相手には、最近特に我慢ならなくなってきた。
 年のせいだろうか。

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2006年11月20日 (月)

もちはもち屋?

 先日幼稚園でもちつき大会。もちの搗き手に呼ばれる。
 もちつき大会は、疲労で帰りに車のキーがまわせなくなるほどですよと聞いていたが、四つの臼で三十五人の搗き手なのできつくない。
 十回で交代。搗くごとに手を入れるのはおかあさんがたの役目。搗いたもちを丸めるのもおかあさんがた。
 もち米は庭に据え置かれた四基の羽釜で炊かれる。これはプロの方?が担当。
 
 なぜか、もちつきに習熟しているおとうさんもいる。
 でも、思ったのだが、もちつきに上手下手は関係なさそう。ちゃんと搗けていれば、普通にもちになる。
 で思ったのだが、もちはもち屋(物事にはそれぞれの専門家がある。「餅屋は餅屋」とも。『広辞苑』第五版)ってなぜ言うのだろう。
 もち作りにそれほど素人とプロに差が出るとは思えない。
 だいいち、今では機械でもちをつく。機械じゃ駄目だね、やっぱり杵と臼で人が搗かないとおいしくないよという人はいないので、機械で作っても変わらないのだろう。
 実家にもちつき機があるけれども、それで作っても変わらないし、むしろ簡便でよい。

 それとも、やっぱり専門家に任せた方がうまくいくという意味ではなくて、誰がやっても同じようなことでも専門として商売にしている人がいるということだろうか。
 ちなみに、江戸時代には師走にあちこちの家をまわってもち搗きを商売にしていた人がいた。

 なお、もちにまつわる江戸時代の慣用句として、提灯でもちを搗くがあるが、こっちはなっとくできました(バレなので解説はしません)。

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2006年11月19日 (日)

アドバンスト将棋

 自宅でネット対戦するプロ棋戦ができるらしい(http://d.hatena.ne.jp/mozuyama/20061118)。
 渡辺竜王はブログで、

基本的には自宅からということでしたが「不正をやろうと思えばできる」環境で指すことが嫌なので誰かに監視してもらったほうが安心してやれます。長手数の詰みで鮮やかに勝ったのに疑われてはたまりませんので。

と、対局中不正ができないような監視するしくみにしてくれと述べている(http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/bc850a62c2a9e66ea4e5bdb627b9b70b)。

 私としては逆転の発想で、友人を集めて検討し放題、パソコン使ってデータベース検索し放題、詰め調べ放題の将棋にしてみたら面白いと思う。

 プロの倫理観とは相容れないのだろうけど、そういったものを使えば、さらにどのくらい強くなれるのか興味がある(プロでは影響が小さく、棋力が低いほど有用なのだろう)。
 コンピューターの補助利用したチェスはアドバンストチェスとして知られているが、将棋でもためしにやってみられないものか(今回の大和証券杯は公式戦なので無理だろうが)。

 通常の対局が試験をうけるようなものなら、そういったアドバンスト将棋は自由研究のようなもの。最善の棋理をもとめるのが、プロ棋士の使命なら、アドバンスト将棋も悪くないのでは。

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2006年11月18日 (土)

ボナンザ対渡辺竜王

 将棋は、来年三月にボナンザと渡辺竜王が対決。竜王は「もちろん負けるとは思っていない」言い切っていた(http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061117i212.htm)。

 2006.11.18に開かれたトップアマとボナンザの対局で、アマ側が勝ったように(http://d.hatena.ne.jp/mozuyama/20061118)、渡辺竜王ほどでなくても、まだプロが負けるわけがない。

 なぜ、渡辺竜王なのかという意見が出ていたが(同じく、勝手に将棋トピックス、http://d.hatena.ne.jp/mozuyama/20061118)、根拠はある。

 べつに今負けなくてよいなら、日本将棋連盟の手兵のうち、奨励会員を使ってすむ話である。

 問題は、いずれはコンピューター将棋がプロ棋士を凌駕するということである。
 
 コンピューターがプロ棋士に勝ったとなると、将棋の人気はがた落ちで、日本将棋連盟に与える打撃はかなりのものである。日本将棋連盟にとって、プロ棋士の敗戦はできるだけ先送りしなくてはならない。

