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2006年7月31日 (月)

手相見

 辻の手相見などどうやって暮らしているのだと、上京したおり、疑問に思っていたが、場合によっては、手相見は発端で、印鑑や壺などを買わせるのが目的らしい。私が住んでいた都内の某所では、駅前の大型スーパーの脇で手相見が机を出していた。そこから五分ほど住宅地へ歩くと、けばけばしい戸口の占いの事務所があって、どうやら関連があるものらしいと踏んでいた。
 私はもともと迷信深くないので、手相見に見てもらったことなど一度もない。現在は、占いをまったく信じない妻の影響もあって、血液型や星座、干支といったありふれた占いすら、気にもしない。
 が、心温まる(?)手相見の話をここでひとつ。
 大学一年のころだが、知り合いの女性Kさんは、好きな男性のことが気になって、うまく結ばれる目があるものか、酔ったときに手相見に相談したことがあるらしい。なんという返事をKさんがもらったかは、もう忘れた。重要なことは、相談の際に告げた相手の誕生日が間違っていることがあとでわかったことである。
 私の知っているKさんらしい粗忽だったが、ここは月氷奇縁ということで、Kさんは意中の男性とその後つきあえた。
 

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2006年7月30日 (日)

Sの霊芝

 小学校の塾から中高一貫の学校まで同級だったSとは仲がよくて、Sのうちには中学生のころからたびたび遊びに行った。Sのうちは、眼鏡橋に近い中島川沿いのマンションだった。今では、長崎もマンションだらけだが、二十年ほど前の長崎ではマンションは比較的珍しかった。
 Sの親は中学校の理科教師をしていた。そのせいか、家で霊芝を栽培していて、家中がプンとキノコ臭かった。
 高校卒業後、そうたたないうちに、Sとは連絡が取れなくなってしまった。引っ越してしまったらしい。黙って引っ越されてしまったのだが、大学一年の頃、まだ高校の同級生たちがよく集まったが、そのときすでにSの行方がみなわからなくなっていた。
 その後、かなり時間が経って、カール・シファキス『詐欺とペテンの大百科』(青土社、1996.3の旧版)を読んで、栽培の道具を売りつけて、それをお金にするという栽培商法を知った。ひょっとしたら、Sの親は霊芝の栽培商法にひっかかっていたのではないかと思い、心配である。

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2006年7月29日 (土)

くたばれ悪徳商法

 世にある悪徳商法。どうしてひっかかってしまうのか、私にはよくわからないのだが、先日、妻の友人のご兄弟がマルチ商法にひっかかって、そのご家族はたいへんなことになった。
 マルチ商法ってなに?、というような、詐欺耐性に低い人には次の本を薦めておく。
 少なくとも、その本に書いてある程度の知識を持っていなければ、現代社会は生きていけない。

大山真人『悪徳商法 -あなたもすでに騙されている』(文春新書、2003.6)
西田公昭『まさか自分が…そんな人ほど騙される -詐欺、悪徳商法、マインド・コントロールの心理学』(日本文芸社、2005.12)

 前者は商法の手口紹介に重きがあり、後者は、つけこまれる人の心理の解説に重きを置いている。

 『くらしの豆知識』(国民生活センター編集・発行。出版は毎年)

 安いし(2006年度版で450円)、多岐に及んでいるし、便利な本。惜しむらくは、政府刊行物常備書店(大型書店はたいていこれに該当する)を除いて書店売りしていないこと。
 政府刊行物サービス・センター又は政府刊行物サービス・ステーション、政府刊行物常備書店で買うか、(社)全国消費生活相談員協会(販売委託先)の窓口で直接購入する。か、(社)全国消費生活相談員協会(販売委託先)に電話・FAXまたはハガキで注文するかしなければならない。(下記のホームページに連絡先が載っている)

ホームページでは、

国民生活センター
http://www.kokusen.go.jp/ncac_index.html

が、消費や生活のトラブルへの対策を示しており、

悪徳商法マニアックス
http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/

が、代表的な悪徳商法とその手口を紹介している。
参考になる。

また、
カール・シファキスの新装版『詐欺とペテンの大百科』(鶴田文訳、青土社、2001.9)が、古典的な詐欺術を網羅している。現代ではより巧妙な手口が広まっているが、詐欺の基本原理は単純なものが多く、『詐欺とペテンの大百科』が紹介する手口を知っておけば、かなりの数の詐欺に対処できるはずである。

