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2005年12月31日 (土)

本の装丁

 私の大先生(師匠の師匠)よりご本を頂戴した。ある広報誌に連載していた随筆を集めた本だった。普通なら、お手紙でお礼を申し上げるところなのだが、たまたま電話する必要があって、電話でお礼を述べた。電話をかける前に、妻がその本を見た。妻は一年のうち、新聞一回分の活字も読まないのだが、本を見て、綺麗な本ねと言った。電話で、内容はまだこれから読むとして、本の装丁が綺麗だと伝えると、装丁には大変凝ったのだと、喜ばれた。
 本の大きさは四六判で、カバーは光沢のある白と光沢のある臙脂色が使われ、大先生が知り合いの先生から借りだした俳書の絵があしらわれていた。カバーを外すと臙脂と白の二色刷で、カバーとはまた絵柄が異なる。見返しは鶯色で、本文をかこむ罫線も同じ色だった。はなぎれも似た色を使っている。全部で百六十七頁なのだが、大先生知り合いの画家の絵が五葉ところどころに挟まっている。
 一頁につき、四百字で、さらに俳句が一句附けられている。古典籍をひきつつ、現代風俗を評しているのだが、語り口がなめらかで読みやすい。
 百聞は一見にしかずと、本をデジタルカメラで写して、ブログに貼りつければよいのだが、私が何者か大手を振って明かせる日までいましばらくご辛抱いただきたい(くるとは全く保証できないが)。
 なお、その本は、近頃経営危機の噂が流れたある零細出版社から出された非売品である。
 私のブログのデザインを見てもらえばすぐに理解できるだろうが(このころは灰色の「モノトーン」を使っていた)、私は本の装丁にほとんど関心がない。
 しかし、いただいた本をじっと眺めていると、あることに気がついた。非売品のためISBNコードやバーコードがないのだが、それが装丁の美しさの一因となっている。ISBNコードやバーコードは世の装丁家たちを悩ませ、苦しめているのは間違いあるまい。
 ISBNコードやバーコードが本の流通に役に立っていることは明白なので、ない方がよいとは、私は言わない

 ISBNコードやバーコードのない本は、昔の本を探せばあるが、新刊でそういった美しさを味わいたいのなら、谷沢永一『自作自注最終版 紙つぶて』(文藝春秋、平成17・12)を推す。ISBNコードやバーコードは、本文だけで九百四十一頁の大著をつつむボール紙のみにあり、本自体にはISBNコードやバーコードは一切ない。白と黒のみのカバーだが、気の利いたレイアウトになっている。カバーはクリーム色だが、本体の表紙は白である。凹凸のある紙を使っているところは共通している。本体はカバーと違って、谷沢美智子の筆で薄田泣菫の詩が引用されている。
 なお、私は、谷沢永一の本を数冊読んでいるが、『紙つぶて』は初めてである。私がブログに書いた内容と似たものもある。同想なのは誇って良いのかもしれないが、筆致が歴然と異なる。これについては、記事をあらためて、いずれ解説したい。

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2005年12月30日 (金)

尊敬していると

 野村克也『野村ノート』(2005.9。小学館)には、いちいち誰が年賀状をくれる、誰がくれないといったことまで述べてある。これを野村克也の細かさと笑うのは簡単だが、教え子が自分にどのように接するかというのは、教師の、人を教える立場にあるものの自然な関心事である。
 不思議なのは、野村克也の愛弟子であった古田敦也が野村に年賀状一つよこさないということである。いくら忙しいとはいえ、古田にとって野村は大恩人のはずである。年賀状をよこさないのは、古田が筆無精で、誰にも年賀状を送っていないということなのだろうか。古田の妻は中井美穂だが、元フジテレビのアナウンサーが、そういった状況を見すごしているのだろうか。
 これについて、古田はあえて野村に年賀状一つ送らないのだと考えている。
 尊敬している相手は超えられない、というのが学問の世界の真理である。先人の業績を崇拝し、心酔しきっては、それを超える業績は残せない。表面的には尊敬していても、なあに、そんなもの、と心の底で思っていなければ、先人の手の平から抜け出せない。先人を乗りこえる気概のあるものは、先人を盲目的に尊敬しない。
 古田の場合も、監督であった野村を超えるのだという気持ちがあっての態度ではないか。
 もし今後、古田が野村に年賀状を送るようになったとすれば、それは古田自身が野村を超えたと感じたときであろう。

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2005年12月29日 (木)

子どもの本と飛行機

 十一月の旅行では、行きも帰りも日本航空を利用する必要があったにもかかわらず、息子は「ANAブーン」に乗るといい手こずらされた。バスでタラップ車まで移動する必要がなかったこともあって、JALの飛行機なのに、いまANAブーンに乗っているよと嘘をついてごまかした。息子が「いまANAブーンに乗っているよね」と何度もくりかえし、ああそうだよと相づちを打っていたので、かなり親切にしてくれた客室乗務員さんたちには悪いことをした。
 絵本や図鑑に出てくる飛行機は日本航空よりも全日空の方が多い気がする。うちにある本ではそうである。ポケモンジェットがあるように、全日空は子どもをひきつける作戦をとってるのだろうか。
 日本航空も負けずになにか考えて欲しい。
 なお、独身の頃、飛行機最後尾付近に乗った際に、そこに集められた泣き叫ぶ子どもたちに閉口した。大垣夜行で、寝ない子どもに苦しめられたこともあるが、「NO CHILD SEAT」があればいいのにと思っていた。因果は巡る糸車。いまは周りの人たちにただただ済まなく思うばかりである。

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2005年12月28日 (水)

問題意識

 問題とは問題意識のある人が見ないと理解できない。なぜそれを扱うのか、なぜそういった手法で解明しようとするのか、問題意識が共有されていなければ、他人の論文を読んでも響いてこない。
 滅多にないことだが、他人がなぜそういった手法で、問題を解決しようとしたのか大変よく理解できることがある。見ぬ世の人が友となる瞬間である(生きている人の場合が多いですが)。
 老齢の研究者は、その博識には文句のつけようがなく、その道に一家をなしていることが多い。その一方で、その枠組みからはみ出てしまう新たな研究を本当の意味で理解し、おのれの学問を再構築するのは、もう難しいと感じる。
 ある大学者が古稀の祝いの壇上で「私は第一線を離れつつある。たとえば、誰々君の書く論文は私にはもう理解できない」と述べたそうだ。これは嫌味では決してなく、自分の不明を吐露した言葉である。
 こういったことを言える人間がいる一方で、かなりお年を召していらっしゃるにもかかわらず、投稿論文の査読を引き受けたりする方には、お達者で何よりとすらいいづらい。

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2005年12月27日 (火)

西野朗の名誉回復

はじめに:補記にも記したように、この文章は「週刊アカシックレコードのような陰謀説を書いてみたいと思ってものした戯文」です。妄想を書いてみたいと思ったので、書きました。おしまいまで読めばはっきりと戯文とわかると思いますが、なんてでたらめなことを、と途中で怒りだす人がいるかもしれないので、冒頭に書いておくことにしました。(2008.07.13)

 2005年度のJリーグは、最終節にガンバ大阪が優勝を決めた。前に書いたように、私はジェフ市原千葉を応援しているが、ガンバ大阪の優勝には惜しみなく賞賛を送りたい。2000年度前期のシーズンで、セレッソ大阪が延長で敗れ、横浜Fマリノスの優勝が決まるのを、マリノスの試合が終った後の、国立競技場オーロラビジョンで見たことがある。今回最終節はは、テレビでセレッソ大阪の試合を観戦していたが、サッカーとは本当に下駄を履くまでわからない(古めかしい表現だが興行だしこれを使いたい)。

 さて、ガンバ大阪の西野朗監督は、これで憑きものがおちただろうか。憑きものとは、もう十年ほど前になる1996年のアトランタオリンピックを取材した金子達仁『28年目のハーフタイム』(文藝春秋、1997・9)によって着せられた汚名である。

 この本によって、アトランタオリンピックでブラジルから金星をあげ、予選リーグ突破寸前までの戦果を上げた名将という栄誉は失われ、ブラジル戦の前に大敗の悪夢をみる小心な人間、また才能溢れる若い選手たちを統率できない凡将であることが、あまねく宣伝されたのである。

 では、西野朗の実力はその後どう発揮されたかというと、柏レイソルの監督時(1998~2001)には、1999年、同クラブにナビスコカップをもたらした。2000年には年間最多勝ち点をあげ、総合3位となり、Jリーグ最優秀監督賞を受賞している。

 2001年の途中で解任されるが、2002年より監督を引き受けたガンバ大阪では2002・2004年に年間3位の成績を上げ、そして2005年に年間優勝を果たした。

 以上のように西野朗は決して無能な監督ではなかったが、『28年目のハーフタイム』が中田との不和を報じてしまったため、中田が代表を引退するまで、代表監督にはなれないといわれている。