 今回は、ネット棋戦開設の記念対局らしいが、コンピューターとプロ棋士の対局は、こんご何年おきかに、定期的に行われるはずである(実力に差があるうちはいくら戦わせても心配なく、対局料だけ入って、損にならないのだから、連盟は、価値が下がらない程度に、頻繁に対局を組んでもおかしくない)。
 
 そのさい、定点観測の意義から同じ棋士が登用されるだろうから、緒戦でも強い棋士を対戦させておくにこしたことがない。

 それにタイトル保持者を対局させる方が、対局料も多額に設定できる。

 じゃあ、森内名人、羽生三冠、佐藤棋聖のトッププロ三強のうち、だれかでいいだろうと思うかもしれないが、この三人は年齢が、森内(36)、羽生(36)、佐藤(37)なので、棋力は加齢と反比例していく可能性が高い。

 渡辺竜王(22)はこれから伸び盛り。選ばれたのは当然だろう。

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2006年11月17日 (金)

朗読と会話文の位置

 森博嗣『MORI LOG ACADEMY 3』(メディアファクトリー、2006.9)の2006.5.11付「会話文」(241・242頁)に、小説における会話文で、誰がしゃべっているのかわからせるためにどういう形式がよいのかが書いてあった。

 冒頭に「誰某は言った。」とあって、その後に、カギ括弧で会話文がくるのは、森は不自然に感じるという。言葉が耳に入ってきて、それから誰がしゃべっていたのか認識するので、

 「あ、君……」と彼は言った。「ちょっと、いいかな」

にすると、認識の順番になるという。

 小説としては、もっともな意見である。

 ただ、絵本を朗読する場合は、誰がどのようにしゃべったかが先にわかるとありがたい。

 『三びきのやぎのがらがらどん』(マーシャ・ブラウン作、せたていじ訳、福音館書店、1965.7)では、トロル(北欧の鬼、としておきましょう)が番をしている橋を、小さいやぎの「がらがらどん」から、中くらいのやぎの「がらがらどん」、大きいやぎの「がらがらどん」の順番に渡っていく。

「だれだ、おれの はしを かたことさせるのは」と、トロルが どなりました。
「なに、ぼくですよ。いちばん ちびやぎの がらがらどんです。やまへ ふとりに いくところです」と、その やぎは とても ちいさい こえで いいました。

と、『三びきのやぎのがらがらどん』では、基本的に、どのようにしゃべったのか、その説明が、会話文のあとにくる。油断していると、普通に読んでしまって、しまった!ということになる。
 なお、「~が言った」は普段からよまないようにしているにしている。

 とはいえ、地の文「~が言った」の次に会話文がくるのでは、先の森博嗣のいうように、不自然なのであり、ここはひとつ、内容を覚えておくしか手がない。

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2006年11月16日 (木)

昔話を語る

 十一月の上旬に、一家で長崎にかえったのだが、荷物の関係上、子どもに読み聞かせる本をほとんど持って行けなかった。
 しょうがないので、寝る間際は暗くして、昔話を語ることにした。
 難しい話は覚えていないので、おなじみの桃太郎や浦島太郎を話したが、そらで語ってみるとなかなかたいへんである。
 まず、どういった筋にするかを決めなくてはならない。桃太郎は、川から流れてきた桃を割って桃太郎が生まれる筋だけでなく、流れてきた桃をおばあさんが食べて妊娠する筋もあるのだ。
 浦島太郎も筋の選択に困る。玉手箱を開けるのも、困った時に開けなさいにするか、開けてはいけませんよにするか。開けたあとも、おじいさんにするか、鶴になって飛んでいったにするか。いろいろである。
 語り口も難しい。浦島太郎の最後など、悲しい話にすればいくらでも悲しくなる。口調によって、怖い話の雰囲気をだすことも可能である。
 わかりきった話を組み合わせて、話をつくっていくのは、ちょっとした吟遊詩人の気分だった。

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2006年11月15日 (水)

