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2006年8月31日 (木)

北海道での運転

 北海道だが、車の速度が速い。70~80キロはざらである。道は広くて運転しやすいのだが、スピードが出ていればいざというときに事故を起こしやすい。私も一回だけ事故現場を見た。
 また、北海道で多かったのはレンタカー。自分たちも利用したが、ないととてもじゃないがやっていけない。北海道で事故を起こしているのは、レンタカーを借りている旅行者とよく言われるが、当っている面もあるだろう。
 全国で、交通事故件数の最多は、北海道。先のレンタカーのせいだけでなく、雪のせいも大きい。
 ちなみに、二番目は埼玉。雪のせいでもレンタカーのせいでもない埼玉。やっぱり運転マナー悪いよ。北海道から帰ってきてそう思った。

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2006年8月30日 (水)

みかんとりんご

 息子はリンゴジュースよりもオレンジジュースが好きである。去る八月三日から六日まで北海道を旅行したのだが、カフェテラス式の店でオレンジジュースがない店があって驚いた。かわりにリンゴジュースがある。
 スーパーやパン屋などでも、リンゴジュースの品揃えがよくて、オレンジジュースが少ない。
 私たち九州出身の人間はみかんをよく食べる。冬になるとクラスで一人は、柑皮症で手が黄色くなる。北海道ではリンゴが優勢なのだろう。
 何事も土地土地である。

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2006年8月29日 (火)

なかんずく人形浄瑠璃

 ここ半年ほど、興味を持っているのは上方文化。落語や地誌に関心があったが、さいきんは、なかんずく人形浄瑠璃。関連する本を図書館から借りたり、自分で買ったりしている。以前から、観てはいたが、時代物がほとんどだった。世話物をもっと観てみたい。

 赤川次郎『人形は口ほどにものを言い』(小学館、2003.12)は、人形浄瑠璃でも世話物を中心にとりあげている。吉田玉男、竹本住大夫の組み合わせは大絶賛である。

 おもしろいのは竹本住大夫『文楽のこころを語る』(文藝春秋、2003.8)で住大夫が世話物を好いていないことである。住大夫に限らず、近松物の世話物が義太夫語りに好かれていないのは、近松物の人気を考えると面白い。

 私個人の趣味をいうと、世話物は嫌いである。心中の場面を観ていると、死ぬなよと思う(バカッぽい感想だが)。どうにかしよう、なんとかして生き延びてやるさという気分を大事にしたい。

 だが、もし世話物を観て、素直に感動できるようになるなら、自分が今まで見えてこなかった人間の部分が見えるのではないか。それを楽しみに、ひとつ関心を持っている。

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2006年8月28日 (月)

誕生日は夏休みのおしまい

 今日でいちおう三十三歳。昨年もそうだが、感慨なし。別の記事をブログに載せようとして今日の日付に気づいた次第。
 誕生日が八月二十八日なので、誕生日を迎えると夏休みももうおしまいというのが高校生までの気分だった。
 さいきん、八月二十五日を二学期の始業式にしている小学校が、もともと夏休みの短い東北や北海道ではなく、東京都でもいくつかの区であるらしい。誕生日がきて、夏休みの終わりという順序が身に染みついているので、聞くだけで不思議な感覚におそわれる。
 まあ、もし、私が小学生で八月二十五日に始業式を迎えたら、いま大人の時点でもっている誕生日は夏休みのおしまいという感覚がないだけの話なんでしょうがね。

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2006年8月27日 (日)

スパゲティのソース缶

 大学一年生の頃、田舎から定期的に大量のスパゲティが送られてきたので、かなり長い間それを食べていた。一緒送られてきたのが、生協のミートソース缶で、最初はそれをかけていた。その後、いろいろとレトルトスパゲティソースを買って、とりまぜて食べたのだが、どれも似たようなもので飽きてしまった。ついには、スパゲティを送らないでくれと頼んだので、この苦労は止んだ。
 今でも、ときおりレトルトスパゲティーソースのミートソースを食べることがある。外食のスパゲティのうち、出てきた瞬間にソース缶を使っているとわかるものもある。そういったスパゲティのにおいを嗅いだだけで、かつて住んでいた久我山のアパートを思い出す。

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2006年8月26日 (土)