 西野朗は善人で、どこの馬の骨とも知らないスポーツライターに、聞かれるがままを答えて、相手に都合よく利用されてしまった。のちに電波ライターの名を馳せる金子達仁にとって、西野朗の指導や采配によって勝ったということには絶対にさせない記事を書くことが目的であったにもかかわらず。

 日本の映像市場へ海外サッカーの試合番組(今ならコンテンツとかいうんでしょうが)を売り込む先兵の役割を、電波ライターたちは果たしていたからである(以前書いたが、電波ライターにはちゃんと電波の送り元があり、おかしな発言をするのは頭の問題ではない)。海外サッカーの番組が日本で放送され、日本の雑誌などで海外サッカーへの関心が高まることは、自らの仕事を増やすためにまず有益である。それ以外に、番組放送をもくろむ広告会社などが蔭で糸を引いていたのではないかと推測している。

 海外のサッカー番組が日本でもてはやされる為には、海外のリーグで、日本人選手の活躍が是非とも必要であった。中田たち以前に、カズがジェノアでセリエAに挑戦している。これについて、ヒモつき(資金つき)と金子達仁が批判しているのは、資金を出したのがフジテレビであり、海外サッカー番組を日本に売り込もうとしている会社とは別物だったためだろう。

 「実力」で移籍した日本人サッカー選手の存在が、番組を売り込むためには、不可欠であり、金子達仁ら電波ライターにとって、有望なオリンピック代表選手にとりいり、海外志向を植えつけることは重要な使命であった。

 なお、中田英寿は、カズとは違って、直接の資金援助なしで、セリエAのペルージャに移籍したと言われるが、実際のところはわからない。私は、直接の資金援助はなかったと思っているが、日本でレプリカユニホームを売る算段をペルージャがしていたことを考えると、ジャパンマネーの影響が皆無だったとはいえまい。

 中田英寿はかなりのマスコミ嫌いで知られる。日本のマスコミの低水準にあきれているからと思われているが、中田は決して高水準とも思えないイタリア現地のマスコミにはこころよく取材に応じている。セリエAを放送するチャンネルを持っているマスコミ(日本では新聞・雑誌とテレビの関係が密である)以外は、セリエAに視聴者が関心を持つことは好ましくない。結果として、それら日本のマスコミにとって、中田の取材の目的は、短期的にはその場の視聴率、長期的には中田をおとしめることにある。中田は、英明なのでそれに気がついたのかみしれないが、電波ライターたちが中田にそれをほのめかし、取材源として囲い込もうとしたのが正解ではないか。

 電波ライターの主な活躍の場であった「NUMBER」誌(文藝春秋)は、スカパー!のような衛星放送との事実上の提携誌に早くよりなっている。プロ野球ではわずかに阪神が特集されるだけだが、これも関西以外の阪神ファンは衛星放送を利用しないと阪神戦をすべては見られないためである。今後、巨人が独走態勢になる年があったとしても、巨人を特集する可能性はきわめて低いと思われる。

 閑話休題。金子達仁にとって、幸運だったのは中田英寿が、日本サッカー史上屈指の才能を持ち、環境の異なる異国の地で目覚ましい活躍を果たしたことだろう。金子達仁は、しだいに現場での取材を怠り、有名選手との関係をメシの種にする「おともだち」ライターに堕していったとはよくいわれる批判である。だが、金子達仁は苦労して、自分の駄文を売る市場を開拓したのである。栄華の夢にひたって、駄文でお金を稼いでも、それは年金をもらうようなもので、批判するのは酷であろう。

 金子達仁にとって、大事だったのは、海外賛美と日本批判であり、西野朗の次は、加茂周へと批判の矛先をむけた。金子にとって、さらに幸運なことに加茂周は優秀な監督でなかったために、批判が正鵠を得たのであるが、金子の立場上日本人なら誰でも批判したはずである。

 結局、金子はサッカーそのものへの尊敬の念を失い、日本サッカーへの自虐的な発言を何も考えずに行う習慣を身につけたため、2002年ワールドカップの日本初戦の試合を、不用意にポルノに喩えて、すでに減りつつあった声望を一気に失う。なお、金子ら「電波ライター」を多数起用した「NUMBER」は、ワールドカップ特集では「SPORTS Yeah!」(角川書店・サンケイスポーツ)に大きく市場を奪われる。電波ライターは海外サッカー番組を売り込むことが至上の使命であり、「海外リーグ>ワールドカップ」の評価なので、よい記事が書けるわけがないのである。

 山本昌邦は、2002年ワールドカップで日本代表コーチを務めたあとは、暴露本『山本昌邦備忘録』(講談社、2002・12)を出して、トルシエの名誉を奪い、手柄をおのれに帰した。監督をしたアテネオリンピックは、不十分な成績であったにもかかわらず(あるいは、あったため)、『山本昌邦指南録』(講談社、2005・1)で、自分の指導力を誇示している。

 これについて、西野朗が悲惨な目にあったため、日本サッカー協会が率先して手を講じたのか、山本昌邦が小心な策士なためかはわからないが、誰が書くにせよ、「ノンフィックション」で書かれたことを鵜呑みにしてはならないという教訓だと私は受けとめている。

 2006年ワールドカップのジーコ監督の後釜に、アーセナルのベンゲル監督の名が上がっているが、虚報だと推測している。協会としては、このあたりで日本人監督を登用したいのではないか。だとしたら、山本昌邦よりも西野朗が適任だと考えている。

補記:「週刊アカシックレコード」のような陰謀説を書いてみたいと思ってものした戯文です。次の代表監督ですが、イビチャ・オシムがジェフの監督を来年は引き受けないのなら(引き受けて欲しいのですが)、年齢が厳しいことは十分承知の上で、やって欲しいと思っています。

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2005年12月26日 (月)

乗り過ごしの記録

 三遊亭円之助『はなしか稼業』(平凡社、平成5・1。現在は平凡社ライブラリー)に、山手線で鶯谷から新宿に行くのに、酔っていたがため、なぜか上越線で新前橋まで行ってしまったことを記している。
 私が知る乗り過ごしの記録は、剣道の後輩Eが、お茶の水から中央線で武蔵小金井に行くつもりが、泥酔していたために、東北本線の小金井駅に行ってしまったというものである。
 私自身の記録は、新宿から京王線をのりついで、井の頭線久我山に帰るつもりが、京王線高幡不動まで行ってしまったものである。ちょうど、大学二年生の十二月のクリスマスの一週間ほど前だったが、剣道の知り合いの女の子が翌年短大を卒業して田舎に帰るというのにお芝居を観たことがないというので、新宿でやっている芝居の夜公演(ソワレですな)に連れて行った。
 そのころ、私は恋人がいなかったが、まったく下心はなかった。
 終演後、そこらのチェーン店居酒屋で飲んだのだが、勘定の際に、私にだけついていると思った飲み放題が、まったく下戸の女の子にもついていることがわかった。飲み放題の終わりがあと何分か聞いたところ、五分ちょっとあるとわかったので、元をとるために、短時間で三四杯飲んで、ザマアミロと気焔をあげた。
 女の子が小田急線利用だったので、気をつけて帰んなよと、新宿駅で別れたところは記憶があるが、気がつくとまったく知らないところを歩いている。切符はまだポケットにあるが、どうやって改札を出たのかも定かではない。ぶらぶら歩いていると、ドーンと五重塔があって驚き、うろうろしながら駅まで戻ると、高幡不動駅とある。初めて知る地名だった。
 野宿にはもう寒く、泊まるには財布に二三千円しかない。それに泊まるところすら、なさそうである。
 しょうがないので、駅前のおでん屋台で寒さをしのぐことにした。
 おでん屋台には、若い女性二人連れがいて、最初は賑やかだったのだが、その当時は珍しい携帯電話で、彼氏を呼出し、RV車で去ってしまうと、私と屋台の親父だけになって、とたんにさびしくなった。それでも酔いに任せて、景気よく話していたのだが、酔いが醒めるにつれて、情けないやら寒いやらで、しまいには黙り込んでしまった。
 その当時は井の頭線の定期券を持っていたので、始発が出る前に、ふたたび駅にもぐり込むことにした。親父は別れ際に、ゆで卵を四五個くれた。無事、駅に潜入し、まだ暗いなか始発に乗ったが、一度は新宿まで寝過ごして、それからようよう帰りついた。