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2006年7月28日 (金)

藤原正彦『国家の品格』について

 昨年の冬、池袋の旭屋書店をぐるぐるまわっていると、ある白黒写真のポスターが目についた。毛髪芸で有名な海原かなた師匠が、怖い顔をして写っている。
 そうか、海原かなた師匠の本名は藤原正彦というのか。日頃、漫才をしながら、歌など唄ってのんきに暮らしているものと思いきや、「国家の品格」を論じなさっているのか。小生、いたく感じいった次第である。
 
 という冗談はさておき、いまさらですが藤原正彦『国家の品格』(新潮選書、2005.11)の話です。
 藤原正彦の本は新潮文庫で一時期あつめていて、『古風堂々数学者』(2003.04)以前の新潮文庫はいちおうすべて読んでいます。新潮文庫では『祖国とは国語』(2005.12)だけ読んでいないことになります。
 現在、『若き数学者のアメリカ』と『遙かなるケンブリッジ -数学者のイギリス』以外、手元にありません。実体験の報告であるこの二作は紛れもない傑作です。
 しかし、『父の威厳 数学者の意地』や『古風堂々数学者』のような、感想、意見を述べた本は、つまるところが、床屋政談。老人の繰り言と、微苦笑をおくらねばならないほどのものです。
 『国家の品格』も、推して知るべし。もれ伝わる評判もよいものではないし、と敬遠していました。
 
 ところが、ある人から勧められて読んでみることにしました。勧めたのは、ここ二年ほどアメリカ東海岸の大学で研究をしている友人A。Aが米国に行った冬に、あまりの気候の悪さと仕事の進捗のいまいちさに憂鬱になっていると聞いて、ためしに『若き数学者のアメリカ』を勧めてみたのでした。似た状況だし、そのうちいいことあるよと。
 幸いAもおもしろがってくれて、またA自身の努力の甲斐あって、すぐにAの状況も好転したのですが、つい先日一時帰国したAに『国家の品格』を勧められたのには驚きました。
 『国家の品格』の評価として、論理無視は知性の敗北とか、経済についてまったくわかっていないとか、はてまた本業の数学をつかった説明も怪しいとか、言われているのを知っていたからです。
 Aは知性的だし、論理的だし、『国家の品格』なぞおもしろがるとは思えませんでした。何に共感したのか聞くと、とにかくアメリカ人は理屈ばかりこねるらしくて、それに辟易しているとのことでした。
 
 実際に目を通してみると、なるほどなるほど。論理は大事でないと最初に言い切ってしまっているのがなによりで、それを言ってしまえば、いかなる無理も通ってしまいます。知性の敗北とか、そんな問題、歯牙にもかけないわけです。
 ある程度江戸時代を知っている人にとって、藤原正彦のいう武士道が、新渡戸稲造が創造した架空の武士道によりかかっているのは一目瞭然ですが、藤原自身わかっていて、あえて現実を無視して、話をすすめています。
 本書の、論理ですべては片づかないという主張には、共感できますが、事実を違えて意見を述べることは、品格を論じる本としてはあまりに品のない行為だと思います。
 もはや信念の問題なので、言い争っても無駄です。もののあわれとか日本的感性を重視しているところは国学者のようですし、武士道教の信者だとも思います。

 関心があるのは、むしろこういった本が受け入れられるようになった時代や社会状況のことです。『国家の品格』が売れているということは、それだけ日本が変革にさらされ、実際に多くの分野において曲がり角がきていることを示すのでしょう。

 国文学の研究者としては、国語重視、日本の伝統文化重視の論客が頑張っているのはありがたいことなのですが、その一方で、受け入れがたい気持ちも多分にあって、むこうが海原かなた師匠なら、こっちは昭和こいる師匠だと、「ヘーヘーホーホー、それはヨカッタヨカッタ」ととりあえず受け流すことにします。