ざるうどん

 息子は、ざるうどんが大好きで、外食の際はかならずそれを食べる。うちでも国内産小麦を使った冷凍うどんを食べている。一分ほどゆでれば食べられるので至極簡便である。
 冷凍うどんも慣れ親しんだので、外で食べても、それが生麺をゆでたものか、冷凍麺をゆでたものか、もっと立派な手打ちうどんなのか、すぐにわかる。うちで一玉六十円もしないうどんが、外で食べれば五百円ほどするのはつらいが、仕方がない。

 ちなみに、私は蕎麦が好き。「そば清」のようにガツガツ食べたい。「そば清」は聴くことは多いが見ることはほとんどなかった。最近、春風亭昇太が「そば清」を演じているのをテレビで見たが、なんかうまそうじゃないなぁ。終わった後に、食べたいなぁと思わせるような食べ方をしてほしい。だが、いぎたなさが身を滅ぼす「そば清」では、そんな食べ方をしてはいけないのかもしれない。

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2006年8月25日 (金)

千葉のコスモポリタン

 先日、バスツアーで鴨川シーワールドまで行った。アクアラインは通らず、京葉道路に館山道を使って、その後は山越えした。
 埼玉に住んでいるので、埼玉の田舎には慣れたが、千葉の田舎も独特。山がちなのは、驚く。家の外装も埼玉とは違う。
 途中、久留里を通った。
 ずっと前のことだが、某先生と飲んでいたとき、某先生が「僕はコスモポリタンだから」と言った。飲んでいたのでその後、話は右に左にといっていたのだが、某先生の先祖が千葉の久留里藩の藩士であることがわかった。
 誰かが、エーそんな田舎ですかぁといったところ、某先生は久留里がいかによいところか力説した。
 コスモポリタンであることと、郷土愛を持つことは矛盾しない。

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2006年8月24日 (木)

バスの最後列

 高校時代、通学バスの最後列は最高学年の生徒が座るという慣習があったせいか、いまだにバスに乗ると最後列に座れないか、まず考えてしまう。
 妻との新婚旅行で北海道をまわったとき、ガラガラのツアーバス(フリーとツアーバスがごっちゃになったプランだった)の前の方には老人が集まり、私と妻だけが最後列に乗っていた。
 先日、バスツアーで鴨川シーワールドに行ったのだが、このときも、私ら一家が最後列に陣取った。
 バスの最後列は揺れが激しく、千葉の山道を抜けたため、快適ではなかった。添乗員さんによれば、混んでいるときはみな前に座りたがり、空いているときは後ろに座りたがるらしい。そしてバスの中ほどが揺れにくいという。

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2006年8月23日 (水)

ア行の災難

 先日、油断して携帯電話(正確にはPHSだが)をほったらかしにした際に、息子がいじって電話を掛けたことが発信履歴でわかった。ア行の先頭の人にかけたのだが、友人のア行の某君は、現在米国に住んでいるので、登録してあった某君の実家にかかってしまった。
 無言電話は、私も経験があるが、非常に不愉快である。某君に、不審な電話でないことを、ご実家におりをみて伝えて欲しいとメールしたところ、ご実家からア行なのでそういう電話がよくかかってくるとのメール(の転送)をいただいた。
 私はヤ行である。名前順だと後回しなので、ア行とかカ行の人がうらやましい。しかし、ア行で不利なことがあるとは。私の知らなかったア行の災難である。

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2006年8月22日 (火)

溺死の夢

 7月31日に、埼玉県ふじみ野市の市民プールで、流水プールの排水口に飲み込まれて、小学二年生の女の子が亡くなるというむごたらしい事件があった。排水口の金網が壊れていたのに、営業を続けていたためだという。
 ここ40年で50件の死亡事故がプールで起きているらしい。
 実は、子どもの頃、プールの排水管の中に閉じこめられて窒息死する夢をとてもよく見ていた。そういった危機一髪のシーンがある『未来少年コナン』や『カリオストロの城』のせいかもしれないが、なぜだかはよくわからない。
 飲み込まれた女の子の救出というか死体回収は難航して、コンクリートを破壊し、管を壊して、すべてが済んだのは午後七時をまわってからだった。
 テレビで救出というか、死体回収の場面を映していたのだが、見ていて、恐怖。恐怖。本当に怖かった。
 そのほか子どもの頃よく見た怖い夢は、追いかけられる夢。何に追われているのかわからないけれども、とにかく追われている。空を飛ぶ夢をいつも見ていた人(妻とかそうらしいが)がうらやましい。