 乗り過ごしの記録とは違うが、山手線三周の記録がある。
 私がかつていた劇団が恵比須で芝居をしたのだが、人手が足りないそうでバラシに来るよう頼まれた。劇団を逃げるようにやめた経緯もあって、行きたくはなかったが、芝居を観させてもらうのを代償に(もちろん代償にはならないのだが)、それを手伝うことになった。
 ちょうどTという芝居の知り合いが同じ条件で来ていたが、彼はなんと別れた彼女がその芝居に出ていることに、芝居を観て初めて気がついた。Tも私もバラシは手伝ったものの、バラシが終ると午前二時をまわっていた。その劇団の人々は集まって打ち上げをするようだったが、私もTもそれに行く気はしなかったので、二人で朝まで飲むことにした。
 入ったチェーン居酒屋には宗教セミナーの若者らしき五六人の団体がいただけだった。私とTは、その団体の紅一点ながらブサイクな女の子が、これまたブサイクな男の子たちに囲まれて、得意げになって、気持ちの悪いシナを作っているのを見ながら、よもやま話をした。
 私は池袋に、Tは巣鴨に住んでいたこともあって、ともに早朝の山手線に乗ったが、すぐに寝てしまった。気がつくと、品川である。方向を間違えたのではない。一周したのである。Tも私の横で眠りこけている。
 ふたたび気がつくと、新橋である。Tもまだ寝ている。
 つぎに気がついたのは、恵比須だがTはいないし、いつの間にか通勤客で山手線は一杯になっている。にもかかわらず、うらみがましい目をした通勤客を前にだらしなく寝つづけ、今度は帰ることができた。その後、Tとは会っていない。
 なお、『はなしか稼業』は講談の大御所小金井芦州が西尾麟慶といっていたころに、上野から赤羽の自宅に帰るつもりが、山形まで行ってしまった話を紹介している。
 

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2005年12月25日 (日)

ぐ~チョコランタンの作劇法

 子守をしていることもあって、NHK教育「おかあさんといっしょ」の着ぐるみ人形劇「ぐ~チョコランタン」 をよく観る。私(いま満32歳)にとっての「おかあさんといっしょ」の人形劇は、「ぶんぶんたいむ」や「にこにこぷん」である。
 記憶が定かでないので、ひょっとしたら的はずれかもしれないが、「ぶんぶんたいむ」や「にこにこぷん」と「ぐ~チョコランタン」を比べると話のつくり方に大きな違いを感じる。
 昔の人形劇は「ぶ~ふ~う~」のオオカミや「にこにこぷん」のじゃじゃ丸のように、やんちゃな悪玉が入っているのが普通だった。良い子と悪い子がいて、悪い子が無茶をして騒動を起こすのが基本的な話である。良い子と悪い子のかけあいで進んでいく。古い形の漫才に近かった。
 「ぐ~チョコランタン」では、ジャコビは、発明好きの男の子なのだが、道徳から逸脱するような無茶はしないのである。
 毎回の話は、妖怪や宇宙人が出てきたり、ジャコビの発明品で騒動がおこるなどして進んでいく。だれかが引っ越ししなければならなくなるとか妹が姉に優しくしようとするとか、メインキャラクター同士の掛け合いによって進んでいくこともあるが、何か異分子を入れて話を作る回が圧倒的に多い。端的に言えば、ドラえもん化している。
 そんなわけなので、メインキャラクターのズズと、脇役の「伝説の勇者」ガタラットが同時に出る場面では、ガタラットが強い印象を残してしまい、ズズの影が薄い。いくら高齢化社会でも、ガタラットがしゃしゃり出てはおかしい。
 九州弁をしゃべるジャコビが悪玉になってしまうといろいろと問題があるのかもしれないが、ここはジャコビの性格づけをやんちゃにして、あくまでメインキャラクター同士のやりとりだけで話を作るべきである。
 「ドレミファどーなっつ」を観ていないので、この路線変更がいつ行われたのか興味がある。

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2005年12月24日 (土)

分類下手

 私は整理整頓が下手である。このブログの分類も下手である。他人様のブログを拝見すると、多くても五つほどの分野が設けられるぐらいである。私のように十九も分野があるのは、異常である。世間の人に比べて、このブログはよほど無目的に書き散らされた証しだろう。

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2005年12月23日 (金)

教室の講師は

 M.マクルーハン、E.カーペンター『マクルーハン理論 -電子メディアの可能性-』(平凡社ライブラリー、大前正臣・後藤和彦訳、平成15・3)に興味深い文章があった。

理想的なテレビ講師は、自分のポイントを述べてから、さまざまな例によって、その異なった面を示す。しかし教室の講師はそれほど緻密ではなく、成績の優秀な学生がいやがるほどくりかえしが多い。最終的にはわからない学生が一人もいないように望んでか、教師がただ退屈なためか、似た点を繰り返す。(E.カーペンター「新しい言語」、180頁)

 この教室の講師はずばり私の姿である。家庭教師や一対一の対面授業の場合ですら、一度話したからといって、生徒がそれを記憶しているという可能性はほとんどない。それに気づいているので、うるさいほど、要点を繰り返し指摘している。繰り返しが多いと成績が優秀な生徒がいやがる(経験上女の子が多い)というのは正鵠を得ていて、そういった反応を何度も目にした。かといって、一度しか言わないわけにはいかない。
 それはさておき、引用箇所の前後を読むと、E.カーペンターはテレビメディアによる教育が、教室での教育よりもよりよいものになる可能性が高いとみなしていると判断できるが、私にとってそれは贔屓の引き倒しとしか思えない。CMをはさんでどのように展開しているか、テロップがどのようにつかわれているかを思い起こせば、今のテレビが「教室の講師」と化していることは瞭然である。
 

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2005年12月22日 (木)

八対二の法則

 八対二の法則というものがある。十人いる会社があったとして、そこの売り上げの八割は二割の人間が稼いでいるというものである。
 私は一人で仕事をしているので、そっくりそのままその法則はあてはまらないが、その適応を感じるときがある。
 私の仕事量の八割は、私の全仕事時間の内の二割が生み出しているのである。せっかく時間があっても、なかなか波に乗れず、無為に時間を過ごすことが多い。せっぱつまってやってなんとかなることが多い。
 成し遂げることができた時間の集中力がいつまでも持続できれば、かなりの仕事を成し遂げられるはずである。それは重々承知で、気合いを入れてやっているのだが、ほとんど仕事にならなかった時間というのは一向に減らない。
 法則だから仕方がないとは思わない。八割の時間は無駄ではなく、無意識下で仕事を進めているのだとも思わない。単純に私は頭が悪いのである。少ない時間できっちり成果を上げていく人たちを見るとそう思う。

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2005年12月21日 (水)

わが床屋遍歴

 今のところに引っ越して二年半になるが、床屋はずっと同じところを利用していた。マスターと徒弟二人で運営されているのだが、マスターは地元の人で、区画整理で交換した土地にビルを建て、貸しビルと床屋をやっている。そんなにあくせくしなくてよいのか、いつも気楽にやっていた。
 最近、マスターが再婚したのがよくないのか、マスターの姿を見ることがさっぱりなくなった。どうやら、パチンコかゴルフで日々を送っているらしい。
 マスターの腕は確かだが、徒弟の方はやや腕が落ちる。ここ半年ほど、マスターに切ってもらったことはない。
 その床屋は、ちゃっちゃと切ってくれるところがよくて、一回切ると四十五分ほどで終った。ところが、弟子だけの状態が長く続くと、規律が緩んでくるのか、私の髪の切り方も手抜きが目立ってくるようになった。
 その床屋に見切りをつけようか、かなり迷っていたのだが、前回とうとう弟子に三十分で、デタラメに髪を切られて、もうやめにすることにした。
 次回より、ものすごく安い床屋に行くつもりである。

