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2006年2月28日 (火)

差別語 その七(結)

 さて、私の立場を述べなくてはなるまい。近世文芸を扱っている以上、現代に比べて差別的な表現のある文章を何かの資料として使うことは避けられないと感じる。使用にあたっては、西尾秀和が批判しているような、「本書の文中で、今日の人権意識に照らして不適切と思われる語句・表現が見られますが、時代背景と作品の価値を鑑み、そのままとしました。当時の社会状況を充分にお考えいただき、ご賢読いただきますようお願いいたします」(西尾本70頁の用例)といった形式的なことわりにならないようにしたい。雑誌論文では、字数制限の問題もあって、そういった注釈をどのくらいつけられるか難しい面もあるが、西尾が適切と示した案のように、どの箇所が差別表現なのか、具体的な注釈を積極的につけるよう心がけたい。

 以前は、「めくら」や「びっこ」や「片手落ち」といった差別語をいったんすべてリセットして、「すべて差別語とみなさない。差別語とみなす人を処罰する」としてはどうかと思っていた。

 しかし、差別語について学習してわかったのだが、「浮浪者」のように以前はどうとしたことがなくても、差別語になってしまった言葉も多いのだが、もともと侮蔑の意がある言葉も少なくないのである。それを用いることが、蔑意を示す意図とつながりやすい言葉があるのである。「すべて差別語とみなさない。ただし、差別的な意図をもって使う人。差別的な意図をもって使われていない場合でも差別表現とみなす人を処罰する」と修正しなければならないのだが、こうなってくると今の規制と変わらない。

 難しいのは、何をもって差別的な意図として使われたかの判断である。結局、哲学の他我問題のように、差別と思うかどうかはそれぞれである。

 差別語については、西尾秀和のように主体的に判断しなければならないとは思うのだが、主体的な判断とは、主観的な判断であり、誰にでも使えるものではない。

 結果として、クレームがついたら、絶対使わないという、誰でもわかるデジタル式の基準がまかり通ることになる。

 私が育った長崎県というのは角岡伸彦『はじめての部落問題』(文春新書、2005・11)が紹介している部落解放研究所編『図説 今日の部落差別 第3版』(解放出版社、1997)所収の1993年総務庁調査によれば、被差別部落の数が三つしかない。これは全国最小である。ちなみに最多は福岡の606。今住んでいる埼玉は274。(もっとも、被差別部落であると政府に申告していなくても、実際にそう見られている、あるいはそうである場合が多いことは、角岡伸彦の本のとおり)。そういうこともあって、長崎のどこが被差別部落なのか知らなかったし(今でも知らない)、東京に来るまで「四つ」に侮辱的な用法があることすら知らなかった。そもそも長崎の学校教育は被爆問題教育が盛んで、被差別部落問題教育は割を食っている。

 「その六」で述べたように、差別問題の本は、今回読んだ本だけでなくて、関東に来てより、きっかけのあるたびに何冊か読んでいる。幸い、被差別部落問題は、日本の経済的な発展にともない厳しさがゆるんできているらしい。部落解放同盟も、良識路線をとって、むやみやたらに「糾弾」するわけではないようである。

 その一方で、差別語の問題は被差別部落に限らないわけで、世の中には「人権を守る」ために差別語を「生産」しているグループ・組織があることもわかった。「人権を守るために差別語を検討する」会を作れば、「いかがなものか」という言葉が増やす方向に行くのはあたりまえである。

 私の知り合いで親が地方都市で広告業をしている人がいた。その人の親の会社に、ときおり「人権を守る」団体の職員がきて、広告に難癖をつけてたかっていくさまを、具体的に教えてもらったことがある。

 また聞きのことになるので、ひょっとしたら、私の知り合いの作り話かもしれない。だが、末端のところで、今回読んだ本などには出てこない、きれい事でない問題がまだあるのではないかという気持ちがぬぐいされない。

 差別語をとりまく環境は江戸時代の警察体制に似ている。江戸時代の警察体制は、奉行所があって与力・同心がいるのだが、いかんせん人数がたりないので、岡っ引きをつかってすみずみまで網を張り巡らせることになる。江戸時代の岡っ引きというのは、正義の職務をする一方で、ときにはやくざまがいのことをして余得を稼ぐ者もいた。部落解放同盟を奉行所にたとえて、中央本部の人員が与力、支部が同心だとすれば、どうやら今も「岡っ引き」がいるようなのである。だから、解放出版社が新聞広告に「部落」の字の入った本を載せるのが、「その筋に禁じられていますので」などということになるのではないか。最近の解放同盟が柔軟路線であるのは間違いないが、差別語に過剰反応している出版関係者をいちがいに弱腰よばわりするのも早計であろう。

 差別語問題は知れば知るほど難しい。

 差別語を扱った本では全然ないのだが、橋本治『大江戸歌舞伎はこんなもの』(ちくま文庫、2006.1)に、

ルールに関しては必要最低限にとどめておく-そうじゃなかったら、ルールによってがんじがらめになります。がんじがらめを避けるようにして出来たルールは融通がきくんです。そうしておいて、今度はそのルールを守るんです。

という記述があった。この精神を差別語にも発揮すべきだろう。

補足:この回はつけたしつけたししながら書いたので、まとまりが悪いです。しかし、まずはこれでひとくぎりです。

 角岡伸彦『はじめての部落問題』は、原稿を書いている途中に見つけた本。「はじめて」というだけあって無難な内容です。文献紹介でもしてくれていれば、さらにありがたかったのですが。角岡伸彦『はじめての部落問題』が陽とすれば、一ノ宮美成・グループ・K21編集『同和利権の真相 (4)』(別冊宝島Real、2005.10)は陰の本。何か特定の悪者を決めて、全部それのせいにすることは、差別語については問題解決しないので、この手の本は見送っていました。しかし、きれいごとですまない問題について、知り合いから聞いた以上に知る必要があったのと、シリーズ第四作目にあたるこの本が、同和教育にまつわる内容を含んでいることがあって、買ってみました。内容は酸鼻なもので、同和問題について根が深いことがうかがえます。

 『同和利権の真相 (4)』を読んで思ったのは、「確認」「糾弾」とかの方式が、左翼(学生)運動のやり口によく似ているということ。1960年代にこの方式が主流となったのは、当時一世を風靡していた左翼運動をまねた面があるのでしょう。だから、それが差別をなくすのに本当に有効だったかはかなり疑問ではなかったかと。

 日本における差別の問題は、被差別部落の問題を中心になされています。差別語や差別の問題は、それに限らないにもかかわらず、有効に議論されていません。このことについては、ハリー・ポッターの”Half-Blood Prince”に関する記事でまた述べます。むしろ、そっちの方がまとまりのある意見が書けたかもしれません。

 ルールについての基本的態度を示して終わりましたが、実はこれこれが差別語で出版・放送に使うべからずという法律があるわけではありません。すべて自主規制なのです。そもそも本当のルールがないのです。「人権擁護法案」とやらにいいことが書いていないかと思ったのですが、残念ながら私の期待したようなものとはほど遠い内容でした。

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