« ドルアーガの塔は | トップページ | 段落分けの現在 »

2006年1月17日 (火)

主張の書き方

 市の広報誌に隣室の中学生が、市の弁論大会で入賞したことが記されていた。そこで今日は「主張」の書き方について述べる。
 高校の非常勤講師をしていたときに、夏休みの宿題に作文を課した。前年度の現代国語の担当者がベテランの先生だったこともあり、前任者のやったことを踏襲すれば安心と、書かせた作文をなにかのコンテストに応募するところまでそっくり真似たのだった。
 ちょうど授業で山崎正和の「水の東西」という評論文(教科書は評論文としているが、今の感覚だと随筆に近い)を扱ったこともあり、「水のエッセイコンテスト」に四百字詰め五枚で提出することを生徒には告げていた。
 内容は「『水』に関する題で自由に書いてください」と非常に緩いものだった。模範になるよう、私もひとつ書いてみるつもりだった。リストの「エステ荘の噴水」と三味線の「水調子」ならびに竹婦人作の河東節「傾城水調子」(今は弾く曲ではないが)を比較して、欧州と日本とで水を音で表現する際にどのような違いがあるかを論じるつもりだった。
 用意はしていたのだが、生徒たちが書いてきた作文をみてアッと思った。私が書こうとしていた文章ではダメで、生徒が書いてきた文章が「主張」向きなのである。
 コンテストの応募用紙には「水が私たちにもたらす恵みの大きさ、水の大切さを考えていただくことにより」うんぬんの文言が小さいながらも延々と書き連ねてあった。要するに水資源を大切にしましょうという主張を含んでいることが必要だったのである。。
 生徒の作文はすべて目を通したのだが、その良し悪しを見ている内に、書き方のコツがわかってきた。
 大きな主張として「水資源を大切にしましょう」というのは絶対あるのだが、その大きな主張をそのまま書いてもダメである。
 個人の体験があって、その結果大きな主張が身に沁みてわかったという書き方にしなければならない。たとえば、海外に行って、日本と比べて水が自由に使えず不便だったという経験をすれば、それが大きな主張と結びつけられる。個人的な体験と大きな主張との結びつけ方が目を引くものでかつ自然であればあるほど、「主張」の文章はよいのである。
 こうなると、変わった体験をした人が得というのは確かにあって、私の高校時代のように夏休みになればうちで寝ころんで本ばかり読んでいた生徒には勝ち目はない。大学の入試に作文が導入されることの不具合として、変わった体験ができる(だけの資力のある)者が有利になるという意見を目にしたことがあるが、よく実感できた。もっとも、資力がある者が受験に有利なのはあらゆる面であてはまるので、一概に作文入試だけを批判はできない。
 読んだ作文は誤字脱字があっても、手直しもさせずにそのまま段ボールに詰めて送った。これにはおおいに後悔している。
 ほとんどの作文が目を覆いたくなるような駄文だったが、何人かはなかなか良いことを書いていて、大きく手直しすれば、入賞もねらえると感じた。その者たちに、入賞をもっとねらってみる気はないか聞いて、意欲のある生徒の文章に指導を加えて書き直させればよかったのである。
 そして、他の生徒たちの作文は、半年かけてでもちゃんと朱筆をいれて、しっかり指導して返してやればタメになったはずである。せっかく、長い文章を書く経験をしたのに書きっぱなしでは、文章力の向上はのぞめない。
 作文を提出して一ヶ月後ぐらいにそれに気づいて、今からでもいいから、原稿を返して欲しいと思ったが後の祭りである。私が勤務していたのが公立高校ということもあって、生徒の差別化をしにくいため、横並びのなにもしない指導ですませてしまったのだが、教育とはすべからくみずからの熟慮のうえで行動すべきであると痛感した。

|

« ドルアーガの塔は | トップページ | 段落分けの現在 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/103175/8198218

この記事へのトラックバック一覧です: 主張の書き方:

« ドルアーガの塔は | トップページ | 段落分けの現在 »