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2005年9月20日 (火)

『SHINOBI』観てきました

『SHINOBI』を観てきました。原作の山田風太郎『甲賀忍法帖』と比較すると、月とスッポンです。とはいうものの、『甲賀忍法帖』は天才山田風太郎が書いた一連の忍法帖の中でも傑作中の傑作で、そう簡単に匹敵するような映画が出来ると思うのが贅沢だと思いましょう。
 役者を中心に観るなら、美男美女をはじめ個性的なあるいは演技達者な人たち(もちろんこの要素が複数ある人もいます)がいっぱいでているので、けっこう楽しめます。私としては、虎牙光揮演じる筑摩小四郎がよかったです。やはり、アクション映画はトンボを反れる(もともとトンボを切るは誤用)ぐらいの人が出てないと面白くありません。アクション映画では音声を拾い損ねることが多いのに、せりふがちゃんと聴き取れるように録音されていたことは評価されてよいでしょう。ロケも遠くまで出かけたようで、日本の自然と四季が美しく描けていたのも眼福でした(タイトルといい外国に売ろうという魂胆があるのかもしれません)。基本的に「絵」の綺麗な映画です。
 
 細かいアラを指摘していけばキリがないのですが、なぜ映画が原作に及ばないのか、大きなことだけひとつ書きます。山田風太郎の作品には共通する大きな主題があります。「『大義、親を滅す』ることの悲劇」がそれです。「大義親を滅す」とは「主君や国の大事のためには肉親を捨てるのもやむをえない。大きな道義のために私情を捨てること。(広辞苑第五版)」ということです。山田風太郎の小説では大義と私情のはざまで葛藤する人々の姿が共感を呼ぶのです。
 『甲賀忍法帖』もそうで、甲賀弦之介と朧が、自らが背負う立場や役割と自分たちの愛の間で苦しみます。映画『SHINOBI』では、自分たちの愛を優先させていた二人がおのれの背負う立場を優先させていく姿が描かれ、最後は朧が思いを封して弦之介刺し、頭首として二つの谷を救います(弦之介の側から見ると谷のためにわざと刺されたことになります)。大義が親を滅するという点で、風太郎の味わいを出したつもりなのかも知れません。
 しかし、原作では、おのれの背負う立場に強く影響されている二人(朧はちょっと弱気ですが)が、結局大義に押し潰される形ながらも自分たちの愛に殉じて言い分を通す(朧は自死しますが、弦之介は朧が勝ったことにします)ところが映画と違います。支配的な行動倫理とその変化の割合が逆なのです。
 映画が「私たち愛し合っています。でも結局は、それぞれの谷の頭領としてその立場に沿って行動します」であるのに対し、原作が「私たちはそれぞれの谷の頭領です。でも、やっぱり愛してます(殺せません)」なのです。前者の苦衷も心を打ちますが、後者の方が訴えるところが大きいのではないかと思います。
 原作のままでは、あまりに朧が受動的で仲間由紀恵に見せ場がないと、ああなったのかもしれませんが、朧が弦之介刺す展開はどうだったのかなと思います。原作にほぼ忠実だった漫画『バジリスク』の偉さが今更ながらわかりました。
 
補記:映画を観てきた当日に書いた文章を手直しました。いらないところを削ったので読みやすくなったのではないかと思います。

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