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2005年6月30日 (木)

「前科者」の発想

  いささか旧聞に属するが、あびる優という女優がテレビ番組内で過去に自身が行った窃盗を暴露し、視聴者の抗議によって謹慎するという事件があった。テレビのことは、全く詳しくないので、当初は山田優のことだと思っていた。なお、妻は、山田優のことを篠原涼子だと長い間思っていた。訂正するのは簡単だが、最近の女優に詳しいのも痛くもない腹を探られるので、すっとぼけていたが、ようやく別人であることに気がついたようである。とはいえ、五十歩百歩だった。
 それはさておき、あびる優の事件のあと、暴走族上がりだったりもっと悪いことをしていたやつらがいっぱいいるという言説が、散見した。が、これはあんまりだと思う。たとえば宇梶剛士は暴走族上がりだが、少年院にも入っているし、立派に更正して今の役者の仕事をしているのである。何か罪を犯した場合に、きちんと処罰をうけて、つとめを終えた人間と、つかまらなかったことをいいことに知らぬ顔をしている人間とが同じ基準で扱われるのは、納得がいかない。
 ひとしなみに過去はこうだったと論じるのは、「前科者」の発想である。

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2005年6月29日 (水)

私は新聞を取らない

 私は新聞を取らないことにしている。生徒には新聞を読め、日記(でなくても何かの文章)を書くに越したことはないと言っている癖に、当の本人は新聞を取っていないのである。理由は簡単で新聞販売員とのやりとりが嫌いなのである。月に一度、門口まで出てお金をやりとりするのも面倒だし、留守の間、新聞を止めてもらうのも手間がかかる(し、なかなか止まらない)。新聞販売員は、拡販のビール券や洗剤を種に猫なで声で新聞を取ることをすすめるだけで、自社の新聞が他社の新聞より内容が優れていることや新聞を取ることの有益さを理由にする者は皆無であることも腹立たしい。
 独身時代は、外食が多かったので、定食屋に置いてあるものを読んで済ませた。詳しく知りたい事件があれば、自分で買う。イラクの最初の日本人人質事件のときには喫茶店に入って、産経新聞から朝日新聞までその社説を比較した。また、おおよその事件はネットで知ることができる。
 要りもしない文章、読みたくもない文章が自動的に送られてきたとして、それを読んでいるほど暇ではないのである。

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2005年6月28日 (火)

綾瀬の犯罪

  足立区の綾瀬に住んでいたことがある。最近、監禁事件で捕まった犯人は駅から五分の2LDK、家賃十三万五千円のマンションに住んでいたそうだが、私は駅から五分は同じだが、2DK家賃七万円のマンションに住んでいた。綾瀬で2DK家賃七万円なら格安と思うかもしれないが、千代田線の北綾瀬への引き込み線のあたりに住んでいたため、カーブで電車がきしむ音がひどくて大変うるさかった。また、マンションの前の道路も交通量が多かった。もともと、長崎の斜面にある家に住んでいて、車など全く通らないところで育ったため、騒音はかなりつらかった。電車が通らなくなる午前一時から午前五時ぐらいまでが集中できるので、そのあたりに勉強していたため、生活がすっかり昼夜逆転してしまっていた。
 綾瀬といえば、女子高生コンクリート詰め事件が有名だが、古くは国鉄下山総裁事件があった土地でもある。1999~2001年の間、住んでいたが、それまで住んでいた池袋に比べて格段に物騒だった印象がある。終電車がなくなって西日暮里から綾瀬まで歩いたことがあるが、日本は平和だねと思いながら歩いたのだが、歩いた三時間後ぐらいに通過した場所で殺人事件があって驚いた。綾瀬の頃に、深夜によく出歩いて学んだのだが、犯罪に会わないためには、夜出歩かないというのは基本である。うちにいる限り犯罪に会う確率はかなり下がると思う。とはいえ、うちにいても安全でないのが綾瀬だった。

