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2006年5月29日 (月)

絵を描く技術

 子どもにさせたい習い事の筆頭は英語だろうが、英語は道具であって、その習得は最終目的ではない。英語+何かの技術ではじめて活躍できる。
 もし国際的な日本人として今後活躍するために、英語に足して、ぜひ身につけた方がよい技術といえば、絵を描く技能である。
 今昔、見渡して、日本文化が世界に強く影響を与えたのは、主に絵画の部門である。浮世絵が印象派に影響を与えたことは、いうも今更である。日本の文学部に来る留学生が、専門とする文学作品と同様、あるいはそれ以上に、日本のアニメや漫画を愛しているさまをみると、日本文学の実力ならびにその将来が透けて見える。
 悲観的な意見ながら、現代はもはや文学の時代ではなく、おそらく五十年後は、文学部の主流は漫画学になっていると予想する。漫画学は着実に進展しており、その様子は黎明期の国文学を思わせる。村上春樹などごく少数の作家の小説をのぞいて、いま直木賞・芥川賞をとっている小説は、五十年後の読者に、ほとんど相手にされないはずである。
 だが、売れっ子の漫画家になったり、著名なアニメーター・イラストレータになったりすることを目標として、すべての人が絵を描く技術を学ぶ必要はない。絵描きでも才能のあるのはほんの一握りである。絵を描く技術を身につけたからといって、それだけで食っていけるわけでもない。
 にもかかわらず、絵を描く技術を身につけた方がよいのは、何か視覚文化に関する分野、たとえば写真・映画(実写)・アニメ・漫画に関わる際に、制作の人員は誰でも、絵を描く技術を持っているに越したことはないからである。
 だから、絵コンテが切れる段階まで技術があれば、創造的な仕事がなんとかできるのではないか。。黒沢明が、あるいは富野由悠季や鈴木敏夫が絵コンテが切れなかったら、少なくともその立場は、別の人間がこなしていたはずである。
 私の絵は、からきしだめである。まず、デッサン力がない。ときおり、気が向いて、色鉛筆や画帳を買ったりするが、放置されている。音楽もダメ、絵画もダメの私が磨いてきたのは操觚の技である。
 ここまで言っておきながらなんだが、けっきょく自分の息子や娘に絵を習わせたいかというと、ほとんどその気はない。なるように人間はなるだけで、無理に勧めても身につかないと思うからである。裏をかえせば、個性と無縁の技術なので、語学を修めるのは、万人に流行るのかもしれない。

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