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2006年3月13日 (月)

スペシャリストの憂鬱

 何か物事で成果を上げるためにはスペシャリストでなければならない。また、専門の技能を持っていなければ、できない仕事は多い。
 その点で、ゼネラリストを養成する大学教育は効果が低いように感じられる。
 しかし、スペシャリストの欠点は、その応用性のきかなさにある。知り合いの知り合いに医者でありながら、まったくあわず精神的に苦労しいしい、仕事をつとめている人がいる。
 医学部を卒業すれば、現在のところ医者になれることはほぼ確約されており、就職率はほぼ100%である。人の生き死にに関わるので楽な仕事ではないだろうが、高給であることも勘案すれば、医学部を志望する人が多いのは納得がいく。
 医学部に入っておきながら、医者になる道以外を選ぶのは困難である。医者になってから違う職業を目指すのも勇気がいる。転身組には、山田風太郎・手塚治虫・渡辺淳一など華々しい成果をあげている人がいるが、医者への道を選ばなかった人あるいは医者をやめた人が誰しも一家をなすわけではない。
 先の人も向いていなければ、すぐにやめるというわけにはいかない。専門性の高い教育をうけていることの不都合である。
 教育とは、すでにある知識の伝達である。創造は既存の知識の組みかえから生じるとはいうものの、新しいことを創造する能力を、専門性の高い教育がじかにはぐくむとは思えない。いま、隆盛を極めているIT関連の仕事も、最初からお手本があってその教育がなされていたわけではない。
 文学部(あるいは教育学部)の同期生の多くが1996年度に卒業する際、IT関連の仕事を選んだが、ゼネラリスト教育をうけていたその人たちはちゃんと適応して、新分野を開拓したのである。
 ゼネラリスト教育とは、環境の変化に順応して多方面へ才能を発揮できるようにする教育である。もちろん、ゼネラリスト教育が教育として成果があがっているかは、検討の余地があるが、ドイツのような早期のスペシャリスト教育は麻雀の手の決めうちのように、早上がりはできても、変化に対応しにくく、また大きな手になりにくいのではないか。
 私も大学院の博士課程をでているので、スペシャリストということになる。にもかかわらず、いまさら何か新しいことをはじめても、それに対応できると信じたい自分がいる。他に害を与えているわけではないので、信じるぐらいは許して欲しい。

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