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2006年3月31日 (金)

メイド喫茶

 一年半ほど前、高校の非常勤講師を勤めていたころ、放課後に「あーあ、退屈だなぁ」と言った文化系っぽい男子生徒にむかって、ある女子生徒が「メイド喫茶にでも行ったら」と言った。制服にニキビづらの男子生徒が、「いらっしゃいませ、ご主人様」などと言われているのを想像すると、正直笑ってしまうが、いまは、高校生の娯楽として、メイド喫茶が選択肢としてあるのかと感心するやら、驚くやらだった。
 私自身、メイド喫茶に行ったことは今のところない。妻が最近興味を持っているらしく、行ってみたいとはいうものの、なにせ住んでいるのが田舎なので、近所にメイド喫茶がない。男は「ご主人様」でいいとして、女はなんと呼ばれるのさ、「奥様」かなにか?と、妻は疑問に思っていたが、テレビによれば、いくつになっても「お嬢様」らしい。
 私は「ご主人様」と呼ばれたいとも思わないし、あのヨーロッパ風のメイド服が好きでもない。同じメイド服なら、お掃除のおばさんって感じの、アメリカ風の地味なメイド服の方が好みである。三十代前半子持ちの、アメリカ風メイド服の女給が、けだるそうにコーヒーのおかわりを注いでくれるなら、楽しいかもしれない。
 アメリカ風のメイド服のメイド喫茶があるなら行ってみるのだが、流行らないのだろうな、きっと。いや、それはアメリカのカフェに行けばいくらでも堪能できる?。ごもっとも。

補足:アメリカ風のメイド服とはどのようなものかわからない人は、『メイド・イン・マンハッタン』でグーグル検索にかけてください。映画そのものは観たことがないのですが、ジェニファー・ロペスが着ているのがそれです。

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2006年3月30日 (木)

ご主人様

 大学一年のころ、麻雀をよくやっていたのだが、先輩のうちでの徹夜麻雀の明け方、ある先輩がテレビを消さないかと言った。私は徹夜のため朦朧としながら、牌をにぎっていたので、ほとんど注意を払っていなかったが、テレビでは動物のコーナーが流れていた。
 「ボクは、犬のポチだワン。ご主人様と一緒に散歩をするのが何よりの楽しみだワン」とか、わかるはずもない動物の気持ちを一人称で、しかも「だワン」とか「だニャン」とか、その動物の鳴き声を末尾につけて、女子アナウンサーが甘ったるくしゃべるコーナーだった。
 言われてみると、ご主人様という言葉が頻出して、しかも、女子アナウンサーが甘ったるくしゃべるのだが、気色のわるいことこのうえない。今思えば、女子アナウンサーに「ご主人様」と言わせてみたい放送作家の悪趣味だったのかもしれない。
 うむ、消そうということになってみると、その番組の音声はいちおうは聞こえていたわけで、なぜ今まで自分がそういったことを気にしなかったかと、不思議である。
 巷間メイド喫茶が大流行だが、「ご主人様」と言われてみたい気持ちがよくわからない。妻が電話で「主人は~」と言うのを一度だけ聞いたことがあるが、変な気持ちだった(たいてい「夫は」と言っているはず)。あたりまえだが、妻から「主人」とも「ご主人様」とも言われないからである。
 高校時代の同級生で、犬は肛門が見えるのが嫌いと言っていたのがいた。今思えば、ある先輩が気にした「ご主人様」をはじめとする甘ったるい台詞も、犬の肛門のようなもので、こだわるかこだわらないかは言葉への想像力の問題であろう。

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2006年3月29日 (水)

苦しみを喜びに

 通っていた大学の近くにMという洋食屋があった。昼食はそば・カレー・和定食の順に私は選ぶので、Mを利用することはほとんどなかった。まだ大学院生の頃、私より年上の男性二人(AさんBさん)、年上の女性一人(Cさん)に珍しく昼食に誘われて、Mに行った。
 まだ若いが決して美人ではない女性店員が、荒っぽく水を持ってきて、乱暴な口の利き方で注文を取りに来た。Aさんたちは、よくこの店を利用しているらしく、その店員は レジも打たせてもらえない下っ端だが、態度が悪いことで有名だとあとで教えてくれた。
 女性店員が去った後、CさんがBさんにむかって、「Bさん、うれしい」と聞くと、Bさんはウンと恥ずかしそうにうなずいた。
 Bさんとは親しくないので知らなかったが、Bさんはマゾヒストで、店員などに高飛車な態度をされると、うれしいらしい。真性のマゾヒストを見たことがなかったので、驚いた。Bさんは結婚なさっていたが、いったいどんな人と結婚したのだろうか。
 せちがらい世の中、苦しみを喜びに変える神経というのは、生存にはむしろ適しているかもしれない。私のように、単純に腹を立てているより、ずっとましである。
 気分を害するような店員に会うと、Bさんのことを思い出す。

補足:ニフティのブログがメンテナンス以降、アクセス制限がかかっていて、非常に重たい。面倒くさければ、更新をしばらく見合わせるかもしれません。

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2006年3月28日 (火)

ケーキ屋

 三年ほどまえより今の住所にいるが、近所にケーキ屋さんがあった。近いので妻は利用していたし、クリスマスケーキや誕生日ケーキを注文したこともあるのだが、はっきりいって美味くなかった。近いのと、つぶれそうなのとで利用していた。主人は、四十代後半ほどにみえたが、妻が言うには、しょっちゅう奥さんに怒っていたそうである。ケーキは嗜好品なので、楽しい気持ちになろうという見込みで買うのだが、買いに行った先で、怒鳴り声を聞かされるようでは、客も寄りつくはずがなく、あまり流行っていなかった。

 二年ほど前に、近所にスーパーができて、それにチェーンケーキ屋が入ったのと、さらに高級ケーキ屋まで付近に店を構えるにつれて、そのケーキ屋はほどなくつぶれてしまった。

 スーパーのケーキ屋は、チェーン店だけあって、味は可もなく不可もないものだった。開店当初から、「お客様の声」に店員の態度が悪いと書かれていたのだが、最近にいたるまで、二度ほど店員の態度が悪いと書かれているのを目にした。私は『生協の白石さん』も読んだことがないし、「お客様の声」なるものに興味はないのだが、スーパーに設置してあるコピー機のすぐそばに掲示板があるために、コピーの暇がてらに、ついつい読んでしまうのである。

 スーパーのケーキ屋は割と利用するのだが、誰が態度が悪いと書かれているかだんだんわかってきた。その店員はつっけんどんなのである。しかし、私としては、フラ(天性の愛嬌)がないだけで、まだ我慢できるほどだった。「お客様の声」は、その店員にも伝わっているだろうし、そもそも客商売に不向きな人は、違うことをやればいいと思うのだが、続けているのはどういう魂胆かわからない。

 もうひとつの高級ケーキ屋だが、都内のデパートで買うような、かなり高めの値段設定がしてある。そのお蔭かまだ三十代とみえる店主はベンツを自家用車にしている。正直にいうと、味はそこそこのもの。高いなりに凝っているのだが、単にそれだけである。洋酒が利かしてあり、子どもが食べられないので、買うことは滅多になかった。

 味はそれなりでも、ご進物として高級であることは重要である。そこのチョコレートをバレンタインデーに妻からもらったこともあって、ホワイトデー用の洋菓子をその店で調達することにした。

 その店には、愛想の悪い女性店員が一人いるらしく、妻は何度か嫌な目にあわされたことがあって、その店員がいるときには決して買わないと聞いたことがあった。私もその店を何度か利用しているのだが、今までのところ、その店員にあたったことがなかった。

 それが今回ずばり遭遇したのである。口調はきちんと敬語なのだが、語調がきつい。流行店であることを、笠に着ているのかわからないが、全体的に態度が不遜である。妻が、その店員はなぜか一人のときだけいるのよねと言っていた。

 私が行ったときも一人で切り盛りしていた。私が品を渡した直後に、ちかくにいたおばちゃんが店員にケーキの注文をしだしたのだが、店員に「いま包んでおりますからしばらくお待ちください」と、文字でかけばなんともないが、ピシャリと言うとはこのことといった具合に、おばちゃんに言った。噂にたがわぬ高飛車ぶりと、思わず声に出して笑ってしまった。

 店員の剣幕にちょっとしょげていたおばちゃんも私の顔を見て笑みをもらしたので、笑ってよかったかと思う。そのあと、これはいかがなものかと思わせる店員の態度がいくつかあって、それに対する私とのやりとりもあるのだが、詳しいことは書かないでおく。ただ、春の陽気が近づいて私の頭がおかしくなっているせいか、店員の態度が悪くなればなるほど、楽しくなってしまって、ニヤニヤ笑ってしまった。