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2006年8月21日 (月)

戦中戦後の本

 戦中、あるいは戦後二三年のうちに出版された本は、きわめて紙質が悪い。表紙から粗悪である。中の紙も黒いゴミのまじった酸性紙で、ひどく変色している。手にとれば、奥付をみなくても、その時期に刊行された本だとわかる。
 だが、外見はひどくても、今日明日も知れぬなか、出版されただけに、内容はこちらの心に響く本が多い。傾向として、大局から見た本、ものごとを総合的に、総括的に論じようとした本が多いと感じる。
 菅竹浦の『近世狂歌史』(日新書房、1940.10)、渡辺均『落語の研究』(駸々堂書店、1943.1)などがそうで、ここで言っておかねば、この先どうなるかわからないという気持ちが感じとれる。
 麻生磯次『笑の研究』(東京堂、1947.9)は、文学における笑いについて総合的な観察の本である。京城帝国大学の教授でもあった麻生が、戦後まもなく、今までの文学研究で評価の低い「笑い」の本を出したことについて、何か思うところがあったのではと感じとれる。
 このような私の印象について、結果から見たものの言い方で、本当は研究者としての成熟と、時代状況がたまたま一致しただけなのかもしれない。だが、このぼろぼろの本に、その外見と反する魂を、私は見る。

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2006年8月20日 (日)

CD付の本

 演芸関係でCD付の本が多くなった。手元にあるだけでも、以前紹介した、快楽亭ブラック『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』(洋泉社、2006.4。税込み1785円)のほか、春風亭昇太『はじめての落語』(東京糸井重里事務所。2005.5.16、税込み2300円)、技術評論社の「志ん生で味わう江戸情緒」のシリーズ(各税込み1974円。残念ながら録音がよくない)、よみがえる講談の世界全三巻島田大助編『水戸黄門漫遊記』・杉本好伸編『安倍晴明』・堤邦彦編『番町皿屋敷』(国書刊行会。2006.4~8。演者はすべて四代目旭堂南陵。各税抜き2400円)、『ご存知!清水次郎長伝』(二代目廣澤虎三、KKベストセラーズ、税抜き1980円)などいろいろ。そういえば白夜書房の『笑芸人』にもCDのおまけがついている。
 今時CDだけでも同じぐらいの値段がするだろう。書籍にすることで価格が下がるカラクリか。いずれにしても、大変お得である。

 私はもともとCDの管理が下手である。あるCDを聴いて、別のCDを聴くときに、もとのケースにもどさず、次聴くCDのケースに、かわりに入れてしまう。しばらくすると、ほとんどのCDとケースが一致しなくなる。
 これはいかんということで、CDだけを入れる本型のファイルケースを買ってきて、CDだけ取り出して入れることにした。これは便利だが、引っ越している内に、ケースをあけても中味がないが、ファイルケースを探しても見つからないというケースが増えた。なぜだかよくわからない。
 管理が楽になったのは、パソコンにぶちこめるようになってから。一度、パソコンに取り込んでしまえば、CDとケースは箱に入れて、収納してかまわない。

 さて、話は戻って、CD付本のCDはどう管理するか。これも以前は、本についてるビニールケースに戻していたが、今では、パソコンに取り込んだ後、100円均一店で買ってきたプラスチックのケースに入れて、他の音楽CDと同様に箱にしまっている。

 いつの日か知らないが、私もやがては死ぬだろう。そのとき、躊躇せずに、蔵書は古本屋に売るように、家族には言ってある。そしたら、CDと本は、泣き別れ。おそらく、均一台かなんかに並べられて、「CDがないのか、チェッ」なんて言われていることを考えると、今のうちから、本が不憫である。

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2006年8月19日 (土)