補記:落語家は師匠、漫才師は先生だった気がするが、今ひとつ記憶がはっきりしないので、師匠を使っておく。

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2006年7月27日 (木)

全集本の工夫

 ある文章で、初出時に旧かな、旧漢字が使われていれば、全集でもそれを踏襲するのがよいに決まっている。私自身、語源の違うもの以外の旧漢字を新漢字に置き換えるのは容認できる(つまり藝を芸にするのは気にくわない)が、旧かなを新かなに置き換えるのはかなりつらい。
 版元は、売れないので旧かなをいやがるらしいが、どうしたらいいものか。

 全集のうち、売れるのが小説篇だけで随筆篇などがさっぱりなので、小説も随筆も編年体にして、同じ時期のものを一つの本にしてしまうのが、さいきん版元が編み出した手法。筑摩書房の『坂口安吾全集』(1998.5-2000.4)などがそう。それでも、『坂口安吾全集』は書簡篇が独立している。新潮社『安部公房全集』(1997.7-)全三十巻予定(現在29巻まで刊行)などは、詩、小説、戯曲、評論、エッセイ、講演など、お構いなしに時期ごとに一冊に入れたのは、この手法では究極である。
 ジャンルを問わずに作家の意識を年ごとに追っていけるのは便利といえば便利だが、こういった編年体全集は、近代文学研究をしている友人に聞くと、ものすごーく使いづらいらしい。
 近世で作家の全集本が出ることはめったにないが、馬琴の編年体全集があればと想像すると、近代文学研究者の苦労も具体的に想像がつく。

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2006年7月26日 (水)

京伝はトンデモ?

 『と学会年鑑 GREEN』(と学会編、楽工社、2006.6)を読んでいると、原田実という人が、山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』を紹介していて、びっくり。『人間一生胸算用』から「悪玉」「善玉」の話も紹介されている。
 どうやら、「月着陸はなかった」といったのトンデモ理論系列ではなくて、「こーんな変な本がありますよ」という変な本系列で紹介されているようので、一安心なのだが、「と学会」といえば、トンデモ理論をまず思い出すので、驚いてしまった。
 「山東京伝の全集が今まで何ででなかったか(引用者注、現在刊行中の京伝全集を念頭におく)、これを見ているとわかるような気がします。つまり全集となるとこんな話もどんどん入れなきゃならないわけですね」が原田実の感想。原田の言うことはある程度正しいが、全集が最近まで出なかったのは、市場原理と学者の怠慢のため。
 毎月、驚くほどの数の時代小説が出版され、浮世絵の展覧会には大勢の人が集まるにもかかわらず、きっちりした翻刻本、解説本は売れない。

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2006年7月25日 (火)

左右学への不招待

 2006.07.02「DNAに組み込まれている」で、ある本の序文のトンデモ話をとりあげて、読んでいたら買わなかったかもしれないと書いたが、似たような話を一つ。
 尚左、尚右(右と左とどちらが大事か)の文化に十年以上前から興味がある。さいきんでは、『左右の民俗学』(礫川全次編、批評社、2004.10)を買った。
 また、脳科学の進歩にともなって脳の働きが解明されてきたためか、別冊國文學『左右/ひだりみぎ -あらゆるものは「左右」に通ず!』(学燈社、2006.02)という本も出ている。
 さて、そういったからみで西山賢一『左右学への招待 -世界は「左と右」とであふれている』(光文社知恵の森文庫、2005.12.15。『左右学への招待 -自然・生命・文化』(風濤社、1995)に加筆訂正したもの)をアマゾンで購入した。
 が、次の文章を読んで、読むのをやめた。
 

 右脳が直観的で、左脳が論理的だとすると、左側の視野から入った情報が右脳にいくので、左側の視野に飛び込むように商品を並べると、「衝動買い」も期待できる。
 この推論はデートにも応用できる。あなたが二人連れで並んで歩くとき、どちら側を選ぶべきだろうか。いま相手の左側を選んでささやきかけると、相手はそのささやきを左側から受け止めて、その情報を右脳に伝える。そして、右脳は直観的で感性的なので、あなたが試みる口説きも成功する確率が高まるだろう。(4頁)