 そう、この記事は楽しい経験だから書いたのである。もっとも、その店員の顔は覚えたので、外から見て、その店員がいるときは、今後入らないが。

 で、近所のケーキ屋に、お客を愛していなさそうな店員がいるのをどう解釈すればいいのだろうか。

 どの商売にもそういった店員がいて、ケーキ屋にも確率の問題で含まれているだけなのか。それとも、あらっぽい坂東もんの埼玉人が商売をすると、そんなものなのか。それともケーキ屋にいるのはケーキを愛しているのであって、買いに来る客を憎んでいるのか。また、ケーキはハレとケのハレの場の食べ物なので、そういったものを買おうとするお客の境遇が憎いのか。それとも嗜好品のケーキを買える人の金銭的余裕が憎いのか。

 すっかり存在を忘れていたが、『チョコレート工場の秘密』でも読むことにしよう。かの有名な作品を実は一度も読んだことがないのである。

補足:母によれば、スーパーに入っているチェーンアイスクリーム店にも横暴な店員がいるらしい。最近思うのだが、お店に行って、そこで店員によくしてもらえるというのが間違いである。これについてはまた日をあらためて。

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2006年3月27日 (月)

鬱々とする映画

 見終わった後に、鬱々とする映画がある。昔は、ハッピーエンドよりも鬱々としたバッドエンドの方が好きだった。『サウンド・オブ・ミュージック』のような話は嫌いで、トラップ大佐が前の奥さんを殺して湖に沈めているぐらいでなければ満足しませんよ(元ネタはヒッチコックの……)、とふざけて言っていた。
 二十代後半から、体力がなくなったのか、二時間ほど見たあげくに、暗い結末になるのは我慢できなくなった。そのような映画を観ると、時間を返せと思うようになった。バッドエンドに耐えられるのは、健康で強靱な人だけである。
 Zガンダムのテレビ版の最後を愛するような人のために、私が観た中で鬱々とした終わりの映画には、『砲艦サンパブロ』『西部戦線異状なし』『ブレードランナー(最初の劇場公開版以外)』『未来世紀ブラジル』『Uボート(ディレクターズカット版ならなおよし)』などがある。
 戦争映画は、悲愴なものが作りやすい。特に日本軍の視点にすれば、負けてしまうので、あたりまえである。反戦映画とは一ジャンルだと思うが、『Uボート』などを観ると、根本的に邦画の反戦映画とは作りが違うと感じる。
 基本的に、全体の調子が陰鬱である。ラストが助かりそうで助からない。という映画が観ていて鬱々とする。

補足:映画の紹介も書いていましたが、記憶が曖昧なので、削りました。ちょうど数日前にBS2で『砲艦サンパブロ』がやっていて、録画して終わりだけ観たのですが、かつての記憶通りでした。

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2006年3月26日 (日)

映画評:『機動戦士ZガンダムⅢ ー星の鼓動は愛ー』

            **ネタバレあります**

 先日『機動戦士ZガンダムⅢ ー星の鼓動は愛ー』を観てきました。本来ならかなり先まで観られないはずでしたが、ちょっとした事件があって、時間が生じたので、その隙に行ってきました。平日の昼で、十五人ほどの入りでした。女性客は、カップルで来た一人だけでした。
 新訳の最後ですが、ハッピーエンドになっていました。私としてはこれでよかったのだと思います。というか、子ども向け番組で、主要登場人物のほとんどが死に、主人公が最後に廃人になってしまうテレビ版の方が、どうかしています。テレビ版もこう終わるべきだったのです。
 廃墟の劇場での台詞が変更されたと思ったのですが、あとでインターネットで確認したところ、その通りでした。「あなたたちは地球の重さも大きさもわかっていないんだ」だったと思うのですが、カミーユにいい台詞を言わせたと思います。「人類は地球を捨ててニュータイプになって進歩して万々歳」的な発想はSFとしてはおもしろいかも知れませんが、「中世紀」の「地球人」である私にとってはずーっとさきのお話なのでかえってむなしいです。
 知り合いのディープなZファンが、ハリウッド的なハッピーエンドは嫌だと言っていたのですが(そいつはまだ観ていない)、Zファンにはどううけとめられたのか興味があります。
 とりあえず、鬱になる結末が好きな人のための映画を、明日紹介します。
 声優ですが、サラが池脇千鶴さんでなくなっていました。セイラさんの声が井上瑤さんのライブラリー出演であるように、ZⅡでの声優問題への答えは、アニメファンの懐古趣味に応えるということでした。ラスト近くのカイとセイラさんのツーショットを設けたのも、ファーストのファンへの配慮でしょう。
 営業的にはよかったと思います。
 内容について、予想されてはいたのですが、地球に帰る回数が減って、キリマンジェロの嵐やダカールの日がなくなりました。それに従って、ロザミアやフォウのエピソードが割愛されました。強化人間が出てくると、話がグンと暗くなってしまうので、それがなくなったことも、ZⅢの雰囲気を明るくしています。第三十三話から第五十話までが約一時間四十分になったのですが、全体的に、よく編集されていて、作った側にとっては快心の作だったのではないでしょうか。
 これで、全編描き直しだったら、文句なしだったのですが。

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2006年3月25日 (土)

映画パンフレット

 映画のパンフレットを買ったことがほとんどない。学生時代、貧乏だったので、映画を観に行っても、パンフレットを買う余裕がなく、それが習慣づいてしまったからである。
 観に行った芝居はビラとチケットをすべて保管してある。
 歌舞伎など伝統芸能では、パンフレット(筋書きですね)を必ず購入する。それがないとよくわからないからである。
 池袋に住んでいた頃は、映画館がたくさんあって、一度なくなった文芸座などでは、一回の料金で三本立てを観られたりしたので、かなりの映画を観た。その当時のB級映画にとても詳しくなったが、自分の人生に利するところがあったとは、今振り返ってみると、全く思えない。娯楽は娯楽だったのである。
 せめてパンフレットがあれば、映画にまつわる思い出や、映画そのものの記憶がよみがえりやすいだろうが、いまさらどうしようもない。

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2006年3月24日 (金)

WBC雑考

 日本が世界一になって、これで野球も人気回復とテレビ関係者は胸をなでおろしているらしいが早計である。だが、サッカーの日本代表の人気は抜群で視聴率も高いが、Jリーグの平均視聴率は5%未満である。むしろ、代表チームが注目されるようになれば、一チームだけ強ければいいという商売は成り立たなくなる。試合そのものをおもしろくしていかなければ、視聴率はあがらない。

 日本が二次リーグで韓国との対戦を控えた頃に、新聞社の記者がネットに配信した文章に「雪辱をはらす」という表現があった(何に書いてあったか覚えていないのは痛恨)。「雪辱」は「辱を雪ぐ(そそぐ)」のであって、はらすをつける必要はない。「雪辱する」でよい。それとも「雪辱をはたす」か「屈辱をはらす」と混同したか。気が立っていたので、角川源義の「角川文庫発刊に際して」の冒頭「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であつた以上に、私たちの若い文化力の敗退であつた。」を思い出してしまった。

 日本対米国は疑惑の判定があったわけだが、実際の勝利と引き替えに、米国には士気の低下をもたらしたのではないか。主催者側が自国に有利なルールを決め、現場では買収されたといわれてもいたしかたのない審判があきらかに嘘の判定をくだす。ハリウッド映画なら、間違いなく悪役である。米国がメキシコ戦にまさかの敗北を喫したのも、初回の疑惑の判定が米国チームのやる気を削いだと推測している。

補足:トリノオリンピックのときは、書いた文章を寝かせておいたら、似たような記事をたくさん見るようになり、使えなくなってしまったので、今回はさっさと載せておく、

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2006年3月23日 (木)

この一戦

 戦いが天下分け目の決戦であることが、当事者にとって理解されている場合とそうでない場合がある。戦国時代の合戦にたとえるなら、前者が関ヶ原の合戦であり、後者が小牧長久手の合戦である。徳川氏が興廃をかけた一戦として小牧長久手の戦いをとらえていたのは当然だが、この戦いの結果、徳川を軍事力によって滅ぼすことができないことが諸大名にはっきりし、それが関ヶ原までつながっていくことを考えると、豊臣家にとっても興廃を決した一戦だった。それがより豊臣家に自覚されていれば、小牧長久手の戦いも別の様相を示しただろう。

 スポーツでも、興廃のかかった一戦がある。ラグビーでは、1995年に145対17でニュージーランドに大敗した試合がそれである。技術面のみならず、カジノ浸りや二日酔いなど不真面目な姿勢での敗戦であることは伝わっていないようで、みな知っている。以後ラグビーはやりたい人だけやれば、といったスポーツになった。バレーは五輪出場権が命綱である。男子はぷっつりと切れ、女子は切れたようで切れていないようだが油断はならない。

 さて先日、日本が優勝したWBCだが、韓国に二敗を喫したままで終える、あるいは三度破れることがあれば、それが野球凋落のはじまりとして記憶されるようになったはずである。当初は、WBCの重要性を日本の球界あるいは日本人はよく理解していなかったのではないか。すべてプロ選手で構成された日本代表の試合はアテネ五輪でもやって、決勝進出がならなかった。だから、WBCで真の日本代表が敗北しても、それもありだと思っていた。