 そもそも、東京に出てきて、自分の意志で床屋を探さねばならなくなった。東京の床屋の感想は、高いの一言に尽きた。久我山の橋のたもとにある床屋を使っていたが、たいしたことはしない割りに、四千円を超えていたと思う。私の髪型といえば、剣道をしていたこともあって、長い間スポーツ刈りだった。大学でもそうである。
 一度、教養学部の研究棟の一角にある床屋に行ったことがある。壁にかかっている「レイザー」など三点のメニューに疑問をもち、どんな髪型か質問したところ、「かかっているメニューはすべてお客さんよりずっと長い髪の人の髪型です」とぶっきらぼうに言われた。長い髪の大学生用のメニューが多いことに時代を感じた。その床屋はその後三年ほどして、研究棟の取り壊しとともになくなった。
 池袋に移ってからは、大塚近辺の安い床屋に乗り換え、豊島区立中央図書館に行くついでに切っていた。刑務所(今はないが)に近いところの床屋は、出所者を使っているので安いというのは、都市伝説だと思うが、なぜかそのあたりの床屋は安かった。
 お金と時間がなくなったころに、劇団の女の子に切らせたこともある。もちろん、左右非対称になってひどいものだったが、芝居にかかわっていたころは、いつも帽子を被って過ごしていたので平気だった。
 綾瀬に移ると、大塚には行けなくなったので、国会図書館にある床屋をよく使っていた。市場原理が働かない位置にある床屋なので、ハサミの切れ味や、腕前はそんなによくなかったが、調べ物のついで、あるいは時間つぶしに、髪を切ることが出来て便利だった。
 その後、金欠もあって、神田の日本古書会館のすぐ近くにある二千円程度の床屋で切ることが半年続いた。ここは、人の腕前にかなりばらつきがあり、とても我慢ならない人にあたって二度と行かなくなった。
 かわりに、綾瀬の住居のすぐちかくにある、おばさんひとりがやっているなんでもない床屋に通った。おばさんの亭主は、文字通り髪結いの亭主のようなもので、床屋の二階に旅行代理店を一人で営んでいたが、おばさんが床屋客を説得して、団体旅行をとらせていたりして、おばさんの力が大きいようだった。
 おばさんはデタラメに切られた私の髪型にとても同情してくれたらしく、部分パーマをあてるなどして、奇麗になおしてくれた。女一人でやっているので、ハサミなどはよく研いでいないようだったが、仕事が丁寧で私は大変満足していた。
 四年ほど前に埼玉のある地方都市に引っ越してくると、あまり考えずに、最寄りの床屋に通うことにした。ここの床屋は、あまり腕が良くなかった。いつも切られた後にぼやいていたのだが、そこにいる間は同じ床屋に通い続けた。ここの床屋の特徴は、店主がハゲていたことである。ハゲを隠すため、海賊のように頭を手拭いで巻いていた。店内にはロゲインなどの育毛剤の宣伝がいくつも掲げられていたが、どうやらその効果は薄いようだった。
 「オレの親父の遺言だ。ハゲの床屋は信用するな」という台詞がある映画を観たことがある。ダイハードだったような気もするが、はっきりしない。その次が最初に述べた床屋である。
 友人に、都内のどこに引っ越しても、幼少の頃から三十年近くずっと同じ床屋に通っているのがいる。そいつの髪型は大したことはなく、どこで切ってもらっても変わらないと思うのだが、同じ床屋に通いたい気持ちはよくわかる。

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2005年12月19日 (月)

BGM

 なにか作業をしているときにBGM(バックグラウンドミュージック)があるのとないのとどちらがよいかというと、なにも音がしない方が集中できる。きわめて創造的な作業、たとえばアイデア出しのときには、音楽はかけない。
 しかし、原稿書きにうつると、音楽をかけるようになる。集中力がおちるのはたしかだが、かけておかないと、筆が止まったときにほかのことに関心がいってしまう。音楽をかけることで、最上ではないがある程度の集中力が一定時間保たれる。
 原稿書きでも、ブログのように、簡単に書きあげられる場合には、BGMはいらない。
 私にとって、BGMとして最適なのはピアノ曲である。誰でもいいのだが、モーツァルトをよく聴いている。それ以外では、坂本龍一の曲が多いだろうか。
 交響曲は音が豊かだが、かえって集中力を妨げるので、BGMとしては不向きである。昔はいろいろ聴いていたが、最近ではMP3化したチャイコフスキーだけになっている。
 歌詞があると、それに聴き入ってしまうのでよくないのだが、ある回数を過ぎると気にならなくなってくる。そういうわけで鬼束ちひろや椎名林檎をBGMとしてよく聴く。椎名林檎は、頭は大して使わないがやらなくてはいけない仕事を眠いときにむかえた場合に聴く。何十回も聴いているはずだが、歌詞は耳を素通りしているので、「丸の内サディスティック」の話が出たときに、歌詞がまったく出てこなかった。
 昔のCDはまだ持っているのだが、聴くとそのころの心情・状態まで思い出されてしまうので、今となっては聴く気がしない曲がある。聴きすぎてきけなくなってしまった曲である。
 

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2005年12月18日 (日)

欲しいオーディオ機器

 欲しいオーディオ機器は、途中再生できるCD再生機である。
 日頃、CDは、パソコンに取り込んだMPファイルを含めて、パソコンから再生しているので、曲の途中から再生することが可能である。
 ところが、普通のCD再生機だと、曲の途中から再生できない。なぜパソコンにできて、CD再生機にできないのか、理屈はよくわからない。
 しかし、これは私にとって大変不便である。
 私は落語のCDを聴きながら寝るのだが、幾晩かたつと、マクラのあたりは何度も聞いているのに、オチは一度として聴いていないという事態が生じる。聴いたところまでは飛ばしたいのに、一曲でCDに焼かれているとそれはできない。
 
 もうひとつは、パソコンなしでHDDがジュークボックスのように音楽をためてくれるコンポである。それから、携帯音楽再生機にデータを移せるなら、欲しいと思っていた。
 最近になって、パナソニックからD-DockというHDDとSDカードで運用する、ミニコンポが出たことがわかった。
 http://d-dock.jp/
 世の中には同じことを考える人がいるもので、よかった。
 とはいえ、金欠はもとより、買ってもうちにおくところもなく、いま音楽はすべてヘッドホンで聴いているようなありさまなので、購入は見送りである。とても残念。

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2005年12月17日 (土)

私の剣道人生

 私は剣道三段を持っている。このブログの存在を、剣道の友人に教えたところ、剣道の話題がないが感想だった。
 剣道三段といっても、高校三年生までに三段をとって、大学以降はすっぱりとやめています、というわけではない。むしろ、中学でやめているので、大学入学時は初段である。それから年をかさねて、二十三歳になって、東京都で三段をとった。
 運動能力は若い頃より落ちているが、技量があがっているので、昔の自分と対戦しても余裕で勝つとは思う。しかし、高校時代に剣道をしていないというのは致命的で、いまいくら稽古しても、その時期に怠っていた分は取りもどせない。
 大学では、剣道サークルに週二回ほど通っていた。芝居が忙しい頃は行っていないので、熱心に稽古したとはいえない。最初の二年は、漫然と稽古をして、終った後の酒を何より楽しみにしていた。
 大学三年になって、教養課程のサークルから離れて、ある区の公開稽古に混じって剣道をするようになった。そこに、私よりちょうど五十、歳が離れたI先生がそこにいらっしゃったのが、その後の私の剣道人生に大きな影響を与えている。
 相手は、もうお爺さんである。スピード、持久力などは、私の方が上回っているはずである。ところが、相手はヨーダのごとく、私などちょいちょいとやっつけてしまうのである。そんな馬鹿な、なぜ手も足も出ないのだと思ったところから工夫が始まっている。
 私は身長が169センチで、上半身の筋力もさほどなく、剣道にはお世辞にもむいているわけではないのだが、そういった元来の身体能力の低さに、自分の剣道の限界を作ってしまっているところもあった。
 それが誤りだと悟ったのである。もちろん筋力は大切なので、大学院に在籍し、綾瀬にいたころは週に一二回は東京武道館のジムに通っていた。それに加えて、区だけでなく、昔のサークルやある高校OBの稽古会などに赴き、週に二三度稽古をしていたこともある。
 かなりハマっていた時期があるのだ。高校時代に剣道を続けていたら、ここまでやりこまなかったかもしれない。
 私の剣道人生だが、結婚を境にめっきり稽古できなくなってしまった。筋力は失われ、脂肪ばかりが増えた。最後に稽古をしたのは、一年半ほど前になる。
 剣道をしている人はよく知っているだろうが、剣道では四段がひとつの壁である。人生のうちなにかを削っていないと四段にはなれない。また、四段から指導者への道が始まる。
 私が今後の人生で四段になれるかというと、ほとんどありえないと断言できる。また、四段以上を目指す気もない。私はもう永世三段である。
 何年か前に、ある女子校の職の打診をされたことがある。いろいろ考えたあげく断り、私の後輩の男性がその職に就いた。あるとき勤務状況を尋ねたが、非常に忙しいらしく、学校の仕事は元より、部活動で剣道部の顧問を任せられて大変だと言われた。しかも、彼は剣道をまったくしたことがなかったが、生徒と一緒に稽古して、一級、初段と目指していくつもりらしい。私が彼の立場なら、当然顧問であろうし、そこで稽古もし、四段以上を目指す気になったかもしれない。そうだとしたら、幸せだったかどうか、ごく稀に考える。

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2005年12月16日 (金)

落語と歌舞伎の本二冊

 落語と歌舞伎の関係を記した本が二冊ある。
 清水一朗『落語・歌舞伎あわせ鏡』(三一書房)と太田博『落語と歌舞伎粋な仲』(平凡社)である。清水一朗は著者紹介によれば歌舞伎・落語研究家であり、太田博は朝日新聞学芸記者である。
 内容は、歌舞伎と芝居咄の照応させたもので、わずかながら清水一朗の方が、扱っている咄が多いが、ほぼ同一のことが書かれている。
 こうなってくると、どちらが先に出たのか興味が沸くが、清水本が平成七年十一月三十日、太田本が平成七年十月十二日で、ほとんど差がない。刊行日時では、わずかに太田博の方が分がよいが、清水一朗は、歌舞伎と芝居咄の関係について、平成五年四月から一年半の間、月一回ずつ連載しているので、太田博が真似をしたとも考えられる。
 とはいえ、どちらかが盗作とも思っていない。研究の世界で、たまたま同時期に同じ主題を取り扱うことはよくある。ともあれ、半年でも刊行日時がずれれば、もうどちらかは出版できなかっただろう。偶然ならば、同時期の出版は幸いである。