この本は、三頁から始まっているので、次の頁でもう読む気がなくなったのである。筆者は大学に職を得ている学者であるし、パラパラめくると、もっともらしい筆法が使われているようだが、これ以上まったく読むつもりはない。ブックオフ行きを待っている状態である。
 この文章を書くために奥付をさがしたところ、奥付の二頁前に池内了の解説があって、「古代ギリシャ彫刻の陰嚢の左右不均衡に関する論文をネーチャーに発表しイグ・ノーベル賞を獲得した人もいる」との紹介が目につく。
 池内了の解説をよく読んでみると、「著者の蘊蓄を傾けた文章にはつい納得させられてしまう」、「宗教はおしなべて左右を使い分けて人を懐柔しようとしているのだ」、「他にも、式服の燕尾服とタキシード、扉の観音開きと片側開き、歌舞伎の浅葱幕と定式幕と、左右の対称性とその破れにさまざまの意味がありそうな現象が多くある」(このあとに先のギリシャ彫刻の例がくる)、「こんなふうに考え始めると、左右学もまだまだ奥が深い」などと書いてある。
 池内了が何をいいたいのか、私には十分わかるつもりである。

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2006年7月23日 (日)

眼鏡屋と鏡

 先日、眼鏡を新調した。あまりに傷だらけになったためである。眼鏡屋にいって、ためしに眼鏡をかけて気づいたのだが、その眼鏡屋には全身が映る鏡がない。伊丹十三は、全身のうつる鏡のない靴屋は靴屋ではないと述べた。だったら、全身がうつる鏡のない眼鏡屋は眼鏡屋ではない。
 そう大上段に構えたいところだったが、ためしにあるフレームをかけて気づいた。度が入っていないと、全身はもとより、自分の顔すらはっきりしない。小さな鏡に、顔をうんと近づけて、似合っているのかやっとわかるぐらい。道理で大きな鏡がないわけである。
 ちなみに、店員といろいろ相談できたこともあって、その眼鏡屋では満足のいく眼鏡が作れた。接客もよかったと、満足した。

 私が眼鏡を作ってから一週間ほどのち、その眼鏡屋の前をほぼ午前0時ごろに通ると、店長が店員を集めて、なにやら訓示している。社員教育が行き届いているとか、商売熱心とかいう以前に、怖さを感じた。

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2006年7月22日 (土)

次世代の辞書?

 文学研究の世界に導入された、ITのおそろしさというかすごさは全文検索にある。あるテキストファイルが手に入れば、それでの用例はきわめて容易に調べることが出来る。 

 たくさんの本を繰り、用例を拾うことで辞書は成り立っている。用例をあつめて辞書にする以前に、用例集めの対象とした本のテキストデータを全部あつめて、意味はともかく用例だけは、ご自由にご覧くださいといった形式がはじまるかもしれない。グーグルがやっていることをみると、あながち空想とは言えまい。こうなれば、収録語彙は、集めたテキストの語、すべてということになる。

 紙の辞書を引く作業は、私が死ぬまでなくならないだろうが、思えば遠くに来たものである。

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2006年7月21日 (金)

辞書の大きさ

 地元の図書館で『私が愛用する辞書・事典図鑑』(中沢新一監修、波乗社、1992.1)という本を見つけた。辞書事典類に日頃から興味があるので、借りて目を通した。この本の特徴は、学者・評論家以外の人たちが使っている辞書事典が載っているところである。どうやら、依頼原稿と募集原稿の両方をもって本としたためらしい。

 選ばれた辞書事典には『家庭行事なんでも事典』(富民協会)、『ことわざ医学事典』(朝日新聞社)といった雑書類が多い。辞書事典の世界の奥深さが見えるようだが、現在ではインターネットの力が大きくて、『私が愛用する辞書・事典図鑑』が収録したような雑学系の辞典事典を、いまあらためて出版するのは採算の面で難しいだろう。

 すっかり記憶からなくなっていたが、この本を私は高校三年生のときに読んでいる。二人目の栗本慎一郎が書いた「三省堂のコンサイス英和を使っていた。これは、小型で片手の中につつみこむことのできる大きさだった。辞書というものは、まずなによりも手に慣れるものでなくてはならない。掌にも慣れる必要があるのだ」という文章に見覚えがあった。