 だが、格下と思われていた韓国に連敗したことは、多くの人々に衝撃を与えた。今年はサッカーのワールドカップである。2002年には、サッカーのあおりをくって、野球の視聴率は上がらなかった。もし、WBC韓国に敗戦したまま終わっていれば、多くの人が野球に見切りをつけたはずである。

 すべての選手をみれば、層は日本の方が厚い。しかし、戦争の基本は戦力集中である。韓国は大リーグをはじめ、できるだけ良い選手を集めた。しかも、アテネオリンピック不出場の屈辱を晴らす気に満ち、また兵役免除のニンジンがぶらさがっているので、士気が高い。小牧長久手の戦いのように国力(ここでは野球の)で劣っている側はこれが生き残りにつながっているとわかっているだけに、はじめから必死である。

 日本はWBCの試合が進むにつれて、事前に囁かれていた打力不足が白日の下にさらされた。大リーグには、松井秀喜がいる、井口がいる、城島がいる、日本にもセパの主力打者が残っていると言ってももう遅い。負けは負けとして記憶されるのみである。準決勝は、日本野球にとって、「興廃この一戦にあり」の試合だった。

 結果は日本の勝ちで面目は保たれた。日本に二回勝って三度目に敗れた韓国にとってはさぞ無念だろうが、項羽と劉邦の垓下の戦いみたいなもので、最後に勝った方が勝ちなのである。

 さて、三度目の韓国戦だが、日本の勝利は不思議ではない。
 まず、投球制限が準決勝で緩和されるので、日本にとって楽になった。WBCでは、投球数は、最大で1次リーグが65球、2次リーグが80球、準決勝と決勝が95球までとなっている。日本の最大の武器は投手力(特に先発の)である。野球は江夏的に見れば、投手と打者の一対一の対決であり、投手が一対一の勝負に勝っていけば当然試合も負けないのであって、この大会に有力選手が招集できたかは問題でなくなる。

 準決勝で先発した、日本球界の至宝、上原はきわめて制球力のある投手で、少ない球数で長い回を投げ抜くことができる。それまでの試合日本代表の継投はかならずしもうまくいっていたわけではなく、七回まで無失点で投げ抜き、継投の危険性を減らせたのは大きい。

 過去二度の対戦で、韓国選手の情報が手に入っていたのも勝利の要因だった。野球の場合、初顔合わせなら、投手力によって、番狂わせが起こりうる。アテネ五輪で日本がオーストラリアに負けたのもそうであり、WBCで米国がメキシコの八人の継投の前に敗れたのも、よく知らない相手と戦ったからである。

 加えて、雪辱に燃える日本に対し、兵役免除のカードを使い切ってしまった韓国とで、士気が逆転してしまった。

 王監督は、神算鬼謀の智将ではない。采配よりも代表選手をまとめられる人徳を買われて監督になった人である。今回、継投も打線の組み方もうまかったわけではない。福留のホームランで帳消しになってしまったが、その直前の打者の五番多村に七回表無死二塁、走者松中で、送りバントを命じたのは、巨人時代の悪い采配のようでげんなりしてしまった。長距離打者に送りバントを命じてもうまくいかない。アメリカ戦でも多村はバントを失敗している。結果、スリーバント失敗である。

 守備のこともあるが、ここが勝負どころとみて、送りバントをさせるなら、宮本を出すべきだった。とはいえ、三塁に行っても、足の悪い(怪我していたらしい)松中を確実に犠牲フライで返せる選手は控えていない。

 王監督が復調を認めていた福留が代打で結果を出したからよかったものの、采配については王さん相変わらずだなぁと思わせるものだった。

 しかし、韓国はそれ以上に采配に迷いがあって、二番手下手投げのキム・ビョンヒョンはひっぱりすぎ、三番手のボン・チュングンと四番手のソン・ミンハンは交代が早すぎである。寒いところでの小刻みな継投は危険である。

 結果さえみれば、日本がやっと順当に勝っただけなのだが、韓国チームは恐るべき相手であった。野球において、韓国が今後決して侮れないことを肝に銘じなければなるまい。

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2006年3月22日 (水)

映画のトイレ休憩

 映画も三時間ほどの超大作が珍しくないが、トイレ休憩がないのが常である。制作者としては、一気に見てもらった方が、観客が乗っていけると思うのだろう。ミュージカルでも「ラ・マンチャの男」が中休みを抜かすことで、成功したことは有名である。また、劇場としても、少しでも回転をよくするためには、トイレ休憩は入れたくないはずである。
 私が体験した中では、オールナイトを除けば、『東京裁判』(1983)で、一回のトイレ休憩があっただけである。とある国では、映写機が一台しかない映画館がほとんどで、リールをかけなおすたびに、明るくなって休憩になるといった話を新聞で読んだことがある(いつ、どこの国、何新聞かは失念)。休憩では、トイレに行くほか、それまでの感想を語り合うなど、違和感なくやっていると書いてあった気がする。
 今どきの映画館の椅子はとても座り心地がよいが、それでも三時間ほどの映画を休憩なしでみさせるのは、ちょっとした暴力である。日本泌尿器学会とかが、二時間半以上の映画は休憩も設けるべきと勧告してくれるとありがたい。
 「長編映画、休憩あります」の条件で上映する映画館があったら、けっこう人が集まるのではないか。休憩時間に、おせんやキャラメル加えてパンフレットを売れば、それなりに収益があがると思うがいかが。
 

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2006年3月21日 (火)

三月生まれの子

 二歳十ヶ月になる息子を週三回託児所に通わせるのに、送迎バスを利用している。息子は一歳児クラスに通っていて、順調にいけば、四月より二歳児クラスにあがり、その翌年の四月に、託児所の上にあたる幼稚園の年少組に入ることになる。
 バス停を利用しているのは、うち以外に幼稚園児が二組と、託児所の二歳児クラスの女の子が一人である。
 女の子は三月生まれで、やや小柄である。そのせいか、その子のお母さんはうちの子は三月生まれだからが口癖になっている。息子は五月生まれで、三月生まれのその子とは二ヶ月しか違わないこともあって、学年は下だが体格は息子の方がよい。さらに、親のひいき目だが、息子の方が利発に感じる。
 小さいうちは、生まれた月によって、差が大きいので、その子のお母さんの嘆きももっともである。だが、うちは三月生まれだからと口にすることが、女の子の発育をより阻害しているように感じる。
 息子はやんちゃなので、バス停で待っている間、公園の池に落ちたことがある(どこが利発かと)。また、気分屋なので、今日は行きたくないと稀に泣いたりすることがある(バスに乗ると平気だったりする)。
 息子が池に落ちたあたりは、池に落ちましたねとよく言われた。息子が今日は行きたくないと泣いた日の迎えは、妻が行ったのだが、妻は三月生まれの子のお母さんに、今朝泣いていましたよと、うれしそうに言われたらしい。気のせいかも知れないが、うちの子がよろしくないときには、そのお母さんはうれしそうなのである。
 私も妻も怒る以前に、気の毒だと感じている。
 私が八月、妻が四月生まれで、三月生まれの感覚はわからないが、大人になっても、三月生まれだから劣っているということはまずない。三月生まれの優秀な人を私はたくさん知っている。また、二十歳前後になれば、誕生日が早く来るのはむしろつまらないという意見が周りには多かった。
 気に病まないでと言ってやりたいが、気に病むことは、わかっていても頭から離れないから気に病むのであろう。「うちの子は三月生まれで……」が口癖でも、どう反応していいか困る。

補足:最初に掲載した文章のわかりにくいところをちょっと改めました。

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2006年3月20日 (月)

眼鏡の汚れ

 芝居の関係者でSさんという人は、いつも眼鏡が汚れていた。ほんのときおり、不織布で拭くのだが、それがとても楽しいらしい。そんなに楽しいのなら、こまめに拭けばよいものだが、眼鏡がいつも汚れていたのは、汚れをためていたのだろうか。
 また、Sさんはよく眼鏡をかけたまま横になって寝ていた。眼鏡のツルがじゃまになって寝にくいだろうが、ほとんど意に介することなく、Sさんは寝ていた。
 私は視力が弱かったものの、左右の視力が違うこともあって、それほど度の強い眼鏡が作れないので、コンタクトレンズを常用していた。眼鏡は家の中での読書用といった位置づけだった。
 最初の子どもが生まれてより、コンタクトレンズを悠長につけている暇がなくなって、自然と眼鏡を使うようになった。コンタクトレンズに慣れていたころには、眼鏡は重たく耳が痛くなると思っていたが、フレームが軽く、レンズの面積が小さい眼鏡を使うようにしたところ、長時間の使用でも苦にならなくなった。
 眼鏡を始終かけるようになるまで、眼鏡がこれほど汚れやすいとは知らなかった。私の眼鏡は、朝か夕方にクリーナーをつけて拭く以外は、ほったらかしにしてあるので、たいてい汚れている。不織布を買って、手元に置くようにしてみたのだが、いつの間にかどこかにいって見あたらなくなってしまう。
 息子が私の眼鏡をとって遊んだりするので、眼鏡が傷だらけになって、一度買いかえている。買い換えの際に、キズ用の被膜のあるレンズにした。だが、気休めなのか、子どもがよっぽど乱暴なのか、新しい眼鏡も一年たたないうちにキズだらけである。キズがあると、ますます眼鏡は汚れやすくなる。
 他人の眼鏡が汚れていたときには、そんなんでまともに見えるのだろうかと心配していた。ときおり、頭が痛くなるが、けっこう汚れていてもなんとかなるものである。
 眼鏡をつけたまま寝るのもよくやっている。ツルが形状記憶合金なのと、まくらが柔らかいのとで、なんとか寝られる。
 眼鏡も探し求めれば格段によい品が手に入るのだろうが、お金がないのと、消耗が激しいのとで、それほどよい品を使っていない。