停電4%引き

 8月14日にクレーンが送電線に接触して都内が大停電する事件があった。鉄道の多くが止まったので、帰省の飛行機や新幹線に間に合わなかった人も多かっただろう。翌15日に家族総出で都内に行く用事があったので、一日ずれて助かった。
 今回の停電で、停電が一時間以上続くと基本料金から4%引いてもらえることを初めて知った。
 私が綾瀬に住んでいたころ、昼間、のちの妻といっしょに焼き肉屋で食事していたところ、いきなり停電にあった。私の部屋が近かったので、私がろうそくと懐中電灯をとってきて、わずかな灯りの中、焼き肉をした。
 普通に食べたはずだが、食べ物が見えていないと食べた気が起こらないのか、店を出たときにまったく満腹感がなかった。
 同じ頃に、友人の某が、時間制食べ放題の焼き肉屋のもう終わりあたりに停電にあって、それまでの飲食代をすべて只にしてもらったことがあった。それに比べて、割引ひとつしてくれないところが、綾瀬の焼き肉屋らしいといえばらしい。
 停電の原因は、近所での電線工事だったらしく、三時間ほど停電していたが、4%も何も手当はなかった。その夜、パソコンを使って仕事をしなければならなかったので、とりあえず復旧してほっとした。

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2006年8月18日 (金)

不愉快の大小

 籐の敷物をつかっているので、先日、ちょっとしたトゲが足の裏に刺さった。ほんのわずかなトゲで、抜き取るほど先が出てもいないし、針でほじくるほども大きくない。経験上、二三日すれば勝手に出てしまうのだが、それでも歩くと時折気になる。
 ごくちいさなトゲが、とても大きな不愉快をもたらしている。

 日常生活でごく些細なことに腹が立って、それがいつまでも気になってならないことがある。そのたびに、それしきのことで気分を害している自分は、なんと小さい人間なのだと自己嫌悪に陥っていた。

 だが、足の裏にごくわずかなトゲが刺さっただけで大きな不愉快があるのならば、心にだって、小さなトゲがとても気になることがあるだろう。キズの大小は不愉快の大小と必ずしも比例しない。

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2006年8月17日 (木)

寝床 その二

 さいきん、円生百席の「寝床」と桂文我の「寝床」を続けて聴いた。円生のCDは寝るときによく聴いているのだが、「寝床」は面白くてついつい最後まで聴いてしまった。
 日頃は人がいいにもかかわらず、義太夫のことになると人が変わったようになってしまって、「こんなこといいたかぁないが」とネチネチ文句を言うようなところを、円生はきわめて現実的に演じていて、人間の性(さが)が感じられる。談志は落語は「人間の業の肯定」と言っていたが、円生の演じる旦那を聴けば、納得がいく。きっと、円生自身の性格に合っているのだろう。
 円生と比べて、桂文我の演じる「寝床」は落語世界の「寝床」。なにが、落語世界かというと、さいしょから登場人物の奇矯さ、滑稽さが強調されており、実際には「ありえない」風に展開されていくこと。「饅頭怖い」などは落語世界でないと成り立たない。よく考えれば、現実の人間がどうしてもとるはずのない行動だからである。
 円生の写実と文我の誇張、それぞれに違った魅力がある。私としては、写実的に演じる円生の方が、滑稽味を増すように演じた文我よりも、ずっと笑えた。

 なお、円生百席のとあるCDのダブリがあったので、後輩の女性にあげたところ、とても聴き取りやすいしゃべり方だった、と言われた。今の人の感覚に比べれば、円生の演じる速度はかなり遅いので、まどろっこしいと思われるかと心配していたが、逆の評価でほっとした。

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2006年8月16日 (水)

寝床 その一

 先日、後輩で大学院修了者のM君に講談を観に行かないかと誘われた。もちろん、承諾したところ、せっかくなので、終わった後に暑気払いでもいたしましょう。ついでに、観に行く人も、大学院の院生から誘ってみましょうと返事をうけた。これにも異存はないので、了解のメールを送ったところ、「Yさんと一緒に講談を聴きに行くのですが、一緒にどうでしょう。なお、公演終了後暑気払いをする予定です。どちらか一方でも都合のつく方はご連絡下さい」といった文面のメールがCCでまわってきた。
 どちらかといえば、M君より私の方が講談好きで知られている。おそらく、私が企画立案して、M君に命じて、皆を誘っているものと解されただろう。酒癖の悪い私と一緒に飲みたいなどという人間がいるだろうかと、心配していたところ、案の定、希望者はなし。
 最初から二人で行くと決まっていれば、なんということはないが、断られての二人となると、どことなく気分が悪い。M君から、残念ながらのメールの話を聞いていると、落語「寝床」の義太夫好きの旦那の気分になった。

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2006年8月14日 (月)

古典の力

 masapfさんに「素人によくわかる?」の題で、「素人発想 玄人実行」(2006.08.11)の記事にトラックバックをいただいたので、それの返事といってはなんですが、最近思っていることを書きます。
 