 使う辞書の物質的な大きさを、辞書選びの基準にしている選者は、栗本慎一郎の他にも少なからずいる。

 が、今ではそれも隔世の感がある。電子辞書により、大型の辞書を容易に携帯でき、素早く引くことができる。手になじむ大きさかどうかは問題ない。

 『角川古語大辞典』のCD-ROMをパッパパッパと回して、手早くゼミの発表資料が作れる時代である。私が修士の大学院生のころ、片手で『日本国語大辞典』を二冊わしづかみに持っているところを見られた同級生のNさんが、「内緒にしててね」と私に笑いかけたのは遠い昔である。

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2006年7月20日 (木)

通販専門店に

 近所にあった気の利いた古本屋がもう半月ほど店を閉めているので、ひょっとして潰れたかと心配していたが、ネット検索したところ、通販専門店に移行したことが、ホームページで報告されていた。
 日本の古本屋メールマガジン第41号(2006.06.07着)では、「現代古本屋の研究」として「目録とネット販売の兼ね合い」について、九店から原稿を集めて紹介している。
 目録やネット販売を古本業のどこに据えているかはさまざまだが、いずれにしても、ネット販売が無視できない商法であることは明かである。
 ネット販売の普及によって、消費者として、本を安く、また早く手に入れられるようになったのは確かである。かつては、地方出身の大学院生や外国からの留学生には、先輩の大学院生が神保町を案内し、どれがどの専門店だが教えたものだった。今では大学院に入っても、どの書店が専門店なのかほとんど注意していない学生もいる。また、奨学金が入ればとりあえず古書店巡りといった習慣もかなり失われている。
 今回のような、店舗そのものの消滅もその流れに位置する。この田舎でのささやかだった古本屋詣での楽しみも失われてしまった。
 なにごとも都合良くはいかない。

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2006年7月19日 (水)

せりふの発音

 前日、セリフの話になったのでおまけに。

 「セリフ?、なんだい芹と麩か」というまぜっかせしは古いものだが、三遊亭円生の「セリフ」の発音を始めて聞いたときには驚いた。まるっきり「芹」+「麩」なのである。
 私は、長崎出身なので、落語家の発音と異なるイントネーションやアクセントで少なからずしゃべっている。江戸弁、東京弁を知らないと、わからないことが多くて、難渋している。
 

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2006年7月18日 (火)

時代小説の台詞

 江戸時代のことを研究していれば、時代小説は好きだろうと思うだろうが、実のところほとんど読まない。が、先日、将棋を題材とした時代小説を書店で見つけて、せっかくのことと購入した。
 パラパラめくったのだが、何かがおかしい。もう少し丁寧に読んでみると、会話文がしっくりこないことがわかった。
 快楽亭ブラック『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』の創作落語「英国密航」(講談と浪曲にネタもと)に侍同士の会話があるのだが、こっちの方がしっくりする。

 今回の記事は、江戸時代人の会話として、本当らしい型が落語家にしみついているので、落語家は創作でも、本当らしい台詞が書けるのだということを書くつもりだった。

 記事を書くために、ブラック本の解題を読み直すと、「英国密航」は、小佐田定雄に脚色を頼み、白浪五人男のパロディを用い、さらに真山青果の名台詞をちりばめて、つくったものらしい。
 他人様の手が入っているとなると、当初の結論と齟齬して、ちと具合が悪い。

 とはいえ、本文を読み返してみると、小佐田や真山の影響のないところの台詞も、もっともらしく、よく書けている(作れている)ので、私の予想もツブレとまではいかない。

 だが、それぞれの本から台詞を抜き出そうとして、困った。しっくりこないはずの、将棋時代小説の方が、よくよく読んでみると、歴史史料に載っていそうな会話文に近く、むしろ、ブラックの侍のしゃべり方は、いかにも時代劇な台詞回しに過ぎないのである。
 ここで当初のもくろみはまったくおじゃんになった。
 時代小説の台詞はどうあるべきか。私にはまだよくわからない。