見たののはじめ

 ロリータファッションというのは、私自身、1997か1998年あたりに見たのが最初である。私が小屋付のアルバイトをしていた劇場で開かれた、ある講演会のお手伝いをしている女の子がいた。劇団関係では、演出家や劇団主宰者の、妻や娘が手伝いをすることが珍しくない。小柄なこともあって、さては講演者の娘さん、ちいさいのに感心感心と思っていたら、背は低いものの、実は二十四五ぐらいで、講演者の小説家のファンだとわかった。
 その当時と比べて、ロリータファッションの人をみる機会は多くなったが、最初に見た(*_*)という印象は忘れられない。

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2006年11月13日 (月)

寿アナウンス

 スチュワーデスがする結婚式の余興芸として、寿アナウンスというものがある。

 かつて、剣道の後輩にあたる、日本航空のスチュワーデスの結婚式の二次会に出て、存在を知った。

 先日、私の友人と、某国際線のスチュワーデスの方との披露宴に呼ばれた。新婦の元同僚による寿アナウンスがあって、あれは日本航空に限らないとわかった。

 ネットでは下のHPが説明していて、
 http://crew-moe.com/kotobuki.html
私が聞いたのもほぼ上記と同じである。
 長く続いているのだろう。かなり洗練されている。起源がいつどこなのか興味がある。

 スチュワーデスが開いているブログでは、内輪ネタだ、恥ずかしい、結婚式でそこまでスチュワーデスだと強調したいのか、とけっこう否定的にとらえられていることが多い。

 この寿アナウンスを航空関係者のまったくいない結婚式で行うことも理論上は可能である。だが、新婦が客室乗務員を務めていて、寿アナウンスをしてくれるのが現実の客室乗務員(経験者)でないとおもしろみはない。

 寿アナウンスは余興芸として、とてもよいと、私は評価している。
 結婚式で、新郎新婦のいい面を強調するのは当然だと思う。また、前に記事にしたように、わざわざ骨を折ってやってくれる友人がいることを示すのが余興芸の意味であって、内容の評価は二の次にすべきだろう。
 航空業界内輪の感覚はわからないが、結婚式に出て、余興芸を寒いと思っている人がいることの方が、私にとって寒い。

 ちなみに、私が先日出た結婚式で、新郎側の友人(私のグループではない)が飛行機の寿アナウンスをもじった電車アナウンスを行った。ちょっとエロチックに改変されているところがおかしかった。内容はともあれ、新婦側友人と接触するよい手づるになっただろうと、勘ぐっている。

補記:いまは客室乗務員。フライトアテンダントということは知っています。でも、『スチュワーデス物語』を観て育った世代には、スチュワーデスと言わないと気分が出ません。さいきん、ケーブルテレビで『スチュワーデス物語』の再放送を観たのですが、努力してけなげというより、こんなおっちょこちょいのいる航空会社の飛行機には乗らんぞと、思ってしまいました。努力、友情、勝利が認められていた、いい時代のドラマ。撮影に全面協力したその航空会社は、ここところ業績不振。関係ないのでしょうけどね。

 そういや、男性客室乗務員の結婚式で寿アナウンスはあるのだろうか。謎だ。

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2006年11月12日 (日)

〆をコーヒーで

 酒を飲みに行くと、一次会、二次会、三次会とだんだんぐでんぐでんになってくるが、最後の〆を喫茶店でコーヒーにするとよい。
 もう十分酔っぱらっているのでそれ以上飲む必要もないし、最後にさっぱりとして帰ると気持ちがよい。二日酔いの予防にもなるようだ。
 東京ではあまりない習慣のようだが、地方では最後にコーヒーを飲むことが多いらしい。
 先日の結婚式の帰りに旧友Oと二人でプロントでコーヒーを飲んで〆にした。披露宴の午後二時から三次会がおわる午後十一時まで飲んでいたので、酒好きの私もさすがにもうけっこうということで、ブレンドコーヒー。
 翌日、二日酔いなしで子どもたちを遊びに連れて行けてよかった。

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2006年11月11日 (土)