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2006年3月19日 (日)

役に立つ文章

 IT革命により世の中に生み出される文章の量は飛躍的に増えた。昔なら、個々人の頭の中で朽ち果てていたものが世に出回るようになった。その中で、後世に役立つ文章とは、どのようなものだろうか。
 すくなくとも、このブログは役に立たないと断言できる。見解を述べた文章は後世の役に立たない。
 近世期には儒教・仏教・国学など今では思想史が対象としている分野でかなりの著作が残されている。だが、きわめて高度な理論が組み立てられていたとしても、それらが今日の社会で有効に使われることはほとんどない。
 いちばん役に立つのは、些細な事実を記した本である。江戸時代ならば、事件・事実や考証(~の起源とか、由来とか)を事細かに記した近世随筆がそれにあたる(近世随筆は、枕草子や徒然草といった感想中心のふつうの随筆とは違う)。唐沢俊一がインターネットで公開している「裏モノ日記」などは、近世随筆を意識しているに間違いない。後の世界ではわからなくなっているに違いない、きわめて、些細な事象を記すことが、後世に役立つのである。
 じゃあ、私も頑張って微細なことを書き残そうとは、ちっとも思わない。志の問題というより、面倒くさいのが理由である。

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2006年3月18日 (土)

カギ括弧

 カギ括弧(「」)の役割といえば、引用がもっとも多くて他人の文章をひく場合や、会話文ではカギ括弧が使われる。
 強調は「」をつけることで、目立たせる役目を果たす。
 この二つが本来のカギ括弧の役割だが、それらとは別の使われ方がある。強調から派生した用法で、私が「いわゆるのカギ括弧」と呼んでいるものである。

A 彼はフェミニストである。
B 彼は「フェミニスト」である。

の二つの文章があったとする。Aの文章と比べて、Bの文章では、彼は本来の意味のフェミニストではないという意味合いがある。

それが彼にとっての「現実」だった。

といったように、本当ではないけれども、といったときにカギ括弧をつける。
 なぜ、こういったことを注意しておくかというと、いわゆるのカギ括弧が実際に何を言っているのかをきく問題が少なくないからである。
 試験問題でカギ括弧が出た場合にはいわゆるのカギ括弧でないか注意するように指導してきた。
 ここで、カギ括弧をどのような意図でつけるかが書き手に、はっきりしていなければならない。高校生に作文をさせると意味もなくカギ括弧をつける場合があって、そのようなときには注意している。
 大人でも、守れていない人は多い。私がみた顕著な例では、中西輝政『大英帝国衰亡史』(PHP文庫、2004.4)がある。癖なのか知らないがやたらめったらカギ括弧がついていて、しかもほとんど意味がない。カギ括弧の三つの働きから逸脱している。解説の人(手元にもうないので名前を失念しました)ですら、耐えかねたのかカギ括弧の多いことに苦言を呈していた。
 書き手として、いわゆるのカギ括弧は便利である。はっきり言わなくてもよいし、意味深な感じをだせる。論説文(学術論文を含む)の場合、いわゆるのカギ括弧を使うのは卑怯だが、使いたいという欲求に負けそうになるほど、いわゆるのカギ括弧は便利である。

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2006年3月17日 (金)

iPod買いたい

 2005.10.13の記事で欲しいと書いたPSPやニンテンドーDSは今でも欲しいのだが、物欲の対象としては、iPodにうつってきている。iPodあるいはiPod nanoが欲しいのである。買っても、時間の都合で遊べそうにないPSPやニンテンドーDSにくらべて、iPodは、より実用的である。
 私はたくさんの落語のCDをもっている。2005.12.18の記事にも書いたが、CDラジカセは曲の早送りができない。だが、iPodはそれができる。落語を寝ながら聴く私にとって、かなり便利な品である。
 飲んで帰る際の電車など、活字を追うのももう億劫なので、落語ぐらいきいて暇をつぶしたい。
 いまは、パソコンにiTuneを入れて、それから音楽ならびに落語を聴いている。パソコンに向かっているときは、気が散るので、落語はほとんど聴かない。音楽がもっぱらだが、家族への配慮もあってヘッドホンを使っているので、ちょっと席を外して、というときに、いちいちヘッドホンを外さねばならない。最初からiPodだったら、そのまま移動できる。

 もはやひと月ほど悩んでいるが、まだ買っていない。まず、私はいま通勤時間がないので、それほど携帯音楽機器を持ち歩く機会がない。次に、私は臆病なので、何か耳で音がしたまま、外を歩けない。自動車の音だとか、自転車の音だとか、周りの音を十分に聞きわけられないまま歩くのが怖い。それに、電車の中でよく音漏れさせながら、聴いている人がいるが、ひごろかなり腹を立てているので、自分が音漏れさせずに聴いているかけっこう気になる。また、酔って物をなくすことが多いので、飲む日には大切なものは持ち歩かないことにしているのだが、iPodも飲んだ日に持ち歩くのは危険である。
 それに三万円ほどの金が簡単に調達できない。

 先日ついにiPod nano4Gを買うぞと決意したのだが、その前日、わざわざ売り切れているだろうことを見越して(欲しいがあると困るのです)、目録受領日から時間をおいて注文していた古書店Sの和本が、無事在庫があったらしく、私の手元にとどいた。21000円と8840円の二冊で29840円也。本当にいりようなのは、8840円の本だったが、21000円の本はもともと零本(不揃い本)で、私の手元にある本とあわせて、完全揃いになるので注文してみたのだった。完全揃いになれば、倍以上の価値がでるわけで、大いに得をしているはずだが、手持ちの金がなくなったので、当分、iPodは見送りである。

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2006年3月16日 (木)

春が来た

 生命として、寒いのよりも暖かい方が好きなのは、私も例に漏れないが、いろいろな仕事の能率の面では、暖かくなってくると下がってくる。やる気が失せてくる。しょうがないので、薄着をしてみるが、いつまでも効果があるわけではない。春が来れば、徐々に北国に移動していきたいとまで思う。
 これは花粉症のせいで、持病の副鼻腔炎が悪化するせいもあるのだが。
 今年は忙しくて、三月なのにもう来年度の仕事で手一杯である。のどけき春の日々をぼんやり過ごすのは、あまり好きでないので、むしろいいのかもしれない。

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2006年3月15日 (水)

カフェイン断ち

 たいしたこともしていないのに、ここひと月ほど、睡眠時間4~5時間で過ごしていました。当然眠くなるわけで、紅茶やコーヒーを飲んでしのいでいたのですが、徐々に量が増えてきて、あきらかに体に悪いとわかるほどになってきました。
 しょうがないので、ノンカフェインのハーブティーにかえてみました。不味いので、白湯を飲んだ方がましかも知れませんが、とりあえず気休めに飲んでいます。
 理系の学者の友人に、アルコールは脳への害が甚だしいと飲めるにもかかわらずほとんど飲まず、眠気覚ましが必要な時のコーヒーでもあえてデカフェ(ノンカフェインのコーヒー。そいつのおかげで初めて知った)を選ぶのがいます。
 ここのところ、年のせいか物忘れが激しくなりました。彼のように、早いうちから脳に気をつけておけば、少しはましだったかもしれません。
 カフェイン断ちを始めて一週間になりますが、今後も続けるつもりです。でも、眠い。

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2006年3月14日 (火)

大昔の動物

 さいきん息子(二歳十ヶ月)が私によく読んでくれとせがむ本に、ニューワイド学研の図鑑『大昔の動物』(今泉 忠明・松岡 敬二・高橋 文雄・吉田 彰著、学習研究社、2000.11)がある。今いない動物の本など読んでも無駄だと思って。最初のころは面倒くさかったのだが、何度も読んでいるうちにハマってしまった。
 地球の悠久の歴史における、生命の進化と淘汰の過程を見ると、藤村操ではないが、人類の歴史など小さい小さい、何をあくせくしているのだという気分になる。
 そう遠くないこともあるので、所沢のユネスコ村の大恐竜館に、二週間ほど前に家族で行ってきた。息子は喜んでいたが、まだ興味はあるが怖いといった反応だった。息子は化石が何か理解できず、別の動物に食われて骨だけ残ったのだと信じている。
 大恐竜館の売店にアンモナイトの小さな化石があって、欲しかったのだが、妻に買わないわよと機先を制されて見送った。残念である。地元に帰ったときに、住んでいる町の中学校の崖から、小さな貝の化石が出るので、それでも掘りに行くとするか。いやいや、億万長者になって、家の中に、ティラノサウルスの頭の化石などをドーンとおいてみたいと、子どもっぽい願望をする。
 また、図鑑が教えてくれるのは、生命は子孫を残し繁栄するために苛烈な競争を気が遠くなるほど昔から続けてきたということである。そう簡単に、世界平和が訪れないのもあたりまえというか、そちらの方が生命にとっては常態といえる。