 文学研究は、間口が広いようで、実はそうでもない。学術誌に載る論文一本の本当の価値と内容を理解できるのは、せいぜい十人程度である。文学研究の論文は、高度で緻密で繊細なものとなっている。博士論文を一般の人が読んでもまったくわからないだろう。

 文学研究が精緻巧妙で高度なものになる一方で、一般人におきているのは活字離れで、なかんずく古典文学はますます相手にされなくなっている。私の先生が書いた、近世の分野ではかなり著名な作家に関する文庫本は、五千部を売り切れずに絶版となったそうである。
 さいきん、一般読者もかなり考慮に入れた、かなりできのよい近世文学研究の季刊誌が発行されたのだが、それも二千八百部しか刷っておらず、それも売り切れるかかなり至難の業らしい。
 なにか、古典への糸口を設けて、潜在的にはまだあるはずの、古典に関心のある読者をひきつける工夫がいっそうなされなければならないのが現状である。

 その一方で、敷居は高くても、それを乗り越えて、古典文学に挑んで欲しいという気持ちもある。いきなり原文のみは厳しいとしても、岩波の新日本古典文学大系や小学館の新日本古典文学全集などを注釈のついた本を手にしてもらえないものか。八犬伝や浮世風呂など文章そのものの名調子を味わって欲しいと思うのである。

 こういったジレンマは、最近揉めていた将棋界での普及と専門棋士のありかたの問題に似ていて、悩ましいものがある。
 いちばんの解決策は、はやりのオシム流ではないけれども、「自分で考えさせる」すなわち「読者に関心を持たせて、次からは自力で読み進めさせる」ということかと考えている。それができるのは、やっぱり達人になってしまうのだが。

**明日、お盆休みで更新をしません。あしからず**

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2006年8月13日 (日)

お面

 ある夏祭りで、息子がせがむので、ボウケンジャーのお面を買ってやったが、なんと800円!!。道理で私が子どもの頃に一度たりとも買ってもらったことがないはずだ。
 まあ、息子もうれしそうに遊んでいるのでよかったが、お面で遊んだという経験が私にはない。息子を見ていると、人間にはお面をかぶりたいという欲求が本能的にあるのだとわかる。能も狂言もそういうことか。楽しいのかな。あの面かぶって。

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2006年8月12日 (土)

東京都水道資料館

 もうひと月以上前の話になるが、東京都水道歴史館に行ってみた。本郷三丁目とお茶の水と水道橋と、三つの駅が描く三角形の中にある。その三つの駅はよく使うのだが、不思議と水道歴史館に行ったことはなかった。
 知り合いの先生から勧められたのだが、その先生が言うように意外と面白い。下町の長屋が再現されていて、そういったものは下町民俗資料館だとか江戸深川資料館などにあるが、井戸端など水関係に力をこめて再現しようとしており、特徴が出ている。
 水道はインフラなのだが、時代小説にはほとんど描かれない。こういったものが、きちんと描けていれば、その小説ももっともらしさが増すはずである。
 なお、私が行った日に玄関の補修をしていた。私が行ってまもなくの七月四日に皇太子殿下が視察されたらしく、そのための補修とあとでわかった。

補記:隣接する給水公苑はあやしい雰囲気で、異次元の趣きがある。

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2006年8月11日 (金)

素人発想 玄人実行

 さいきん書いたちょっと遊びの要素の大きい論文の抜刷を、知り合いの先生に送った。すると、うちの学生の卒論に似たような内容のものがあったという葉書をもらった。
 ひょっとしたら、あんたの論文なんて卒論並みという揶揄がこめられているのかもしれないが、こちらとしてはニヤリ。
 金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する ―問題解決のメタ技術』(PHP文庫、2004.11。初出は2003.6の単行本)が「素人発想、玄人実行」という標語を抱えているが、まさにそれで、発想は素人でも、それを証明する手際が玄人だから、論文になるのである。実行が玄人であれば、発想が素人であっても恥じることはないし、むしろ専門家の盲点に入りがちなところを突いていて悪くない。

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2006年8月10日 (木)

帯の字の大きさ

 高階秀爾『本の遠近法』(新書館、2006.5)について。前日の続き。

 私が買った初版本には緑地に白抜きで「しなやかな知性が実践する 読書術! 本が本を呼ぶ読書の醍醐味」とある。このうち「読書術!」だけがポイントが大きく、一字が3×3センチほどある。タイトルの「本の遠近法」は一字1.3×1.3センチほど。
 そのためか、途中まで「本の遠近法」ではなく「読書術」が題名なのだと、ぼんやりと記憶していた。