上限50コマとレポートなら

 履修不足が何教科、何コマあろうとも、上限は50コマにしてあとはレポートですませるようになったらしい。
 だったら、受験にいらない科目はすべて授業をうけず、まず未履修状態を作りだす。そこから、一科目選んで50コマうけ、残りはレポートですませて、卒業することは可能だろうか。
 文系の受験なら、英語、国語、社会一つの大学が多いのではないか。英語と小論文、英語と国語のところも少なくないはずである。
 いらない科目は全部捨てて、受験科目に集中したいというのが、生徒の率直な感想だろう。

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2006年11月10日 (金)

ドローとペイント

 最近は森博嗣の本をエッセイに限ってだが、何冊か読んでいる。森博嗣『MORI LOG ACADEMY 1 』(メディアファクトリー、2006.3)の2005.11.15付日記で、ドローとペイントとは似ているが相容れない技能だと、パソコンソフトもそれぞれにわかれていることを例に挙げ、解説されていた。
 
 私は絵心はあまりないのだが、何年かに一度、絵を描こうと、鉛筆や色筆などを買い込んでくることがある。さいきんでは二年ほどまえに、ちょっとやってみる気になって、ステッドラーの鉛筆とHerlitzの色鉛筆を購入した。けっきょく、例によって、ちょっと描いて終わりになった。

 大人の塗り絵本が出始めたのはここ一年ほどの間だろうか。
 先の森博嗣の本によれば、ドローとペイントでは、線で物体を把握しなければならないドローの方がペイントより脳内で高等な処理が必要らしい。
 塗り絵本がドローをとばしてペイントだけをすればよいとしたのは、絵を描きたい、でもデッサンは苦手という人にとって朗報だろう。塗るだけだから塗り絵なのだが、大人向けに作ったのは、コロンブスの卵である。
 まだ塗り絵本を買ったことがないが、今度絵を描きたいという衝動が生まれた時に、塗り絵本もためしてみるつもりである。それまで、塗り絵本ブームは続くかな。
 

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2006年11月 9日 (木)

Etymotic ResearchのER-6i

 十月の中旬に、Etymotic ResearchのER-6iを購入した。アマゾンを経由して14000円ほど。
 メーカーの正式なHPは下記の通り、
 http://www.etymotic.com/ephp/er6i.aspx

 グーグルで検索してまっさきにあたるページでは
http://www.soundhouse.co.jp/shop/ProductDetail.asp?Item=1162%5EER6I
がこれ。
 このひとつきで千円ほど値下がりした気がするがどうか。
 
 耳穴につっこんで利用するカナル型イヤホンである。
 痛いかと思っていたが、それほどでもない。綾瀬に住んでいたころ、日ごろから耳栓をしていたので、それにくらべればなんともない。

 音質がいいと言われるが、2000円ほどのイヤホンに比べて、五倍六倍と音質がよくなるわけではない。でもいいのは確か。細かいところまではっきり聞こえる。円生百席でも、咄の途中になにかをもったりうごかしたりする音がきちんときこえる。

 いちばん期待していた遮音性は文句の付けようがない。耳栓をしているのと同じ。耳に真空状態(もちろん本当に真空なら音は伝わらないが)をつくって密着させているようなので、ひょっとしたら耳には悪いのかもしれない。

 ER-6iとER-6の二種類あるのだが、iはiPod用らしく、インピーダンスが16Ωと低くしてある。だから、音量を低めにしていもよく聞こえる。もともとiPodについていたイヤホンだと、半分以上(最大音量の)の音量に設定しないと電車の中ではよく聞こえなかったが、今は五分の一程度でも十分である。

 見た目はやや心細い。平打ち二本束ねコードは、おじいさんのAMラジオのコードのようだ(二本束ねではないが)。イヤホンの付け根からコードが抜けてしまわないか、不安でいまのところ丁寧に取り扱っている。

 交換用の耳当て(イヤーチップというのかね)は、二種類ついてきた。きのこ(フランジ)二段重ねのものと、ベージュのつぶして入れるもの。最初についている、きのこ三段重ねで十分だったので、一回も交換することなく使っている。

 ただ、私の耳が汚いせいか、耳あかがついてすぐに黄色くなってしまう。他人に貸す品ではないので、問題ないのだが。

 遮音性が高いので、うちのなかでもよく使っている。外から誰かが帰ってきても気づかないほどである。
 電車の中では手放せない。騒音が少なくなるだけで、乗っているあいだの疲れが違う。
 あとはどのくらい耐久性があるかという心配だけだが、いまのところよい買い物だったと満足している。