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2006年3月13日 (月)

スペシャリストの憂鬱

 何か物事で成果を上げるためにはスペシャリストでなければならない。また、専門の技能を持っていなければ、できない仕事は多い。
 その点で、ゼネラリストを養成する大学教育は効果が低いように感じられる。
 しかし、スペシャリストの欠点は、その応用性のきかなさにある。知り合いの知り合いに医者でありながら、まったくあわず精神的に苦労しいしい、仕事をつとめている人がいる。
 医学部を卒業すれば、現在のところ医者になれることはほぼ確約されており、就職率はほぼ100%である。人の生き死にに関わるので楽な仕事ではないだろうが、高給であることも勘案すれば、医学部を志望する人が多いのは納得がいく。
 医学部に入っておきながら、医者になる道以外を選ぶのは困難である。医者になってから違う職業を目指すのも勇気がいる。転身組には、山田風太郎・手塚治虫・渡辺淳一など華々しい成果をあげている人がいるが、医者への道を選ばなかった人あるいは医者をやめた人が誰しも一家をなすわけではない。
 先の人も向いていなければ、すぐにやめるというわけにはいかない。専門性の高い教育をうけていることの不都合である。
 教育とは、すでにある知識の伝達である。創造は既存の知識の組みかえから生じるとはいうものの、新しいことを創造する能力を、専門性の高い教育がじかにはぐくむとは思えない。いま、隆盛を極めているIT関連の仕事も、最初からお手本があってその教育がなされていたわけではない。
 文学部(あるいは教育学部)の同期生の多くが1996年度に卒業する際、IT関連の仕事を選んだが、ゼネラリスト教育をうけていたその人たちはちゃんと適応して、新分野を開拓したのである。
 ゼネラリスト教育とは、環境の変化に順応して多方面へ才能を発揮できるようにする教育である。もちろん、ゼネラリスト教育が教育として成果があがっているかは、検討の余地があるが、ドイツのような早期のスペシャリスト教育は麻雀の手の決めうちのように、早上がりはできても、変化に対応しにくく、また大きな手になりにくいのではないか。
 私も大学院の博士課程をでているので、スペシャリストということになる。にもかかわらず、いまさら何か新しいことをはじめても、それに対応できると信じたい自分がいる。他に害を与えているわけではないので、信じるぐらいは許して欲しい。

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2006年3月12日 (日)

五輪信じない

 五輪の成績予想は、新聞が事前にいかに宣伝しようといっさい信じないことにしている。私が夏季・冬季あわせて五輪に注目しだしたのが、サラエボ五輪である。スピードスケート500メートルの黒岩彰が期待されていたが、結局10位に終わり、ほとんど注目されていなかった北沢欣浩が銀メダルを獲得した五輪である。黒岩彰はアウトスタートだから負けたうんぬんの議論はあったが、新聞などであれだけ下馬評の高かった黒岩が惨敗したことに、黒岩がてっきり金メダルをとると信じきっていた10歳の私はかなりの衝撃を受けた。以後、私にとってマスコミの五輪予想は大本営発表のようなものになり、どんなことが書いてあっても真に受けず、日本人選手に過剰な期待をしないようにしている。新聞を信じなくなったはじめとしては、よい経験だったかもしれない。
 
 サラエボ五輪では、私の通っていた長崎の小学校では、クロイワー!と叫びながら、ワックスのきいた廊下をスケート風にすべることが流行った。今の子どもたちは、のけぞりながらイナバウアー!と叫んでいるらしい。さもあらん。

補足:荒川の金メダルの翌日に書いたのですが、似たような新聞記事などを見るようになったので、後半を削ってのせました。

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2006年3月11日 (土)

”Half-Blood Prince”名義考 おまけ(ネタバレあり)

    **注意、ネタバレがあるので未読の方は読まないように**

 手負いのダンブルドアはスネイプに死の呪文をかけられ死んでしまう。その直前で、ダンブルドアが”Severus...Please...”と言っているが、これは命乞いとは違うのではないか。実は「他に死喰人が三人もいて、どうせ助からないので、セブルスおまえが私を殺してくれ。ここで殺すことで、敵を欺いてくれ」ということではないか。ダンブルドアに命乞いは似合わない。また、今までのダンブルドアのスネイプへの評価が単なる読み違いというのも情けなさすぎる。

 最終巻で、スネイプがいざというときに、実は味方と正体をあらわして、ヴォルデモートと差し違えるのではないかと期待している。私はスネイプに近い感じの教師だったので、けっこうファンなのである。

 ヴォルデモート卿の一人称が「我が輩」は、いかがなものか。我が輩は明治に入って、薩長土肥の武士が役人になったときに使うという感覚がある。小役人の一人称ではないか。「朕は」はもう通じないのと日本固有性が強すぎるので見送るとしても、「余は」(そうでなくても「われ」)ぐらいが適当だと考える。

補記:「我輩」はスネイプで、ヴォルデモート卿は「俺様」でしたね。ぴぐもんさん(http://pigmon1038.cocolog-nifty.com/diary/)の2006.05.23の記事で思い出しました。「俺様」もかなりいかがなものかと思いますが。

外国からのスパムコメントがひどいので、コメント受付を停止します。(2007.4.16)

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2006年3月10日 (金)

”Half-Blood Prince”名義考 その三(ネタバレあり)

               **ご注意**
 この回にはきわめて重大なネタバレがあります。未読の方は読まないように気をつけてください。

 さて、前置きが長くなったが、やっと"Harry Potter and Half-Blood Prince"の話に入る。その一、その二で述べたように、「混血児」を蔑称だとうけとる人間がいるからこそ、"Half-Blood Prince"は「混血の王子」にしなければならなかったと思う。

 ”Half-Blood Prince”は、ハリーが見つけた薬草学の本の持ち主がした署名である。本の持ち主はセブルス・スネイプである。スネイプが「純血」ではなく、魔法使いの母親Eileen PrinceとマグルTobias Snapeの父親との「混血」の息子(王子)であったので、”Half-Blood Prince”なのである。

 ハリーポッターの世界では、純血主義者(純血を優秀だと思う)が「混血」を見下す場面が多々みられる。その世界では、現実の英国と同じように、Half-Bloodというのは差別的な表現である。

 しかし、軽蔑を受けとめつつ自らの出自に誇りを込めた表現が ”Half-Blood Prince”なのではあるまいか。また、「泥棒貴族」や「怪盗紳士」といった不釣り合いな言葉がつながって印象が強まっている言葉である。だからこそ、「混血の王子」と訳すべきだと思うのである。

 私は英語力不足から、言葉の感覚がうまくつかむ自信がなく、また本文中のスネイプの心情も十分に読み取れてはいないかもしれない。だが、本文中の”Half-Blood Prince”を日本語での「あいのこ王子(プリンス)」に近い感覚でスネイプが使っていたのではないかと思うのである。

 ハリーポッターの小説世界では、ハリーら「混血」が「純血」の圧力や差別に負けず、それをはねのける姿が描かれている。人種差別の愚かさを伝えているのである。また、実はヴォルデモート卿が「混血」であり、それがヴォルデモート卿の性格や精神に影響を与えており、だからこそあのような!といった、内面に深みのある敵役にしている。

 児童書なので、一番安易な解決策であるカタカナ表記の「ハーフ・ブラッド・プリンス」にしなかったのは賢明である。確かに謎なので、題名は「謎のプリンス」でいいだろう。
 
 しかし、”Half-Blood Prince”は、"Prince”に姓と王子の両方がかかっていて、それが重要な意味を持っている以上、本文では「混血の王子」で通さねば、原作者の意図を曲げることになる。5月17日の邦訳版は予約したが、本文中がもし「謎のプリンス」で押し通されていたら、我慢するつもりはない。手持ちの邦訳版はすべて叩き売って、いかに私の英語力が貧弱といえども、以後英語版しか読まないつもりである。静山社および翻訳者松岡祐子には、適当な態度をとることを切に望む。

補足:まあ杞憂だと思いたいのですが……。

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2006年3月 9日 (木)

”Half-Blood Prince"名義考 その二

 しかし、思うのであるが、けっきょくは今ある言葉が差別的だからといって新しい言葉を作っても、いずれはそれも差別的な意味合いが強くなる。敬語を使っても相手を侮辱できるように、差別的でないはずの新しい言葉を使っても、差別的な意味合いを含む文章を作ることは可能である。そういった文章が増えるにつれて、差別的でなかった言葉も、手あかがつき、いつの間にか差別語になってしまう。そのため、また新たな差別的でない表現を探さなくてはならなくなる。