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2005年12月15日 (木)

藤本正行『信長の戦争 -「信長公記」に見る戦争軍事学』

 藤本正行『信長の戦争 -「信長公記」に見る戦争軍事学』(講談社学術文庫、平成15・1。原本は『信長の戦争軍事学』JICC出版局、平成5・2)は、講談社学術文庫に入っているように、ありがちな戦国時代本とは一線を画している。桶狭間や長篠合戦にまつわる伝説を、資料を駆使して吹き飛ばしていくのが見事であるが、それ以上に序章「太田牛一と『信長公記』」で異本を整理して、本文の成立過程をただしているのには感銘を受けた。
 資料の収集から翻字をして最終的に異本の校合をするまで、かなりの労力を費やしたことが容易に伝わるからである。
 戦国時代好きの人はもとより、書誌学とは何か知りたい人にもお薦めである。
 なお、本の内容と関係のないが、平成四年十一月二十七日付「結びにかえて」の次の一項には驚いた。

筆者の語った未発表の研究を、先に活字にしてしまった方がいるが、それらの研究について本書では、発表順序の先後に関係なく、筆者自身のオリジナルとして執筆した。

 「語った」の程度が学会発表なのか、普通の会話なのかで、かなり異なるとはいえ、先に活字にされてしまうと普通はおしまいである。いくら、自分が考えていたと言っても後の祭りにすぎない。
 私が知っている研究者でも、ネタをとられたことがあるので、人前では大事なことはいわないことにしていると言っている人もいるぐらいである。
 泥仕合にもならず、講談社学術文庫に収められたということは、筆者の正義が通ったことなのだろうが、自分がもしそのような立場におかれて、「自分こそがオリジナル」と言い切れるかは自信がない。
 

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2005年12月14日 (水)

保守的なアニメファン

 アニメファンは保守的だと思う。
 機動戦士ガンダム劇場版のDVDについて、アマゾンで効果音が公開時と違うことに多く批判が寄せられていた。
 製作者がすでにある作品に手を加えることはよくあることで、代表的なのはスターウォーズだろう。エピソード6の終わり方が変更されたことについて、イウォークの歓喜の踊りからエンドロールにつながる元々の方が、音楽的に切れ目がなくてよいという意見があって、これなどは納得のいく批判である。
 しかし、効果音が違うというのはどうだろう。実際にDVD版を視聴していないので、ひょっとしたら腹に据えかねる変更なのかもしれないが、それよりアニメファンは最初に感動を得たときと全く同じ条件が与えられることを強く望むのだと感じた。
 映画版『ZガンダムⅡ -恋人たち-』の評価は、声優変更のためだけに散々である。
 何かを創造しようという仕事についている人間にとって、いやな依頼の最たるものは、「誰々さんと同じようなものを作ってくれ」「あなたが前に作った作品と同じものを作ってくれ」というものだろう。
 何か手を加えたい、前とは違うことをしたい、というのは創造的な仕事をする人間の本能である。
 もっとも、これが思ったような効果を上げず、かえって仕損ねてしまうことも少なからずある。ある勉強会で、近代文学では「改作は改悪」がほとんどだと、聞いたことがある。
 アニメファンは保守的であるし、リメイクやDVD化も手を加えない方が楽であるはずなのに、やぶ蛇なことをしてしまうアニメ制作者に、性(さが)というものを感じてしまう。

補記:念のために書いておきますが、アニメファンは保守的だから悪いとかそういった議論をしているのではありません。
 

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2005年12月13日 (火)

映画評:『機動戦士ZガンダムⅡ -恋人たち-』

 12月1日にシネリーブル池袋で『機動戦士ZガンダムⅡ -恋人たち-』を観てきました。一作目は三人で観ましたが、今回は都合がつかず一人で観ました。映画の日だったそうで千円で観られて得しました。平日昼間の回ですが、映画の日のせいか、三十人ほど入っていました。埼玉でⅠを観たときは、男客かつ十代の若者ばかりでしたが、カップルあり、女の親子連れありと客種に富んでいました。

 最近になって、知り合いの美少女Kさん(二十代ですが)がビデオ百円の日を利用してZガンダムを観ていたことを知ってかなり驚いたのですが、ロボットアニメは男の観るものという固定観念は古いのかも知れません。でも、女性客にはGacktの曲を聴きに来た人もいるとは思います。

 さて、前回がテレビ版全五十話のうち第十四話までで、ちょっとペースが遅いと思っていたのですが、今回は第十五話から第三十二話まででした。ラスト一回で五十話まで終るか心配です。

 とはいえ、テレビ版十八話分を一時間半ほどの映画にするのも、結構大変だったようで今回の内容も大とばしで進んでいきました。テレビ版を観ている、予備知識があるの二点のおかげで、内容が追えたのかもしれませんが、よくまとまっているのではないでしょうか。変わったところとか、省略されたところが、上映途中にちらちらと頭に浮かんで、テレビ版を見直してみたいと思いました(ハッ、それが狙いか)。

 前作もそうでしたがテレビ版と書き下ろしの映像がごったになっているのが、つらかったです。ホンコンシティあたりは書き下ろしも多かったのですが、宇宙に戻ってくるとテレビ版の映像ばかり。もう、文句を言ってもしょうがないのかも知れませんが、もう少し頑張って欲しい。

 ホンコンシティから始まるフォウのエピソードは、心の中で「おぉ、ホンコンだよホンコン」と叫んでいました。実をいうと、Zガンダムはあまり好きではないのですが、やはりホンコン篇はいいです。ホンコン篇がZガンダムを名作にしているのは間違いないでしょう。書き直しのフォウはちょっと女らしくなったでしょうか(今時ならちょっとフェミニンになったぐらいいうのでしょうが)。

 フォウの声優が島津冴子さんでないのは、盆暗な私にもわかりました。サラの声が違うのも。今回のZガンダムではサラとフォウの二人の声優がオリジナルから変わっているのですが、このことについて、のちにまとめて書きます。

 今回の内容を観て思ったのですが、第三作では、ひょっとしたらロザミアのエピソードと、「キリマンジェロの嵐」「永遠のフォウ」が割愛されるかもしれません。

 書き直しですが、アニメ技術の向上は感じます。冒頭でクワトロたちが正面に滑り降りてきます。アニメで真っ正面に移動する人(物)を描くのは難しいと、宮崎駿が書いているのを読んだことがあります。コンピューターがそういったことを可能にするのでしょうか。戦艦の動きなどもそうでしたが、ところどころに、どうだこの技術を見てみろ!と言わんばかりの場面がありました。

 新訳をうたっていますし、テレビ版と切りはなして、映画版を評価したいのですが、それを妨げているのは、しつこいぐらいくりかえしますが、テレビ版の映像を使っていることです。それがなければ、今回の声優問題はなかったか、より小さなものだったと思います。

 島津冴子さんは、もう声優業をやめてしまったのかと、うちでネット検索して驚きました。島津さんが代理人を通して発表している内容などから判断すると、どうやら、
 1、音響監督が何らかの理由で島津さんを使いたくなかった。
 2、音響監督が何らかの理由で「ゆかな」さんを使いたかった。
 3、あるいはその両方。
によって、今回のフォウは島津さんからゆかなさんになったそうです。何らかの理由については、ネット検索しかできない私にはもうわかりません。

 それで、フォウを島津さんに戻して欲しいという運動が起きているのが声優問題です。
 常識的に考えれば、絶大な人気があったフォウの声優をかえてしまうのというのは、変です。しかし、一部で噂されるように、島津さんに大きな故障があったり、音響監督の藤野貞義氏が膝にのった女性を抜擢した、という極端な話ではないと思っています。
 
 私は、役者の半数程度を毎回集めてくる形式の劇団にいたことがあります。ある公演で、お客さんにウケても、なんとなく一緒に仕事がやりづらい、同じタイプでもっとよい(と思われる)役者を使いたいといった理由で、演出家が次の公演にはその役者を使わないということが何度もありました。
 
 今回の藤野貞義氏の件は、サラを池脇千鶴さんにまかせたこともありますし、声優の面でなんらかの新機軸を打ち出そうとしていたのだと思います。

 しかし、大人だったら、少し探して連絡が取れなかったのでこれ幸いと知らないところで話を進めるのではなく、徹底的に連絡先を探して島津さんに断りを入れておくぐらいの仁義はきっておいてよかったのではないでしょうか。
 島津さんのフォウを楽しみにしていた人は憤懣やるかたないでしょうし、島津さんの心中は察するに余ります。