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2006年11月 8日 (水)

CMバックボタン

 パナソニックのHDDレコーダー(DMR-EH73V)をここ一年ほど愛用している。HDD録画の再生はVHSに比べて劣化しないのがよい。

 正午と午後七時のNHKニュースはいつも録画していて、暇なときに早廻しで見ている。クローズアップ現代も録画していて、興味がある回を1.3倍再生で見る。

 NHK『日本の話芸』や『日曜美術館』『NHK杯将棋トーナメント』は毎週予約になっている。

 唯一、なんとかならないのかと思うのは、本体正面右よりにある、簡単ダビングボタン(正式名称は知らん)をぐるりととりかこんでいる青いランプ。まぶしすぎる。マジックで黒く塗りつぶしてやろうかといくどとなく思った。

 HDDレコーダーを使うと、CMは見る機会がない。CMスキップボタンがリモコンについているので、すっとばしてしまう。

 冒頭の一瞬で面白そうだなと思うCMもあるわけだが、惰性で押しているので、あとの祭りである。戻ってみるためには巻き戻しをせねばならず面倒である。

 そこで、CMバックボタンがあればと思う。ついていれば、面白そうなCMだけでも見てもらえるはずである。

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2006年11月 7日 (火)

計画性と意外性

 私は小説を書かないのでわからないが、小説家は細かいストーリーやプロットを決めてから書き出す人は少ないのだろうか。
 劇作家の鴻上尚史は、結末を決めてから書き出さないと述べていたし、推理小説作家の森博嗣も題名が先決めでそれに合う内容にしていくと述べていた。
 論文、さらにいえば、このブログの記事のような単文でも、何を書くか決まっていないと、私は書くことができない。
 小説が意外性を必要とするのに、論文は計画性が重視される。

 マンガはどうなのだろう。編集者との打ち合わせがあるので、描く前にある程度の決まり事があるはずだ。考えながら取り組む要素は小説より低いかもしれない。
 私が高校時代を過ごした長崎は雑誌の発売が東京よりも二日ほど遅れる。高校時代に、東京に推薦入試にいったIが週刊ジャンプを読んで、ドラゴンボール(セル編だった)の続きがこうなると説明してくれたのだが、あまりに突飛すぎて、Iが私を担いでいるのかもしれないと、にわかに信じられなかった。
 

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2006年11月 6日 (月)

小さんは天才である?

 SP音源ではさすがに円朝のものはないが、漱石の『三四郎』の中で天才と評された三代目柳家小さんのものはある。『昭和戦前面白落語集』東京篇には「うどんや」がある。そのほか「粗忽長屋」を別のCDで聴いたことがある。
 どちらも録音状態も悪く、早口でよくわからない。これを聴いて天才を感じろ、というのは無理である。
 三遊亭円生が、こういった古い音源について、私が聴けばああ誰々の落語だと悪い録音でもその特徴がわかるが、普通の人が聴いてもわからないだろうといった内容を述べていた(『圓生の録音室』だったか)。
 ある落語評論家がその三代目柳家小さんのSP盤の感想として、さすが天才と呼ばれた小さんだと書いていた。
 先入観とは恐ろしい。それとも、その落語評論家が聴いた録音は私とは違うのか。

補記:ちなみにいまは六代目。人間国宝だった五代目の長男。

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2006年11月 5日 (日)