 前に紹介した快楽亭ブラックの『放送禁止落語大全』でも、本の題名より、帯の売り文句の方が大きい字を使っていた(思い違いで帯の字の方が小さかった。2006.08.18)。

 書店で少し注意してみると、帯の字が題名よりも多い本が、いつの間にか増えている。
 デザイン上、あまりに大きいタイトルはみっともないが、売りたい目立ちたいという根性はあって、どうせ外されるものと踏んで、帯に大きな字を使っているのだろうか。
 それにしても、新聞書評などで帯を外した状態で本の写真を載せている場合がある。書店売りに強い影響を与える新聞書評の性格からすると、書店での状態に近い帯付きの本の写真を使うのがよいだろう。

 私の知り合いの学者が学術誌に書評を頼まれた際に、本の写真を撮りたいのでお持ちなら貸してくださいと編集部にお願いされた。著者からの献本を持っているからと油断していたところ、献本なので帯がなかった。帯がないと不都合だと注文を受け、親切なその人は、書店で新品を買って渡した。
 

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2006年8月 9日 (水)

したたかな高階秀爾

 私と同じく三十代前半の年齢で、批評や書評に活躍する人が徐々に増えて、たのもしいというか、楽しみな状態だが、批評や書評に関しては、まだまだ年の功がでると思わされた本が一冊。高階秀爾『本の遠近法』(新書館、2006.5)は、老獪とかしたたかという印象をうける、書評集である。
 なにせ、筆者の知識の総体が巨大で、そこから小出しにネタをだしていくので、広がりと深みが感じられる。残念ながら、私と同世代の批評・書評家だと、なにかひとついい切り口を作って、さあどうだ、と見得をしたところで終わりになっている。まだ、浅い、狭い。
 高階秀爾がどう論じているか。尾本惠市編著『日本文化としての将棋』(三元社、2002.12)を対象とした「将棋の思考、チェスの思考」では、まず司馬遼太郎の『坂の上の雲』の日本海海戦直前の場面から話題を始める。
 戦争から疑似戦争の将棋へと話題をうつし、尾本惠市編著『日本文化としての将棋』の内容紹介。そして、将棋とチェスの起源と展開へと話を展開し、さらに将棋界ではよく知られたエピソードとして、升田幸三がGHQにチェスの非難をしてやりこめた話を紹介する。
 そして、自分自身の経験として、将棋をきっかけに、恩師にあたるフランス人の学者とした文化論の話題を述べ、将棋に西欧の論理におさまらないものがあったのであろうと語る。
 末尾は、こぼればなしになり、升田幸三とGHQとの折衝をめぐるエピソードについて、『日本文化としての将棋』の編者の一人小暮得雄が、「この種のエピソードがどの程度史実に即したものだったかは確かめるすべもない」と述べたことについて、升田幸三自身が『歩を金にする法』(講談社、1963)で詳しく語っているので、事実と見てよいであろう述べて締めくくる。
 わずか二千字程度の書評なのだが、目の付け所も展開もまったく見事で、非の打ち所がない。末尾も、他説を補いつつも、おのれの知識をひけらかすわけでもなく、嫌みのない書きぶりで、余裕が感じられる。
 高階秀爾には、もうひとつ「将棋に見る『役割意識』」という将棋本の短い書評が収められているが、これもよく書けている。美術について、語り合うのは無理だろうが、将棋なら大先達に一手御指南願いたいと思った。
 実を言うと、『本の遠近法』がとりあげている本に興味をもって、書店に行って、手に取ってみたのだが、そのほとんどが面白くない。もとの本より書評が面白いのである。こういった花のある書評を私が書ける日がくるのやら。

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2006年8月 8日 (火)

こんにちは こんにちわ

 もう六年ほど前になるが「こんにちは」と「こんにちわ」のどちらが正しいのかという質問の電話を突然受けた。剣道の知り合いCからだったが、ファミレスで議論になって、そういえば私が国文科だったことを思い出してわざわざ東北の某県から電話してきたらしい。
 私は酔っていたのと、寝ていたのとで、ぶっきらぼうに「『こんにちは』だよ。今日はいい日ですねの省略。『は』は係助詞」と答えた。むこうは、「係助詞?」なんて鼻で笑いながら電話を切った。
 が、あとになってよい質問だと誉めてやればよかったと思った。
 発音からいえば、「こんにちわ」でもおかしくない。だが、実際には「は」である。このように、現代仮名遣いでは発音と表記が一致しないものがたくさんある。