  「合いの子」がダメなら「混血児」。それがダメなら「ハーフ」。それもよくないとなると「ダブル」。じゃあ、その次は?。「ダブル」や「国際児」が市民権を得たとして、それが永遠にその位置を確保しているとはとうてい思えない。

 こういった状況がいたちごっこだとしても、ある言葉がある時点で差別語として使えなくなった場合、たとえば、「混血」が差別語となった場合、いままで「混血」と定義されてきた内容について、表現することが困難に陥る。こういったすべての「表現の自由」の阻害は、ふつうの、あるいは建設的な議論・表現を妨げるのは確かであるが、差別的な意味合いを作る文章も作りにくくするのは確かである。

 とりあえずある事象に関する表現をすべて困難にするという点で、「言葉狩り」はテロ行為に似ている。とりあえずの破壊によって、いいも悪いもすべて止めてしまうことにすぎない。差別的な状況を解消する、または差別的な見方を変えるよう啓蒙する、といったことにはほとんど結びつかない。

 私としては、とりあえず差別語を増やして、新しい表現につぎつぎに変えていくことは、不毛だと考える。まず、その語を差別語ではないと定義する。そして、その語を使いつつも、その運用を差別的にならないように注意する。こうすれば、「差別語」が無限に増殖していく可能性も減らせるのではないか。悪くもなかったはずの言葉が「差別語」となり、奇っ怪な言葉が増えていくのに私は耐えられない。

 椎名林檎作詞の「意識」(CD『加爾基 精液 栗ノ花』所収)に「お母様 混紡の僕を恥ぢてゐらっしゃいますか」という歌詞がある。「混血」を「混紡」におきかえて、めでたしめでたしなのか。言葉を置き換えるだけでは根本的な問題が解決しないことは、あらためていうまでもないだろう。

 理屈をつけて「ダブル」という言葉を使うのだと主張したところで、それは「私は人権に配慮する人間です」ということを相手に伝えるだけで(その人にとっては、それで十分なのかもしれませんが)、理性的に振る舞っているとは限らない。「子供」が人権無視で「子ども」がよいだとかの主張のように、私にとっては「冗談がお上手」の範疇である。

補足:読み返すと陰鬱な気持ちになる。差別的な表現をつかわないようにしましょうというのは、人間の理性の発露である。だが、「差別語」の言い換えの問題、あるいはいわゆる「言葉狩り」の問題は必ずしも理性が十全に発揮されたものとは言い難い。山本夏彦のいうように「正義」あるいは「正義の人ほど始末におえない」とは思いたくないが、こういった状況が続くなら、人間の理性の敗北と感じざるを得ない。

 これを書いたのは、「差別語 その七」(2006.2.28)よりあとである。「私としては」以下はいまさらの繰りかえしだが、実行はかなり難しいとあらためて感じる。

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2006年3月 8日 (水)

”Half-Blood Prince"名義考 その一

          **ご注意**
 "Harry Potter and Half-Blood Prince"、邦題『ハリー・ポッターと謎のプリンス』にまつわる文章です。本編三回とおまけ一回の続きものです。第三回とおまけにネタバレがくるので、未読の方は注意してください。

 ハリーポッターシリーズ第六作"Harry Potter and Half-Blood Prince"は、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』の邦題と決まった。”Half-Blood Prince"をふつうに訳せば「混血の王子」である。実際、ある時期まで書店には「混血の王子」と予告されていた。「混血」がのちに述べるような理由で、差別語として忌避される傾向にあるので、そのようになったのだろう。翻訳の難しさというものを"HalfBloodPrince"の一語に感じた。それを述べるのが、今回の目的である。なお、UK版とUS版では、人種問題に配慮して一部内容が変えられているそうである。私が読んだのはUS版である。

 手元にある辞書を見たところ、大修館の『ジーニアス英和辞典』初版(1988発行)では”half blood”の訳は「混血」。桐原書店の『ロングマン現代英英辞典』(手持ちの本には奥付がない。1990年に買ったと思う)では、なんと収録外。

 両親が違う人種である場合の子どもの呼び方は、今では「ハーフ」が優勢である。『ジーニアス英和辞典』で「混血」なのは、時代のせいか、それとも「ハーフ」と訳してはそもそも英和辞典とはいえないせいか。

 「浮浪者」が「ホームレス」になったように、「ハーフ」とおきかえて、めでたしめでたしかと思いきや、そうはいかない。Wikipediaでは、「混血」の説明に、「特に人(人間)を指してこのように呼ぶ場合は蔑称である危険性が伴う。(ただし欧米で使われるミックス(mix)という呼称はハーフより差別的でないとされる) 」と注意書きをつけている。つまり、英語の「half-blood」自体に差別的な意味合いがあると思われ、「混血」を「ハーフ」にするのは適切な置き換えとも言い難いようである。

 ネット検索にかけたところ、「ハーフ」にかわって「ダブル」という呼び方があるとのこと。私の芝居の知り合いにJDNさんという父親が日本人、母親が白人系アメリカ人という人がいた。十二年ほど前(1993)、また聞きで、JDNさんが「俺は血が足されている、ハーフではなくダブルだ」と言っていたと知って、皮肉屋のJDNさんらしい諧謔だと思ったのだが、家では英語をつかって生活しているだけあって(日本語も恐ろしく堪能でしたが)、時流にあった意見を述べただけらしい。

 私としては「ダブル」には違和感がある。「ハーフ」は半分に切っているからダメという意見が多いようである。「混血」が使われない理由は、血をまぜるという表記が、そもそも人種の違いがあることを強く意識させるからであろう。半分にしようが倍にしようが、「ダブル」も「ハーフ」も、「血」を操作した表現である点では「混血」とそう遠くない。ただ、一回英語をかますことで、その事実がかすんでいるだけである。

 「ダブル」に近い発想の日本語が実はあって、「合いの子」がそれにあたる。「合いの子」は、週刊文春編『徹底追求 「言葉狩り」と差別』(1994)が収録した(スッパ抜いたと称している)「大新聞『言い換えリスト』」では、「あいのこ」は「特別な場合以外は使わない方がよい」とされるBランク(ABCと三段階ある)の差別語である。「混血児」への言い換えを勧められている。今の「言い換えリスト」なら「混血児」も「ハーフ」になっているか。

 Wikipediaの「混血」には「動物に於いてこのように言われる場合は交雑種(雑種)ないしあいのこといい、家畜の場合は人間にとって都合のいい形質を作るために、人為的に行われる。 」とある。私の感覚でも「あいのこ」を使う場合は、「ラバがウマとロバのあいのこ」や、二つの機械の長所をとりいれて別の機械を生み出すときにいうなどである。洒落てはいるものの(江戸の戯作を研究してる私にとって洒落とはシャレ・ダジャレの言語遊技のことです)、人間には使わない。ちなみに「雑種」は英語では”Hybrid”。何でも英語にすればかっこうがよくなる日本語は便利便利(もちろん皮肉です)、ハイブリッドカーの正体は雑種車である。

「ダブル」を日本語に直すなら「ばいのこ(倍の子)」か。ふざけていると思うのなら、「ダブル」も同じぐらい私にとってはふざけている。また、英語圏で「ダブル」を使うからといって、日本語で「ダブル」を使わねばならない理由はまったくない。

 けっきょく、「ハーフ」の代わりに「ダブル」を使いましょうという運動・傾向が今後盛んになったとしても、私としては「ダブル」を使うのは、気持ち悪くて、絶対使用せよという法律ができない限り、まずやりたくない。「ダブル」にどうしてもしたいという人は、「ダブル」を広めるよりも「合いの子」を差別語ではないという見解を広める方が適当だと思う。

 先の「大新聞『言い換えリスト』」(1994)がよしとしていた「混血児」だが、堀田貢得『実例・差別表現 -糾弾理由から後始末まで、情報発信者のためのケーススタディ』(大村書店、2003)では、

 つい最近まで「あいのこ」は混血児を指す言葉で、侮蔑性が強いとして、「混血児」と言い換えるべきだとされてきた。または「ハーフ」と場合によっては呼称すべきとされていた。ところが二〇〇一年一月、NHKが放映したドキュメンタリー『アジア発見・日比混血児』という番組に対し、放映後、「コムスタカ」(移住労働者と連帯する会)という市民団体から、NHKに対して抗議がされたのである。「混血児という言葉は『純血』との比で差別性がある。混血児は『国際児』にするべきである。『ハーフ』という表現もイギリスにおいては差別表現、よって『ハーフ』は『ダブル』とするべきである」
 外国人との共生を標榜する人権団体「在日コリアン人権団体」や「全国朝鮮人(外国人)教育研究協議会」もこの主張を支持、すでに「国際児」「ダブル」という表現を使っている。国際化時代の新たな差別表現として配慮を必要とする言葉である。

としており、日本が島国であることや鎖国政策のため異民族との交流が少なかったことを理由にあげて、日本人にとって「民族差別の側面は難しい側面を持っていることを否定できない」としている。