SP盤の落語

 『昭和戦前面白落語集』東京篇、上方篇(エニー、2006.9)を購入した。SP盤の貴重な音源を収録している。東京篇が16枚組に解説付で税抜き24000円。上方篇が8枚組におなじく解説付で12000円。資料の珍しさからすれば、まったくもって安い。
 詳細は次のHPでわかる。
 http://www.onsei.co.jp/rakugo/sp/index.htm
 CDショップに見本の箱が置いてあったので、予約注文したのだが、箱には値段が書いていなかった。にもかかわらず、値段を聞きもせず注文したのは、なにがなんでも欲しかったからである。
 入荷の後、予約票を渡すと、店員が原簿を確認したのだが、そこに「7万」とか書いてあって、それが値段かとさすがに心配になったが、どうやら関係のない数字らしく助かった。
 SP盤が音源になっているものを聴くのははじめてではないが、こうしてまとめて聴くとSP盤の特徴がわかる。
 SP盤は約六分しかないので、早口で吹き込まれたものが少なくない。
 噺そのものをくって(省略して)いるものもあるが、早口でしのごうとしたものが大半だ。
 ぼんやりと落語を聴くのは楽しいが、SP盤だと油断していると噺がわからなくなってしまう。
 そういうわけで、なかなか聴き進められない。

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2006年11月 4日 (土)

PSPで動画

 「携帯動画変換君」を使ってもよかったのだが、ユーリードのVideoStudio9が使いやすかったので3500円ほどの、VideoToolBox2forMemorystickをダウンロード購入。Uの結婚式の動画をMPEG4に変換して、PSPで見られるようにいろいろと試す。

 ファイルが認識されず、ファームウェアのVer.を上げたりいろいろしてみるがダメ。ネットで調べてみると、私が買ってきた雑誌に誤りがあったようで、ネットの情報通りにファイルネームをつけてみると読み込む。
 これだけでかなりの時間がかかった。

 VideoToolBox2forMemorystickのいいところは、まず、複数のWMVファイルやJPEGファイルを合体させて、MPEG4ファイルにできるところ。でも、あまり使うことがないかな。
 もうひとつは、DVDから読み込んでそのままMPEG4ファイルにできるところ。リッピング用のソフトをかませなくてよい(プロテクトのかかっていないものに限るが)。

 ためしに、NHK「日本の話芸」から三遊亭楽太郎の「紀州」30分をMPEG4ファイルに変換してみるが、おそろしく時間がかかる(30分ほどか)。

 で、これからが大事なことだが、動画と音声とがほんのこころもちずれている。しゃべる口と言葉があっていないのだ。先日、Uの結婚式のためにスライドをDVD-Video形式で作ったのだが、これも再生機では微妙にずれていた。それの音はBGMだけだからたいして気にならなかったが、落語だとかなり気持ち悪い。

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2006年11月 3日 (金)

落語評論、サッカー評論

 落語評論というものが可能か。見ればわかるものを論じていったいどうなるのだ。そういった議論が、安藤鶴夫が活躍した1960年代までは、それなりになされていた。いまでは、安藤鶴夫のような大物評論家がいないせいか、そうした議論も下火になってしまった。

 この落語評論のように、見ればわかるものを論じてどうなるという疑義のはさみかたは、適応の幅が広い。

 さいきん、感じるのはサッカー評論というものが可能か。ということである。

 日本代表のガーナ戦のあとの監督会見で、守備的だったのではという質問が出た。『SPORTS Yeah!』(151号、2006.10.20-11.2)で、小宮良之が「攻め手が三都主のみで、マンツーマン守備に終始する古典的戦術で攻撃的チームと誇るのは、どうにも無理がある」と述べた。

 同誌で馳星周は「個人個人が考えながら走る。これを90分続けることはもちろん無理だが、できつつある時間帯があったことも確かだ」と述べ、「たとえばCBの水本や今野が攻撃参加したように、リスクを冒す時は迷わず前へ行っていた」と述べる。

 私はテレビ観戦だが(馳星周の記事ではよくわからなかったが、スタジアムに行ったのだろうか。記事まで依頼されて自宅観戦とは、まさかね)、守備的とはおもわなかった。

 将棋と一緒で、サッカーは相手があってなりたつ。自分のやりたいようにできるわけではない。攻めたり守ったりと、相手に対応しながら最善手を尽くすのが、ゲームの基本である。
 無敵の魚鱗の陣、鶴翼の陣があって、それをぶつければ相手に勝つようにはできていない。

 『SPORTS Yeah!』(151号)を読んで思ったのは、偉そうにいろいろ言われなくても、試合は観ればわかりますよ、と。
 紙面で事実を伝えるより、映像を見た方がわかりやすいのは、百聞は一見にしかずの故事をもちだすまでもない。