 それはそれとして、ゆかなさんのフォウですが、声質は島津さんよりやや細いですが、演技は島津さんの型にのっとったこともあって、しっかりしていて、きちんとフォウを演じきったと思います。山田康雄さんから栗田貫一さんに声優が変わった頃のルパン三世のように(今はかなりいいそうですが)、ちょっと気持ち悪くて受けつけないなぁということはありませんでした。
 
 こんなことを言って慰めになるかわかりませんが、Zガンダムが、百年、二百年と受け伝えられ、時には再アニメ化などをされていく際に、おそらく島津さんのフォウが、のちのフォウを演じる人たちの亀鑑になるのではないでしょうか。

 フォウの声優変更より、演出の違いという点で、検討しなければならないのはサラの声優変更だと思います。

 正直に言いますとテレビ版の時は、サラは見ていてどうでもよいキャラクターの一人でした。映画版では、サラのエピソードは多く取り上げられていて、サラというキャラクターを話の中心に据えようという意図が伝わります。声優ではなく、普通の役者の池脇千鶴さんをもってきたのも、サラを重視して、といって間違いありません。
 
 池脇千鶴さんのサラですが、上映中は誰がアテているんだ?、ジブリのアニメかい、と思いました。エンドロールで池脇さんだとわかったのですが、あえてプロの声優をつかわないジブリのアニメと同様の効果があったと思います。台詞が浮き立って、印象づけたという点では成功でしょう。

 しかし、映画版では「シロッコの眼」などパプテマス・シロッコがらみのエピソードが割愛されていることもあって、梟雄シロッコの凄さが伝わりません。結果として、シロッコに縛られているサラも、あやふやな感じがします。
 これは映画の尺にかかわるので、どうしようもないのかもしれません。第三作で、第二作でここまでサラをとりあげたことが無駄にならないことを祈ります。

 そういえば、バスク・オムもでてきません。視覚障害者への偏見を助長するとか非難をうけて、登場できなくなったとかでなければよいのですが(出てこなくてもいいけど)。

 声優の変更は、演出効果としてはともかく、営業面では失敗だったのではないかと思います。アニメファンは非常に保守的です。ノスタルヂアを求めてZガンダムの映画版を観る人も多いでしょう。その人たちへの切り札は、これは新訳なんだ、ということになりますが、テレビ版の映像が多く使われているようでは説得力がありません。
 かえすがえすも、予算不足が悔やまれます。

補記:2005年7月15日の記事が第一作の感想です。

補記2:『語ろうZガンダム!』(レッカ社著、カンゼン、2005・10)の「ゆかなさん」のインタビューを立ち読みしました。ゆかなさんはTV版を見ていないそうなので、ゆかなさんのフォウが島津さんのフォウに沿ったものという見方は間違いかもしれません。ただし、地声に近い声を出したら、富野監督に「アニメじゃないんだ!」と怒られたので、ロザミヤ・バダム対象のオーディションで使ったより低い声を出したそうですので、演出する側は島津さんのフォウを意識していたのではないかと思います。2005.1.02

補記3:そういえばバスク・オム劇場版第一作にでていました。誰も指摘がなかったというのは、その筋の人たちは私のブログなど読んでいないということか?2006.2.22

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2005年12月12日 (月)

不審者

 最近は健康のため、ちょっとした用事のさいは、車や自転車を使わずに歩くようにしている。大通りを使って目的地に行くと、排気ガスをくらって、たまったものではないので、住宅地を縫って歩くことにしている。日本の住宅は統一感がなくて醜いとはよくいわれるものの、住宅が一軒一軒違っているために、見ているとあきない。
 ところがそれも最近はよくないようである。
 悲しいことに、広島と栃木で最近相次いで小学一年生の女児が殺害された。不審者情報がすぐさま、集められ、広島の事件は解決をむかえた。「不審者情報」が犯人逮捕に役立ったそうだが、不審者とはどこから不審者なのだろう。
 他人に意見を求めたところ、特に用事もないのにその場所にいる人は不審ということだった。平日の昼間に住宅地をキョロキョロしながら歩いている私は、不審者なのかもしれない。

補記:この記事は一週間ほど前に書きました。埼玉県警が不審者情報のホームページによる公開を12月12日から始めたので、のぞいてみたのですが、声をかけると不審者になるようです。
 

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2005年12月11日 (日)

唐土の鳥が

 私が知っている博識な人物に上代文学のT先生がいる。私もちょっとしたことをいろいろと知っている人間だと思っているが、T先生とは広さも深さも比べものにならない。T先生から聞き書きで、「昭和事物起源」という本が作れると本当に思っている。
 最近、T先生が留学生向けに、ご趣味でなさっている狂言の解説と実演をなさったのだが、それに列席する機会があった。なにかのついでに七草の唄に話が及んだのだが、T先生は七草の唄について、「ええっと、内容は忘れまして」と言った。私は近世文学の研究をしていることもあって、知っていた。
 いくつか種類があるようだが、

七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に…トントンバタリ トンバタリ…

という感じである。
 最初に知ったのは、落語の「ほうぼう」だと思う。私が知っているS先生のお宅では、今でもこの唄をうたって七草を調理しており、七草の日にそのご相伴にあずかったこともある。T先生でも忘れることがあるのだと、ちょっと驚いた。
 だが、あとになって、あれはT先生が忘れたふりをしたのではないか思った。T先生は落語に精通しているので、「ほうぼう」も当然知っているだろう。それに、私はT先生の授業を受けた経験があるが、T先生が何かを思い出そうとして出てこなかった場面を見たことがない。
 留学生には中国からの学生もいた。鳥インフルエンザのこともあるし、中国からの鳥を追い払うというのが時節柄ふさわしくないと判断したのではないかと、T先生の性格から疑っている。

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2005年12月10日 (土)

俳句と第二芸術

 韻文のよいところに、解釈の多様性に富むことがあげられる。散文よりも、さまざまな解釈ができ、そこに趣向を凝らせることが、韻文読解の楽しみだと思っていた。
 ところが、俳句の研究者によるとどうもそうでないようである。俳句は解釈がめいめい自由でいいではないか、桑原武夫のいう第二芸術でいいではないかというのはとんでもないことらしい。
 私は戯作を扱っているので、「まあ、戯作ですから」といった言い方をよくして、それで平気なのだが、俳句を第二芸術と呼ぶのは専門家には面白くないらしい。
 第二芸術という名称がわかりにくいなら、俗文芸だろうし、いま高校生に説明するなら、B級といった感じだろうか。戯作など、第二芸術、第二文芸、俗文芸、B級文芸だと私は納得しているのだが、俳句は第二芸術にあらずという主張は、事実に関わりなく「オレの付き合っている女はいい女だ」と言っているような印象を受ける。「いろいろアラはありますし、みなさんからみて、まあいい女じゃないと思うかも知れませんが、私はぞっこん惚れていますよ」でいいのではないか。なお、私は「第二芸術」という言い方すら、気取っていると感じるので、「第二文芸」という言葉を使っている。

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2005年12月 9日 (金)

ユリイカ

 風呂に入ると血の巡りがよくなるのか、考えが進むことが多い。卒論を書いていた頃は、ユニットバスつきのワンルームだったこともあって、いきづまるとすぐに風呂に入っていた。三谷幸喜も執筆の際は、シャワーを何度も浴びるらしい。
 考えついたアイデアは風呂からあがってから素早く手帳に書き込む。アイデアが失われては一大事なので裸のまま書くことも多い。
 先日、風呂に入った直後にひらめいた。とてもいいことをひらめいたので、すぐ記録したかったが風呂に入ったばかりである。しつこく頭の中で反芻しながら、風呂上がりにすぐ書いた。
 それで耐水紙が欲しくなった。測量用の耐水メモ帳がいちおう売られている。これに油性ペンか、ウェイター鉛筆でも使えば、風呂でも即座にアイデアが書き残せることになる。とはいえ、風呂は一人で使うものでもなく、メモ帳とペンを置いていたとしても、毎回名案が浮かぶわけでもなく、導入はまだためらっている。

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2005年12月 8日 (木)