 「じ」「ぢ」「ず」「づ」(いわゆる四つ仮名)の使い分けも、きちんとした法則があるわけでない。
 高校の非常勤をしていた頃、ある国語の先生がこの使い分けを小テストに出していた。うまく点がとれずに職員室に呼び出された女子生徒が、なんでそうなっているんですかと、逆に不平を述べていた。
 そのとき、「福田恆存の『私の國語教室』でも読んで反撃しろ」といいたくてたまらなかった。
 私自身、使い分けが下手だからではないが(ATOKによく注意される)、四つ仮名の使い分けに目くじらをたてるのは、現代仮名遣いでは無駄だと考えている。
 

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2006年8月 7日 (月)

あいさつ

 マンション管理組合の理事会での議事録は、持ち主でない、マンションを借りている私のポストにも入っているのだが、ある回の内容を見て驚いた。
 知らない人に挨拶をされるので、誰がどこに住んでいるのか紙に書いて配って欲しいとのことだった。
 私がマンションできちんと知っているのは隣と下ぐらいなものである。他の人たちは名前など知らないが、会えば挨拶ぐらいはする。このごろ、特に防犯意識の高まりのため、相手がおそらくマンションの住人でなくても、声をかけるのが普通である。たしか、そういったことが、ずうっと前の議事録に載っていたような気が……。
 実際に配られたのは戸主のみの名前が書いた紙だった。それを各戸に配布しても、知らない人は一向に減るまい。あまりにアホことがなぜ議論され、発言者に誰も疑義をはさまなかったのか不審である。誰が発言したのか知らないが、理事会の出席者の名前を見返しながら呆れてしまった。
 
 不快な話はこのぐらいにして、田舎に行って、道をすれ違うもの同士挨拶するのは気持ちのよいことである。私が知らない人からうけたもっとも気持ちのよい挨拶は、五年ほど前、対馬を妻と旅行した際に、地元の小学生の女の子からされたものである。
 自然で、純朴な感じの伝わる「こんにちは」の挨拶を今でもよく覚えている。
 独歩風に言えば、その子は私にとっての「忘れ得ぬ人」である。

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2006年8月 2日 (水)

B型眉毛

 息子をある人に見せると、B型ですねと言われた。当っているので、予想の根拠を聞いたところ、私や息子の眉毛がB型眉毛なのだと、きっぱりと言う。
 ある血液型の人のDNA鑑定の例をたくさん集めれば、ある血液型がある眉毛の形の発現の遺伝子と結びついていることがわかるかもしれない。だが、かかる金と時間を考えると、割に合わない研究だろう。血液型占いすら信じない妻の感想は、あの自信はなんなのかしらねぇというものだった。
 人の性格から血液型を当てるのは、トンデモ理論であることは間違いない。だが、当てる方が熟達していて、「あなた××型でしょ」と切り出す人のほとんどが、私の知る範囲では、偶然の一致よりも高い確率で、性格と血液型を結びつけられるのは不思議である。

  **明日から六日まで更新を停止します**

補記:こういった占いは、外れたときの対応のうまさで当っているような気にさせるものです。このことについては、また日を改めて書きます。

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2006年8月 1日 (火)

偉い人がAB型

 私の高校時代の友人Tは、あだ名がホストというぐらいのやさ男だったが、Tの特技がピアノと血液型当てなのだった。この血液型当てというのは、もちろん合コンでその真価を発揮していたらしい。その小手試しというか練習というか、私を含めた同級生の血液型当てもTは、やってみせてくれたが、外れることがないのだった。
 Tにどうやって当てているのか聞いたところ、きわめて単純な法則を教えてもらった。あまりに単純なので今でもはっきり覚えている。

普通の人はA型。
変な人がB型(おまえなんか一目B型だよと言われた)。
態度の大きい人がO型(オーきいからO型らしい)。
偉い人がAB型(TはAB型だったし、TはAB型の女性と好んでつきあった)。

どうして、この法則で血液型が当てられるのか、十五年経った今でも、まったく理解できない。

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