 そういえば、四代目三遊亭円馬(1900~1984)や二代目三遊亭円歌(1892~1964)の演じる侍やお殿様は、今の落語家が演じるのと、ちょっと会話の感じが違う。古い円馬や円歌こそ、昔の本物の殿様のしゃべりかたを知っているというより、「らしい」しゃべり方が、違うのだと推測している。

補記:当初の目算がなりたたず、変な方向へ話が逸れて、何を言いたい文章なのかわかりにくいかもしれません。
 「リアリティーがある」という言葉を使えば、少しはマシだったかもしれません。使わずに頑張ってみたので、「本当らしい」「もっともらしい」では、わかりにくかったかと。「現実らしい」は、私が江戸時代のことを本当に知っているわけではないので、「『現実』らしい」としか書きようがなく、これでは使えません。

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2006年7月17日 (月)

ブラック本

 快楽亭ブラック『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』(洋泉社、2006.4)を買った。私が買ったのは、5月の二刷本。税抜き1700円でCDつき。とても安い。以前、長井好弘が『新宿末広亭―春夏秋冬「定点観測」』(アスペクト、2000.12)で紹介していた「川柳の芝浜」(川柳とは川柳川柳師匠のこと)が読みたかったのだが、その他もかなり面白い。芝浜以外に、道具屋・五人廻し・反対俥・文七元結といったおなじみの古典落語がうまく改変されていて、爆笑。もとの落語を知っている方が楽しめるのは確かだが、知らない人もたぶん楽しめるはず。
 この本は池袋の旭屋で買った。「カバーかけますか」「ええ、お願いします」といったおなじみのやりとりのうえ、カバーをかけてくれた店員さんが、キュッとした笑顔で対応してくれて、(旭屋には珍しく)可愛らしくて印象に残ったのだが、家で読了し、紙カバーを外して、帯をみて驚いた。
 赤地の帯に黒でおおきく「一発のオマ○コ」(伏字は原文通り)と書いてある。
 あの女の子の笑顔がその帯と関係あったのか、知りたいのだが、残念ながら、その後、その店員さんにはお目にかかっていない。

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2006年7月16日 (日)

冷水シャワー

 風呂上がりに冷水シャワーを浴びると、汗腺がしまって汗をかきにくくなるらしい。
 が、私は寒がりでまったくダメである。公衆浴場に水風呂があって、サウナのあとはそれにつかるのが普通のようだが、私はそれもまったくダメ。腰まで入ることすらできない。水温計をみると16、17度なので頑張れば入れるのかもしれないが、私の忍耐力では無理である。
 『バレンツ海海戦』とか、ドイツ対イギリスの海戦ものを読んでいると、冷たい海に放り出される事実に、まずおそれおののく。

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2006年7月15日 (土)

ニフティのブログは

 おやおや、気がつくともう一週間も更新していません。
 それは、ニフティのブログの管理画面が、七月の五六日あたりから非常に重たくて、九日以降は昼にもログインできず。そして、十一日から十三日までは、ニフティがメンテナンスをして、まったく投稿できなかったからです。
 私は文章を書くよりも手直しするのが好きなので、いちいち管理画面に入るたびに、また何かの操作をするたびに、三十秒近く待たされるのは、我慢がなりません。
 メンテナンス後に、操作感がよくならなければ、もうニフティのブログを使うのはやめようかと思っていました。
 また、ブログも更新しなければしないで、なんともないもので、ここのところ暑さにやられていることもあって、面倒だから、ブログそのものもやめようかと考えていたところでした。
 幸いメンテナンス後の操作性は向上して、我慢できるほどになりました。また、ここ二日ぐらいで気分が上向きになって、なんとか気力が戻ってきました。ネタも思いつくようになってきましたし。
 とはいえ、どこかで仕切り直すのもいいかと、このブログ休みのあいだ思ったのはたしかです。

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2006年7月 8日 (土)

似ていない方が可愛い?