 じゃあ、スポーツジャーナリズムに必要なこと、私が求めるのはなにか、というとできるだけ多くの情報である。

 スポーツナビ(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/)は監督会見の全文を掲載する。選手インタビューの数も、新聞などでは二三選手のひとことふたことであるのに、スポーツナビはたくさんの選手の情報を載せる。
 官邸や官庁が、会見や広報文の全文をHPで開示するようになって、一部のマスコミからメディア軽視と言われているらしいが、マスコミが選択した情報より、できるだけ多くの情報を知ることができて、みな便利になったのは確かだ。
 
 スポーツノンフィクションの一里塚となった山際淳司『江夏の21球』や金子達仁『28年目のハーフタイム』が、ともにインタビューを中心とし、ただ競技場で眺めるだけではわからない事実を明らかにすることを目指しているのは示唆に富む。

 虫明亜呂無のようなスポーツの美しさを純粋に伝える方向へ日本のスポーツジャーナリズムが進んでいかなかったことを、玉木正之はことあるごとに嘆いている。

 だが、そもそも見ればわかるものを対象にすれば、山際や金子の方向にすすむしかないのかもしれない。

補記:『SPORTS Yeah!』(151号)だが、読んだことが時間の無駄。オシム特集にひかれて、ここのところ何冊かスポーツ雑誌を買っていたが、ふたたびスポーツ雑誌からは手を引くつもり。
 金子達仁は「儚い運命を見極めるために」と題して、オシムよりも現在執筆中の本からヒディング論に終始。書けないなら書きなさんな。今回のワールドカップが「チームとして一体感がないほうが負ける」という、金子好みの結論にころがったので、それを書くのは楽しいだろうね。
 

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2006年11月 2日 (木)

物語としての新聞

 新聞にはそれぞれカラーがある。真実を伝えれるのが報道の使命なら、伝えられる内容はどの新聞でも変わらないはずだが、実際には、紙面の組み方、見出しの付け方をはじめ、掲載紙の主義主張にそった内容が伝えられる。

 たとえば、朝日新聞と産経新聞では、同じ事件でも伝え方がまったく違う。

 一人で書く小説ならともかく、新聞社はたくさんの従業員を抱えているので、ある新聞社の社説と違う考えの新聞記者もいるだろう。むしろ、自社の新聞は寸分違わず我が意にかなうものばかり、という人はすくないはずである。

 私的には違いがあっても、オレたちは朝日新聞だから、読売新聞だから、それらしい記事を書こう、購読者はその新聞らしい記事を読みたいのだから、そう思って書いているのではないか。

 人は真実と思いたいことを真実と認識するという。

 新聞は、ある傾向にそった真実を信じたい人たちに、都合のよい物語を提供する、物語発生装置なのではないだろうか。

補記:実は1200字ほどで、具体的にある新聞のある記事を批判する内容を書き、結論として「物語としての新聞」なのだ、という記事を書きました。具体的には朝日新聞なんですが。
 でも、朝日新聞を批判しても、批判の内容は週刊文春か週刊新潮の記事のように、それもひとつのおきまりであって、面白くないので、抽象化しました。

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2006年11月 1日 (水)

猫ファンの浮世絵

 妻の友人から歌川国芳の猫の絵だけが入った画集がないかと、聞かれたことがある。
 残念ながら、その要望を満たす本はない。鈴木重三編集『国芳』(平凡社、1992.06)という豪華大型本(税込45873円)なら、国芳の猫の浮世絵をかなりの数、見ることが可能である。ただし、すでに絶版で、古本屋でも手に入りにくい。

 先日、テレビ東京「美の巨人たち」(2006.10.14)が歌川国芳の「猫のすずみ」をとりあげた。

 ららぽーと豊洲に「UKIYO-e TOKYO」という、もと平木美術館のコレクションを展示する場所ができたらしい。知人によると、猫特集らしい。10月14日の「アド街ック天国」が「豊洲特集」だったそうなので、「美の巨人たち」とどれだけ連動しているのかもしれない。会場には浮世絵好き以外に猫好きとおぼしき人びとも集まったらしい。
 猫好きの人のための浮世絵画集、あれば売れるか否か。

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