特別なものを

 近代文学を専攻していたYさんという男の人は、私よりも八歳上だったが、いくつかの大学・大学院を回っていたので、大学院では三年の開きしかなかった。
 Yさんと知り合った頃は、大学の独立行政法人化が話題になっていたが、自分が就職できる確率がすこしでもあがるなら、変革は望むところだとYさんはいっていた。そのころの学問の世界では独立行政法人化に反対する人ばかりだったので驚いた。優秀だったが、年がいっていたYさんにとって、少しは焦りもあったのだろう。
 Yさんとは二人で浅草の新春歌舞伎を観に行ったことがある。まだ三之助が競演していた頃である。
 歌舞伎のあと、浅草寺にお参りした。正月の浅草寺は十日を過ぎてもまだ混み合っており、ところどころに写真を勉強しているとおぼしきカメラを抱えた若者の姿があった。Yさんは、それを見ながら、「なにか特別なものを写真に撮ればいいってもんじゃないんですよ。意味のある写真を撮ろうとしてはダメですよ。柄谷行人のいうように、やっぱりわれわれは意味という病におかされた近代人なのですかね」といった。私は写真を趣味としていたし、柄谷行人の『意味という病』は読んでいたにもかかわらず、なぜ浅草寺にきて意味のある写真を撮ろうとしてはいけないのか理解できなかったが、何も言わずにただうなずいていた。
 今回の旅行、太宰府境内で写真学生のような人たちをみかけて、この話を思い出した。
 今年の十一月の旅行では、福岡・長崎といろいろなところを観光した。しかし、それら名所についてブログに書きたいという気があまりおこらず、旅行中のさまつな出来事が書きたい。かつてYさんが何を言わんとしたか、いまはだいたいわかる。
 ちなみに、Yさんに誘われていた人形浄瑠璃が、そののち私の妻になる女性との用事のために行けなくなったころを境に、Yさんとは自然と疎遠になった。Yさんは、そののちある大学の教員となり、今では韓国からの大変綺麗な留学生を奥さんにもらっている。
 

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2005年12月 7日 (水)

速乾下着

 今はもうすっかり冬だが、十一月上旬の埼玉は秋にしては寒く、九州は秋にしては暑かった。九州ももう寒いだろうと思っていたので、暑さにかなり悩まされた。埼玉と九州のいつもの気温差だけでなく、その時期だけ、向こうの人にとっても暖かだったそうで、本当に暑かった。
 若かりし頃は、汗をあまりかかなかったのだが、年を取ってから体重の増加にともない汗をよくかくようになり、さらには年のせいか汗が臭くなって面倒なことが増えた。
 今回の旅行は、荷物を減らすために下着類は少なめにして、ホテルで洗濯するつもりだった。普通は綿の下着を着ているのだが、一枚だけmont-bellの速乾半袖下着があって、それが旅行には便利だった。
 あまりに便利なので、旅先で速乾下着をもう一枚買うことにした。福岡のキャナルシティを巡り、ノースフェイスで茶色の長袖下着を買った。半袖でよかったのだが、冬には半袖はないらしく、主力商品も速乾から、防臭で暖かい下着に変わっていた。いつも通りLを買うつもりだったが、最近試着せずに失敗したことがあったので、念のために試着して、けっきょくMを選んだ。
 半袖でなく長袖だったのは、大正解で十一月の九州は長袖下着一枚で過ごせた。乾きが早いので二日にいっぺんは速乾長袖下着を着ていた。mont-bellはわずかながらチクチクするのが難点だったが、ノースフェイスにはそういったことがないのもその理由だった。
 あまりに便利だったので、もっと買おうかと悩んでいる。ただし、一枚五千円ほどでは、買うにはかなり気合いがいりそうだ。
 なお、ノースフェイスの速乾下着には不思議な点がひとつある。通常左胸にある小さなロゴが、前だけでなく背中側にもついている(背中の右側になります)のである。ついている理由をご存じの方はおしえていただけるとありがたい。

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2005年12月 6日 (火)

モールスキンの手帳

 モールスキン(Moleskine)のPlainの手帳を旅行に持っていった。スケジュールは、超整理手帳から複写して、切り貼りし、その他、必要なデータをパソコンでL判に印刷して貼り込んだ。やや大きい資料は、必要な大きさまで切ったのちたたんで、見返しのメモポケットに入れた。
 これで情報を管理し、記録をとどめた。九州国立博物館では、何度か半券をみせる必要があったのだが、バンド付の手帳にはさんでおけばらくらく管理できた。モールスキンの手帳はきわめて旅行にむいている。
 LAMYの万年筆Safariを使って、旅行の感想、ブログのネタ、その他のメモをまとめて同じ手帳に記録したものの、後から見返すと何の情報かわかりづらかったので、多色ボールペンを使った方がよかったかもしれない。
 ジャケットの内ポケットか肩かけの小さなバッグに入れて調子よく使っていた。しかし、タクシーから降りるとき、娘を抱いて手のふさがっている私にかわって、妻が私のバッグから財布を取り出そうとした際に、手帳も引き落としてしまって、運転手さんの指摘がなければ危うく紛失しそうになってから、必要がないときはできるだけ持ち歩かないようになってしまった。
 モールスキンの手帳はパスポートより大事といったチャトウィンではないが、これをなくすのは一大事である。

 なお、長崎県立博物館の博物館売店(いくら立派でも、私の性格ではミュージアムショップなんて言えません)で、モールスキンの日記帳を二種見た(ノート判もあったので正確には四種。ただし、ノート判の中味は見ていない)。週間はともかく、毎日一ページの手帳はかなり厚い。使ってみたい気持ちは強いが、便利とはいいにくそうであった。

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2005年12月 5日 (月)

グランドハイアット福岡

 十一月の旅行は大人二人(と幼児二人)で、行きは福岡、帰りは長崎からの航空券と、福岡の宿泊二泊のパック旅行だった。福岡はグランドハイアット福岡に泊まることとなり、航空券と合わせて二人で十万円弱。宿の食事はなかったが、一人五万円しないと考えれば格安である。
 グランドハイアット福岡だが、すばらしいホテルだった。サービスがよかった。チェックイン時間よりも一時間ほど早く着いたのだが、そのまま入れてくれた。義姉が熊本から出てきてくれて泊まったのだが、そちらで隣の部屋にしてくれた。また、機会があったらぜひ利用したい。
 ただ、我々貧乏夫婦には過ぎた宿なのかも知れない。今回の旅行中、下着類は洗濯してしのぐつもりだった。夜、妻が洗面台で洗った後、洗濯物を干すところがないと言った。ビジネスホテルなら、風呂場に洗濯用の紐が引っ張り出せる仕掛がある。ハイアットにはない。ハイアットの客は、そんなことしないのである。しょうがないので、カーテンレールに干したが、向こう側のワシントンホテルからはよく見えておかしかっただろう。
 朝食は、ホテルでとると一人2500円なので近くのコンビニで買って済ませた。夕食は近所でラーメンとうどんだった。

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2005年12月 4日 (日)

ベスト版

 最近解散することになったあるバンドのベスト版を買うことにした。そのバンドのアルバムもシングルも一枚も持っていないが、この際だから買おうと思ったのである。
 アマゾンの販売ページに行くと、売りだしてもいないのに評価が低い(アマゾンの評価は売出す前からつけられる。つけるほうもどうかしていると思うが)。見たところ、そのバンドの曲は全てがいいものだし、ベスト版の選曲がよくなくて抜け落ちているものが多いという意見があった。
 ファン心理で、そのバンドのすべての曲がよいと思うのも無理はあるまい。しかし、そのバンドと他のバンドを比べればすべて優れているといえるのかもしれないが、あるバンドのすべての曲を相互に比較すれば、曲同士にはやはり優劣がある。
 これは、音楽に限らず、小説もそうで、山田風太郎の忍法帖はいずれも優れた本だが、山田風太郎自身がランク付しているように、『魔界転生』や『甲賀忍法帖』などとその他の忍法帖では質が違う。
 文学の世界で全集を買うのは、本当にその作家が好きな人である。あたりまえと思うなかれ。全集を買うことは、その作家の書いたものなら、どんなつまらないものでも読みたい、断簡零墨にいたるまで目を通したいという意志のあらわれである。その作家のつまらなさを受け入れることが全集を買うことである。
 このことは結婚に似ている。相手の良いところだけ見たいのなら、恋人同士の方がよいし、二人で過ごす時間も特別な輝きに満ちているだろう。ところが、結婚すれば相手の細かいアラも見えてくる。いやそうでもいいのだ、一緒にいたいのだという気持ちがなければ結婚できない。
 そういうわけで、ファン心理としてベスト版は邪道だ、すべてのアルバムを買えというのはわかるとしても、他に強要すべきではないと思う。
 映画版Zガンダム第一篇のDVDが売出されたときに、同じくアマゾンの購入者評価で、テレビ版を見ろという意見が少なくなかった。これも、あの暗いZガンダムを50話も見るのがしんどい人が多いから、要約版が作られていることを考慮していない。また、映画版は映画版で、独立した作品として評価する視点を失っている。
 もっとも、クラッシックの抜粋ベスト版のようなものになってくると、判断が難しい。交響曲は、第一楽章から順にその盛り上がりを楽しむべきで、一連の流れの中で聴くのではなく、一部を切り取って聴くのでは、十分に楽しめないという意見は一理ある。
 とはいえ、これも退屈な楽章は除いて、美味しいところだけ味わいたいという心理も十分に理解できる。短いなら楽しめないというのなら、俳句も第二文芸の誹りを免れない。
 そういえば、歌舞伎も近代では通し狂言から見取に上演形態が変わっているわけで、楽をしていいところだけ見たい・聴きたいというのは、普遍的な人間心理といえる。むしろ、全集愛好者、全アルバム収集者よりも自然な心理かもしれない。