 自分の子どもの可愛らしいのは、半分だけ自分に似ていることである。クローン人間のように、まったく同じだったら、可愛らしさより気持ち悪さを感じるだろう。自分に似ているけれども、妻の要素が入って、変化があるところがよいのである。
 弟子はまったく師匠と同じように出来る。だが、三遊亭円生が弟子の好生があまりに自分に似ているためにかえって疎んじてしまったように、師匠に似すぎた弟子は師匠に好かれない。
 芭蕉の高弟其角は、芭蕉とまったく詠風が異なるにもかかわらず、終生目をかけられていた。その理由は、はっきりしないが、先のようなことが原因だと考えている。

補記:一歳一ヶ月の娘(仮に花子としておく)について、妻が「さいきん、花子も可愛くなってきたわね」と言っていた。今日、義姉からさくらんぼをいただいたので、お礼にさくらんぼを持っている娘と息子の携帯電話で写真を撮って送ったところ、花子は妻の小さいころにそっくりと返事をもらった。たしかに、さいきんは妻にも似てきたと私も思っていた。妻に問いだたすと、さいきん可愛くなってきた発言は、自分に似てきたことと無関係だそうだが。

補記二:ここ何日か、夜のあいだニフティのブログが非常に重たくて、更新できない状態でした。

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2006年7月 6日 (木)

ベーター

 今では芝居にかかわっていたころの言葉づかいはほとんどしないが、ふとつかってしまうものに「ベーター」がある。βではない。「エレベーター」の省略である。
 だいたいの場合、劇場にはエレベーターがあって、搬入・搬出などでこれをめいっぱいつかうものだから、いちいちエレベーターなんて呼んでいられない。
 エレベーターがあるかないか、あって大きさはどのくらいか、他に店舗があるなら、それとのかねあいでどのくらいまで専有してよいのか、それによって搬入・搬出の苦労は大違いである。
 東京芸術劇場のように、裏にトラックをガーンと乗りつけられて、目の前の床におけば、それがせり上がって劇場階まで持って行ける(んだったよな、たぶん)劇場は滅多にない。なんとかエレベーターに乗るように、パネルなら分割する。それでも乗らない場合は、劇場の外からロープでひっぱり上げたりする。
 私が知る限り、搬入・搬出が最悪だったのは、いまはなき渋谷のシードホールである。もともと、芝居をやるために作っていないので、一般用のエレベーターしかない。劇場は最上階(八階か九階だったはず)で、搬入口はなんと、地下一階(二階だったかも)。パネルを手に持って、地下から劇場まで二回ほど運んだのが、なんともいえない思い出である。
 ここで搬出をやったら本当に明るくなるまでかかった。朝の渋谷で機材積みのトラックを見送ったことを今でもはっきりと思い出せる。
 さて、いろいろと重宝したにもかかわらず、エレベーターの扱いは非常にぞんざいだった。それが壊れるとか、うまく動かないとか想像したこともなかった。実際に、閉じこめられたり、誤作動を起こしたり、動かなかったりという経験は、私にはない。
 さいきん、シンドラー社のエレベーターの事件を見るにつけ、エレベーターを無事故で過ごせたことを感謝せねばなるまい。

補記:そういえば搬入口(はんにゅうこう)とは言うが、搬出口(はんしゅつこう)とは言わない。搬出のときも搬入口と呼んでいた気がする。

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2006年7月 5日 (水)

矯正可能かどうかなど

 昨年十一月に不法入国ペルー人に小学生の女の子が強姦のうえ殺害された事件で、広島地裁は、犯行は計画的でないので、矯正の余地があると無期懲役。遺族は無念。私も心が痛む。
 矯正可能かどうかなど、どうでもいいのじゃないか。罪に対して相応の罰を受けるかが、裁判に期待されていることではないのか。
 矯正うんぬんを大事にするなら、今後すべての犯罪者は自動的に懲役刑。矯正が成った時点で放免とすればよい。裁判官は一人もいらない。
 裁判員制度が始まれば、私の感覚が多数派か少数派か、わかるだろう。開始が待ち遠しい。

補記:そもそも有罪か無罪か決めねばならないので、裁判官や裁判員はなくならないのは確かだが。

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2006年7月 4日 (火)