 私としては「混血児」が差別的だという感覚はなかった。しかし、差別的だと、当人に抗議されたなら、考え込まざるをえない。「混血」が劣ってるという発想には「純血」が優位にあるという考えが土台にある。「混血児」に抗議した団体をみればよくわかる。「純血」のため圧力をうけていると感じている人たちが抗議しているのである。とはいえ、これを弱者のルサンチマンと片づけるのもすっきりしない。だからといって、ここで「混血児」をダメにしてしまうと、表現上の不具合が一気に増えてしまうので、そうもしたくないと二律背反の状態にある。

 なお「国際児」も私の感覚にはなじめない。『広辞苑』第五版で「国際」とは「 諸国家・諸国民に関係すること。もと『万国』とも訳され、通例、他の語の上に付けて用いる。」とされる。この「諸」がくせもので、二国に限った交流を「国際」とはふつう言わない。たとえば「日韓」「韓日」など、二国間の略称を冠につける。

 もちろん、いくつもの人種、国籍の血を受け継いだ人はいるはずで、そういった人のことを「国際児」というのは妥当なのかもしれない。しかし、両親で二つの国籍あるいは人種の場合が、「混血児」のなかで圧倒的に多いはずである。それなのにすべて「国際」とするのは無理がある。慣れの問題とも思えない。「彼はアメリカ人が父親で日本人が母親の国際児です」ぐらい、説明のともなった文章でなければ、納得はいくまい。

 また、すでに幅をきかせている語に「国際人」がある。英会話学校に通って「国際人」になろうとか、日本人ももっと国際的にならなければならないとかいう言説がある。ここでは、「国際」とは先天的な状態ではなく、ある時点で生み出される後天的な状態である。

 それに対して、Wikipediaが「混血(こんけつ)とは、何がしかの分類上に於いて、異なるグループ(種族・人種・民族等)に属する親同士の交配ないし性交の結果によって子が生れる事。またはその生まれた子を指してこう呼ぶ。」ように「混血」とは先天的なものである。

 「国際人」と「国際児」は実態が近いものなのだろうか。「国際児」が長じて「国際人」となるのか。いま、「国際人」という言葉が人口に膾炙している以上、「国際児」を広めるのは困難が伴うだろう。
 
 とりあえず名称については、より適当なものを模索する必要があるだろう。

補足:差別語特集もやっていると滅入ってくるので、もう打ち切りにしようかとも思うのですが、せっかく書いたのでいちおう載せることにします。ハリポタの話題にすぐはいるつもりが、「混血」が差別語かとの考察が長々と続いています。見返すとひどい文章です。「ダブル」や「国際児」への批判がかなり長くなりました。やや感情的になってしまったかもしれません。
 明日の文章は、逆接ではじまります。つっこみどころも多いかと思いますが、明日の記事を待ってもらえるとありがたいです。

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2006年3月 7日 (火)

口癖

 自分でも気づかない口癖があって、子どもが真似をしてはじめてわかることがある。「まあいいかな」「こんなものかな」がそれで、いかに私がしっかりと物事を決めていないか気づかされる。
 自分でもさいきん増えたと思う言葉は「どうかしている」である。まわりに納得のいかないことが増しているのかもしれない。
 ブログでよく使っているのは、「実を言うと」「本当のことを言えば」である。もったいぶった言い回しだとはわかっているが、ついつい書いてしまう。

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2006年3月 6日 (月)

足の悪い

 映画『写楽』の終わりあたりで、片足が不具の真田広之が、女郎の葉月里緒菜をつれて逃げる場面があったと思う。それを親分に報告する手下が「足の悪い男が女を連れて逃げていくのをみたやつがいるそうです」と言ってたと記憶している。現在では「足の悪い男」が適当なのかもしれないが、時代劇なのでここでは「びっこの男が」と憎々しげに言わなければ、「らしく」ならない。
 落語は、身体障害者がお客にいると、木戸番から連絡があって、それにまつわる咄はしないことになっている。映画は、誰がみるかわからない。入る前に、足の悪い人への差別的表現がありますので、みたくない人はみないでくださいというわけにはいかない。
 噺家川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)の自伝、『天下御免の極落語 ―平成の爆笑王による“ガーコン”的自叙伝』(彩流社、2004.6)によれば、川柳川柳が、あるとき酔って高座に上がって、車いす使用者をネタにした漫談をしたところ、川柳は車いすの客を前に差別的なネタをやって、その人から寄席の従業員が抗議をうけたという噂が、実際には車いすの客はいなかったし、抗議もなかったにもかかわらず広まり、落語協会会長でその時点での師匠でもある柳家小さんに一ヶ月の謹慎を命じられたことがあって、今は亡き古今亭志ん朝が事実関係をあきらかにしてくれたおかげで幸い謹慎は半月でとけたという(われながらすごい長文)。そういう意味で、噺家も落語だから寄席だからと、うかうかしゃべってはいられない。

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2006年3月 5日 (日)

頭に余裕のある人

 今、テレビドラマや映画の再放送の際に消されてしまう差別語は、たとえ差別意識を反映した表現でも、放送に耐えうる範囲とみなされて、かつては使用されていたわけである。この段でいくと、現在許容範囲内でも将来的に差別語として、放送で使われない言葉が多数生まれることになる。
 未来の差別語候補の筆頭は、「はげ・ハゲ・禿」であろう。これほどまであからさまな身体的欠損が対象であるにもかかわらず、差別語になっていないのが不思議なほどである。
 綾小路きみまろが2006年正月のNHKのお笑い番組で、漫談とは誰かが犠牲にならなければならないと述べていた。笑いが起こるにはいくつか要因がある。他人の失敗・欠点を笑うというのは、もっとも単純なものの一つである(いとうせいこうがバナナの皮理論と「笑芸人」で呼んでいた)が、同時に有力なものの一つである。
 ハゲやカツラを使ったネタは、最後のフロンティアというか砦となりつつある。綾小路きみまろの新CDは自らのカツラネタを多く使ったものである。『トリック』の生瀬勝久はヅラキャラで好評を博した。『白い巨塔』でも西田敏行がヅラキャラを演じたらしい。さだまさしもトークでの自虐ハゲネタを得意とする。『古畑任三郎』の西村雅彦もハゲを売りにしている。
 ハゲを笑いのネタにするのは、伝統的かつ広範囲に行われているが、この安泰はいつまで続くか。
 世の中には、血友病などの治療で、不本意に髪を失っている人がいる。病気で髪を失う人がいるというのに、それでいいのか。という反論は容易に生み出せる。病気により髪を失った女の子の母親とかが抗議行動などをおこして、ハゲ・ヅラネタも将来的にできなくなってしまうに違いない。
 ハゲ・ヅラネタができなくなってしまえば、私としては、いよいよ何かの終わりを感じるだろう。
 

補足:禿が差別語にならない理由として、社会的な強者である男性に多いから、かなりの人がなるので身体的欠損とはそもそもみなされていないからでしょうか。関係ありませんが、私は「禿」という字をみると、「はげ」ではなく「かむろ」とまず読みます。

 なお、この記事の題名は……、まあそういうことにかけてあります。

追記:径書房編集部編『ちびくろサンボ絶版を考える』(径書房、1990.8)に収められた井上ひさしの文章に(立ち読みだったので章題は失念)、放送作家時代に「禿山ははげの人に気の毒なので使わないでください」という注文があったと書いてありました。

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2006年3月 4日 (土)

キーボード買いかえました

 キーボード買いかえました。デルの最初からついていたのは、キーの感触がボワンボワンしていて、急いで打っていると違うキーにふれてしまうことが多く、使いづらくてあきあきしていました。ジャストシステムのジャストショップから、「東プレ Realforce106UBキーボード USBタイプ」の紹介があったときに、すぐさまとびついて買いました。形容としておかしいかも知れませんが、歯切れよく入力できます。税込み18900円と決して安いものではありませんが、入力効率が悪いと、執筆意欲というか入力意欲が減退するので、無駄ではありませんでした。
 NHKで字幕入力のバイトをしていた知り合いが、最近のキーボードは軟弱でいかん、キーボードはバチバチ打てる感じでなければいかんと七年ほど前に言っていたのですが、非常によくわかりました。私自身の記憶でも、1980年代のパソコンやワープロのキーボードはこんな感じだった気がします。
 前のパソコン、ソニーのバイオのキーボードは、キーストロークが浅くて、いまひとつ気に入らなくて、買いかえを検討したのですが、我慢できないほどではなかったので、キーの表面がえぐれてぼこぼこになってしまうまで使いました。デルのパソコンにつなぎなおせるのならそれですませたのですが、デルだとキーボードもUSBでなければならず、バイオのはPS/2接続なのであきらめました。
 期間限定で1000円増しでKensington社製キーボードレストがつくのですが、発送が三月十七日以降とかなり遅いのと、私はキーボードをぐっとディスプレイに近づけて、その手前に出来た空間に資料をおいていることが多いので、キーボードレストは見送りました。あればあったで使いやすいものだったかもしれず、少々心残りです。
 唯一欠点というか、私に向かない点を述べます。Num Lock・Caps Lock・Scroll Lockの三つのキーには確認のための青色LEDランプがあるのですが、先に述べたとおり、私はキーボードを顔から遠い位置で使っているので、その青の光がかなり気になるのです。紙を貼って、光が視界に入らないようにしています。
 もっと探し回れば至高の一品が手にはいるのかも知れませんが、いまほどの使い勝手で私は大満足です。