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2005年12月 3日 (土)

ちくま日本文学全集

 ちくま日本文学全集全六十冊は、平成三年だか平成四年だかに刊行がはじまった。毎月二冊ずつが配本され、初回は芥川龍之介と寺山修司だった。文庫版だが、安野光雅が表紙を描き、ボール紙の本体でなんとも感じの良い本だった。ちなみに、その後寺山修司にハマるきっかけともなった。
 一冊千円ほどだったので、姉に千円ずつ出し合って買わないかともちかけたが、断られたので一人で買い続けた。大学に入ってからも、ぼつぼつ買い続けて、全六十冊のうち四十冊ほど買ったのではないかと思う。大学院の修士一年生のころに、池袋サンシャインの古書展で、全六十冊揃いが二万円ほどで売られていて、残りの全冊を新品で買うのとほぼ同じだったが、金欠と、重複するのがいやで買わなかった。その後、めっきりとちくま日本文学全集を本屋で見なくなったし、バラ売りを古本屋で見ることも少なかったので、買っておけばよかったと後悔した。
 大学院での近代文学の演習で、このちくま日本文学全集を底本として発表した大学院生がいた。そのころ近代文学を担当してたN先生は、「こんな本は、OLが教養を得るために買うような本ですよ」と言った。
 前回の引っ越しの手伝いに来てくれた、近代文学を専攻する畏友K君に、ちくま日本文学全集を指し示しつつ、その話をしたところ、「OLはそんなもの読みませんよ」と言ってくれたものの、底本がはっきりしませんのでと、ひきとりはやんわりと拒否された。
 けっきょく、新居では置き場がないので、泣く泣くブックオフにちくま日本文学全集を送った。
 もし、研究書のたぐいを処分して悠々と余生を過ごすようになったら、ちくま日本文学全集をまた手元に置き、それを読んで過ごしたい。

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2005年12月 2日 (金)

瀬川晶司氏のプロ編入

 瀬川晶司氏が将棋の四段の、すなわちプロへの編入試験に合格した。この編入試験に関しては、奨励会員(プロ予備軍)からは批判が多かったときく。
 その心情はよくわかる。私も大学院の博士課程を出ているが、大学院などの教育とは全く無関係に大学教員になれるとすれば、教員養成が役目の博士課程の存在意義が問われるからである。
 とはいえ、私自身、大学院と関係なく、大学教員になる人がいておかしくないと考える。むしろ、それ以外の出身者はなれないとすれば、制度硬直だと思う。
 奨励会員が腹を立てているのは、瀬川氏が奨励会とは別の経路でプロになったということではなく(瀬川氏は年齢制限で奨励会を退会している)、自分たちが現在いるプロよりも強いのにプロになれないということだろう。三段リーグは年間わずか四人しか上に行けないので、ロートルのプロ棋士よりもはるかに強くても、プロになれない可能性がある。いや、奨励会の三段ほどになれば、たいていの場合、それより強いのである。
 公平を考えれば、四段からプロだとしても、三段との入れ替えが行われなければならないだろう(しかも大人数が)。ついでに言うが、大学教員の地位にも入替え戦が欲しいと思っている。
 では、前述の制度を導入するとまるく収まるかというと、それも難しい。将棋棋士は頭を使うので、年を取れば当然弱くなっていく。弱くなったからといって、簡単に職が失われてしまうようでは、棋士は職業ではなくなる。そうなると、棋士を目指す若者(というより少年だが)の数が減り、将棋界じたいが縮小していくことになる。
 ここらへんは不平のないように、また将棋界が発展していくように制度改革されていくことを切に望む。

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2005年12月 1日 (木)

渡辺明竜王

 渡辺明竜王がブログを開設している。更新は、二日制対局の日などを除くとほぼ毎日なされる。トラックバックは元よりコメントも受けつけており、ちょくちょくコメントに返事をしている。 

 これは極めて異例のことである。将棋の位で竜王といっても大多数の人にはピンとこないだろうが、実は名人位よりも竜王位の方が上位にある。これは、毎日新聞より読売新聞が賞金を多く出しているためで、歴史から見ると将棋における名人の重みは減じていない。しかし、竜王こそがいま将棋の最高の位であることは、意識しておかねばならないだろう。

 渡辺明竜王は、前期に森内俊之現名人から竜王を奪取して現竜王になった。さいきんは最初の防衛戦を木村一基七段と行っており、昨日四連勝で見事に防衛を果たした。インターネットで棋譜を追っていたが、第一戦では相手の研究手をはねかえし、第四戦では受けの木村と呼ばれる挑戦者を攻め潰しと、渡辺竜王の強さが目立った。

 渡辺明竜王は、中学生でプロ棋士になっている。この中学生棋士というのは過去に加藤一二三、谷川浩司、羽生善治しかおらず、しかもいずれも名人になっている。なお、全棋士に竜王位につく機会がある竜王戦と違って、名人戦は順位戦といわれるグレード別のリーグ戦を抜けていかねばならず、その年最強の棋士でも、A級に属していないと名人位へ挑戦できない。渡辺明竜王はC1なので、それを抜けて、さらにB2、B1を突破してA級に属さないと名人位の可能性はない。

 くどくなったが、将棋界における大変偉い人がブログを開いているということを言いたいのである。 

 自戦記もブログに公開してあるのだが、差し手の疑問がコメントにつけられると、なんといちいち応答している。竜王戦に関しては、新聞や雑誌の兼ね合いもあるので、それが出そろったところで、載っていない手については解説しますと第一戦のあとに告知していた。ところが、それにもかかわらず、第三戦のあとに手の質問をするフウケ者が現れ、竜王はなんとコメントするか気になったのだが、こともなげに答えてやっている。

 渡辺明竜王は、某大手掲示板でのあだ名が「魔太郎」である(今は竜王とかけて「魔王」もある)。藤子不二雄Aの『魔太郎が来る!』の「魔太郎」に似ているからだろう。実を言うと、ブログを読むまでは、渡辺明竜王とは、非常に酷薄で、マントにワイングラスなんかを持って、「羽生世代ももう終りですよ。フッフッフ」なんて言っているのではないかと思っていた。

 実際は、私より一世代若い二十二歳にもかかわらず、一歳三ヶ月になる男の子を持つ家庭人である。私も、二歳六ヶ月と六ヶ月の子どもを持つので、渡辺明竜王には親近感を持っている。よく知っている方を応援したくなるのは世の常で、私は渡辺明竜王を応援している。最初はちょっと怖かった顔も、最近は恰好よいと感じている(妻はコボちゃんとか言っていたが)。

 『将棋「次の一手」読本』(宝島社、平成17・8)でのインタビューを読んでもわかるのだが、将棋を今後広めるために渡辺明竜王がいろいろと気をつかっていることがわかる。ブログもその一環なのだろう。

 渡辺明竜王のブログはRSSリーダーに入れて更新があるといつも見ているのだが、気になることが一つある。私も将棋ファンなのでわかるのだが、将棋ファンとは屈折した人間が多い。嘘だと思う人は、将棋道場に行ってみるとよい。ブログへのコメントにも、たまには変なのがまじっていて、そういったものへの対応で渡辺明竜王が疲弊してしまうのではないかと心配している。

 渡辺明竜王ぐらい偉くなれば、トラックバックだけでも十分だと思うのだが、その一方で竜王のコメントも見たい。 複数の棋戦を制するようになって、その防衛などに忙しくなれば、更新もむずかしくなるだろうし、ブログがどう続いていくのか、興味がある。

補記、「タイトル」という語を使わないでみたが、書きづらかった。竜王のブログにトラックバックをしてみました。少しドキドキ。

補記、2008年9月8日をもって、渡辺竜王のブログはコメントを停止。ID制になってから、落ち着いたかと思っていたがそうでもなかった様子。私自身、竜王のブログは毎日読んでいたものの、コメント欄はまったく見なくなっていました。竜王の過去の日記のコメントを読み返してみました。不遜・不敬ななコメントは削除されて、普通のコメントばかり残っていたせいもあるのですが、手の意味を聞く質問やここでああすればという意見が多かったです。それにきちんと対応していたのが、負担だったような印象をうけました。

なにはともあれ、名人戦騒動の荒らしもとい嵐も乗り越え、この記事を書いてから二年半以上、竜王よく頑張ったよと思います。まだ、渡辺「竜王」って書けるのもファンとしてはいいですね。いろいろ重しがとれたと思うので竜王にはこれからも健筆を期待します。(2008.10.03)

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