若冲の絵はがき

 本日より伊藤若冲展(2006.07.04-8.27)が東京国立博物館で始まる。若冲は好きな絵師だが、おそらく観に行く余裕はないだろう。

 若冲といえば、鳥の絵がコロタイプ印刷された便利堂の絵はがきセットを持っていた。千葉市美術館の売店で、買ったものである。コロタイプ印刷の実力が発揮された美しい絵はがきだった。

 もう十年ほどまえのことだが、好きだった女の子に、このうち一枚の絵はがきを送ったことがある。

 だいたい親しくなる女の子とは、将棋でいえば寄るだろうとの予感があって、人生でほとんどはずれることがない。しかし、そのときはまったく読みがはずれて、二人の仲は進展しなかった。けっきょく、その子が、いまどうしているかもわからない。

 若冲の絵はがきは五枚組だったが、折を見てつかいつかい、今では一枚も手元に残っていない。残りの四枚をどんな機会に使ったか、まったく記憶にない。

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2006年7月 3日 (月)

○○モード

 このごろよく使われていて、なおかつなんとかならないものかと思っているのが、「○○モード」といった表現である。「お疲れモード」が最たるもので、見聞きすると気持ちが悪い。私が読むような本に書かれていることは滅多にないのだが、スポーツ新聞ではその表現がまかりとおっていて、運が悪いのかしょっちゅう目にする。
 英語は詳しくないので、ひょっとしたらいいのかもしれないが、
 He is a very tired mode.
なんて、英文はないんじゃないだろうか。
 しかし、「お疲れモード」でグーグル検索にかけると、なんと671000件。
 しかも、さいきん読んだ石原千秋『大学生の論文執筆法』(ちくま新書、2006.6)に「しかし、書きすぎという点では最近の僕も怪しいモードに入って筆が荒れてきた感じなので」(38頁)とある。それこそ、筆が荒れての結果と信じたいところだが、私一人”mode”にたてついても、もはや「南風競はず」なのかもしれない。

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2006年7月 2日 (日)

DNAに組み込まれている

 鈴木浩三『資本主義は江戸で生まれた』(日経ビジネス人文庫、2002.2.1。『江戸の経済システム』、日本経済新聞社、1995.7に加筆修正したもの)は、江戸時代の経済のしくみについてたいへんわかりやすく説明した好著である。税抜714円はかなり安い。
 とてもとてもよい本なのに、ケチをつけるのは心苦しいが、「まえがき」に気になる箇所があった。

(本書執筆の目的は)日本人のDNAには過去四〇〇年以上にわたる市場経済システムの経験が、しっかり組み込まれていることを示したかったからにほかならない。

をはじめ、

明治以降の急速な工業化や第二次世界大戦後の戦後復興においても、それらの日本人のDNAはいかんなく発揮された。

さらには、

「国際標準による市場原理」の前に、日本人は自信を失いかけている。そして、江戸時代から培われてきたDNAの存在も忘れかけている。
 もちろん、これからの国際競争を過去のDNAだけで乗り切ろうとすることは、単なる懐古趣味どころか自殺行為にほかならない。しかし、日本経済の再生に向けた将来への展望につなげるには、自らに備わったDNAの優れた部分とそうでない部分を認識した上で、新たな環境への積極的な適用を図っていくことがなにより求められている。

とある。
 ひょっとしたら、日本人の遺伝子情報を調べて、ある塩基配列が市場経済システムの受容と密接に関係していることが判明するのかもしれない。
 が、市場経済システムの経験がある人種のDNAと関係しているなどとは考えられまい。
 もちろん、鈴木の言わんとしていることは、比喩であることはわかる。五十年前なら「DNA」のかわりに「血」が比喩としてつかわれただろう。
 アマゾンで買ったので、「まえがき」のことを知らずに買ったが、もし書店で読んでいたら、トンデモ本と勘違いして購入をためらったかもしれない。

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2006年7月 1日 (土)

たばこのにおい

 たばこのみの蔵書家から借りた本に、たばこのにおいがすることは、以前書いた。
 さいきん、図書館から借りた本にもたばこのにおいの強い本があった。落語の本だが、二冊とも立川談志がらみの本だった。談志ファンに昔ながらのたばこ好きが多いのではないかと思った。
 本日より、たばこ一箱三百二十円也。私はたばこのみでないので、金の面では助かっている。

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