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2006年3月 3日 (金)

余一の日

 落語は十日ごとに番組が組まれているので、三十一日が余一の日として、特別な興行が行われることが多い。
 ある月の何日までに仕事をやってくださいという依頼に対して、三十一日がある場合とない場合とで、かなり苦労が違う。余一の日は徳俵がごとく、もうひとふんばりできる時間を与える。
 閏年以外の二月は二十八日で終わりである。三十日終わりの月に比べて、たった二日しか違わないが、かなり早く終わるように感じられる。逃げる月二月と呼ばれるゆえんである。
 二月を三十日にして、三十一日ある月をふたつ三十日にすれば、まるく収まりそうなのだが、そうならないのには何か理由があるのだろう。
 朝三暮四ではないが、二月が終わる間際になると、二月にあと二日欲しくなる。その一方で余一の日があることで仕事が助かると、ひと月の日数が不揃いなのも許容してしまう。

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2006年3月 1日 (水)

あまりにマンガ的な

 事実は小説よりも奇なりというが、トリノ五輪でのフィギュアスケートは、マンガ以上にマンガらしかった。キャラがそろっているのである。

 これはマンガだなぁと思ったのは国内予選で中野友加里が台頭してきてからである。フィギュアスケートの状況を、安藤美姫を主人公にしたマンガと解釈するとおもしろい。
 2006年の全日本選手権までの「ここまでのあらすじ(Our Story Thus Far)」を書いてみると、

 スケートが好きな少女安藤美姫は、幼くして父親を交通事故で失う。その後、家族や周囲の人たちの助けもあって、安藤は才能を開花させ、日本そして世界のジュニア選手権で優勝する。女子の公式競技会で、史上初という四回転サルコウをきめた安藤にとって、トリノの道は確約されたものだった。
 しかし、マスコミへの露出が増え、プライバシーが犯されるようになると、安藤は調子を落としていく。精神的な不安をかかえたまま、安藤は全日本選手権を迎えるのだった。

ということになる。

 ここでの中野友加里の役割は主人公のライバルの小ボスなのである。『エースを狙え』だとか『ガラスの仮面』でもいいのだが、(スポーツ)マンガには「主人公よりも能力はやや劣る。しかし、気力が十分で主人公をおびやかす」というキャラがよく出てくる。中野友加里をみたときに、わぁマンガにいるなぁと思ったのである。

 実を言うと、フィギュアスケート選手の中では中野友加里を応援していた。得意技の高速ドーナツスピンは、私にもわかりやすい技だし、何より低い点がついたときの「えっ、何で」という表情がよい。これがマンガだったら、中野友加里は負けることになるのだけど、全日本選手権の直接対決に勝って、切符を手にすることを期待していた。もし出場すれば、不調だった安藤よりもよい成績を残したのではないかと思う。

 じゃあ、その他の選手はというと、荒川静香が大ボス(外国人選手がもっと強かったら中ボス)である。浦沢直樹の『YAWARA!』だったらテレシコワである。『HAPPY!』でもなんでもいいのだが、荒川静香は浦沢直樹マンガのボスキャラの雰囲気がある。一度苦難を乗り越えてきているというのも、キャラとして深みがある。子どもっぽい雰囲気の選手が多いフィギュアスケートの中では、クールな女王としてキャラが立っている。「トゥーランドット」を演技の曲に使っているのも、「氷の」といったイメージを増幅させる。本人のHPやインタビューを見聞きする限り、実際の荒川は、もっと柔らかみのある性格のようだが、マンガだったらそういった扱いである。

 村主章枝や恩田美栄に、マンガだったらどういった位置が待っているかというと、主人公の友人である。癒し系と、『とくダネ!』で分類されていた村主章枝は、『YAWARA!』ならジュディである。明るい年長者として、主人公を励ますのが役割である。実際のところ、安藤と村主に交友関係があるわけでなく、頂点を目指す競技選手なので、現実には単なるお人好しではないとは思うのだが、村主と荒川は仲がよくないらしいし(中つり情報だが)、マンガだったらそういう立場である。

 天才少女浅田真央は、通常のスポーツマンガの公式から、はみ出すキャラなのだが、安藤にとって「そのすがたは何もしらぬ、以前までの私」(異邦人)、というこのキャラが、松本大洋の『ピンポン』風に、作品世界に深みを与えることは間違いなく、こういったキャラの登場も、ある意味マンガだと感じる。

 (ここまでは、全日本選手権の直後に書いた文章に手を加えたもの)。

 さて、トリノ五輪には安藤・村主・荒川が出場し、安藤が十五位、村主が四位、荒川が金メダルとなった。

 安藤の十五位は、実力から言えば不本意なものだったろう。私としては、無難にまとめて入賞を目指すよりは、四回転ジャンプに挑戦して悔いの残らないようにやってよかったと思っている。

 さて、この安藤の成績をマンガ的にみると、なんと大正解なのである。『はじめの一歩』の幕之内一歩が簡単に世界チャンピオンになっては、話が簡単に終わりすぎて困るように、ここで安藤が金メダルをとってしまっては、マンガの連載が終わってしまう。安藤は一敗地にまみれて、今後もかくやといったほどがマンガとしてはちょうどよい。

 次は四位に終わった村主である。現実の村主に関して、素人の意見ながら四位でももっと点差は三位と小さい四位ではなかったのか、スルツカヤやコーエンよりも村主がよい点を取るはずがないという審査員の先入観があったとみるのはひが目か。

 村主は、マンガ的にはどの順番でもかまわない。けがで低い順に終わる。あとちょっとでメダルを逃す。ライバル荒川を押さえて見事金メダルをとる。どれでもよい。とはいえ、安藤が低い順位で終わるのがすでにマンガ的だとすると、現実の四位というのが、一番(悲)劇的でマンガらしい終わり方なのである。

 荒川だが、国内選考での大ボスなので、マンガ的には五輪でもよい成績を収めた方がよい。強いキャラが次の強いキャラに簡単にスイープされて、次のキャラの強さを際だたせる手法も有力だが(すでに浅田にはこのメにあっているのだが)、五輪はなにしろひっぱれないので、『はじめの一歩』の伊達のように、主人公よりも強いキャラとして、トリノではある程度の成績を収めたほうが読者にとってはよい。また、一度挫折しそこからはい上がってきた荒川は、日本代表のトップとして十分に絵になるキャラである。

 金でも他のメダルでもよかったのだが、荒川が金の場合は、ライバルキャラとしてスルツカヤやコーエンはバンクーバーには登場できず、その二人のうちどちらかあるいは両方が荒川を破れば、勝った者が次の五輪のライバルとして残ることになる。

 年齢のことがあるので、いずれにしても、荒川と村主がここで引退して「トリノ五輪篇」を終え、安藤に浅田に中野が中心となり、それにけがに泣かされている太田由希奈、未知の新選手などを加えたのが、「バンクーバー五輪篇」になる。

 トリノ五輪金メダルの荒川に二連勝している浅田がいるので、少なくとも安藤を主役にしたマンガでは、ライバルに困らない。

 誰の目にもわかるように安藤の弱さは精神力であり、そういった弱さを支える男性が出てきて、ロマンスが起こるのがマンガなのだが、そこらへんが現実にどうなるかどうか。安藤の受けた重圧は私には想像もつかないほど大変なものだろうが、まずはスヌーピーの出てくる『PEANUT』がいかにブラックなユーモアを含むか知るところから、精神面を鍛えていってはどうだろうか。

 今回のフィギュアスケートの持つドラマ性はかなりのもので、もしトリノ五輪を知らない人にフィギュアスケートの話をしたら、お話すぎると言われるのではないか。深田恭子を主人公にしてフィギュアスケートを題材にドラマが作られるようだが、なまはんかなものでは現実はこえられない。

 なにはともあれ、荒川静香の金メダルはとてもよかった。五輪になると「感動をありがとう」という文句が飛び交う(実はまったく好きな言葉ではない)。ふつうの五輪では努力して勝利を得た姿が感動の対象であるのに対し、荒川の金メダルは通常の感動に加えて、荒川の技術・演技が作り出す美が感動の対象になっている。

 全日本選手権前後から、週刊誌でのフィギュアスケートに関する記事は、読んでいてぞっとするような書き手の嫉妬や揶揄の含まれたものが増えたが、そういった記事を書いた人たちは、見識をあらためて欲しい。とはいえ、もう週刊誌は荒川の醜聞を集める(でっち上げる)のに必死のはずである。とはいえ、私のこの記事も、当の選手がみたら(特に中野選手とか)、なにいってんのよと怒りだすような内容なのではあるが。

補足:差別語特集の真っ最中でしたが、荒川が金メダルを取った翌日に、途中割り込みして、これを載せようかかなり迷いました。差別語特集はまだつづきますが、もう我慢できませんでした。

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