 当初、この後に私があった怪事件を書こうと思っていたのですが、結局何が原因でそういった被害にあったのかわからず、未解決になっていて、このブログをきっかけにまた変なことに巻き込まれたら嫌だなと思ったので、やめておきます。

 とにかく綾瀬をはじめ、あのあたりには二度と住みたくないと思う。千代田線の混雑もこりごりだった。終り。

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2005年6月25日 (土)

コタンの口笛

 小説の読み方は自由であって、かならずしも最初から読みはじめる必要はない。また、部分的にしか読まなくても、読者にとって読者独自の「物語」になりうるのである。こういったことを、小説の授業の最初の時に、生徒に言っている。この一例として、次の話をよくしていた。
 私が中学生の頃、読書課題に石森延男『コタンの口笛』が出た。アイヌの少年が主人公なのだが、シャモ(倭人)の少年に深い憤りを感じた主人公は、マキリ(短刀)を持って飛び出す。ここで上巻が終るのだが、下巻では、主人公は途中であった知り合いに説得されて、相手を刺すことはしないのである。ところが、友人Rによれば、同級生のQはあろうことにか上巻しか読まずに読書感想文を書き、なぜ主人公は相手を刺してしまったのだろうなどと書いてしまったため呼び出しを食らい、こっぴどく叱られたという。私の知る笑い話としては、いまだに人生の十傑に入るものである。
 その話をした上で、上巻まででもいいのだ。Qにとって、『コタンの口笛』は主人公がシャモの少年を刺した「物語」として理解されて、それでいいのだと言って話を締めくくっていた。
 ところが昨年、私がすっかり忘れていた事実を思い出したのである。あるときRがQは在日朝鮮人の何世かで、実家はS市でパチンコ店を経営し、クルーザーも二台所有する富豪なのだと言っていたのを思い出した。言われてみれば、Qはやや朝鮮系の顔立ちだった。だが、金持の家の出だという振るまいなど微塵も感じさせず、また在日朝鮮人ということにQはこだわりをもっていたようではないし、私も長い間忘れていたぐらいでまったく気にしていなかった。
 この事実を元に、Qが『コタンの口笛』のアイヌの少年に自分との類似性を感じてしまい下巻まで読み進めなかった。あるいは、アイヌの少年への共感のため、シャモを刺すという、実際に書かれていない「物語」をQが読み取るに至ったなどというのは簡単かもしれない。だが、Qのエピソードの真相として、そうしたこだわりがあると決めつけることは、同級生としてQを見ていただけに失礼すぎて私はできない。Qが上巻までしか読まなかった理由は怠惰によるものかほかの理由があるかは知りようがないし、Qは『コタンの口笛』をアイヌの少年がシャモの少年を刺した「物語」として読んだという事実だけが残る。これが私にとってのQの「物語」である。
 

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2005年6月24日 (金)

ブックオフ

 ブックオフに本を売った。143冊で8770円である。一冊六十円だから、元値からすれば雀の涙であるが、家に置き場がないのでしょうがない。好き嫌いを言わずに買い取ってくれることがなによりである。また、宅配便で本を査定してくれるのもありがたい。本を査定されるのは、自分を査定されるようなもので、面と向ってされるのはたまらない。
 ネットオークションに出すという手もあるそうで、これはなかなか儲かると聞くが、メールのやりとりや梱包・郵送の手間を考えると、まめな人向きである。
 われながら、私の売った本はいい本なので、早く売れるのではないかと思っている。ブックオフは不思議であれだけ本があるのに、私の欲しい本はほとんど見つからないのである。よい本もたまに出るようだが、すぐにはけてしまって、店に置いてあるのはより抜きのつまらない本である。私の住んでいる埼玉の小都市よりも都内のブックオフの方が、まだ私が欲しい本があると感じている。
 あるとき気が向いて司馬遼太郎の『坂の上の雲』を探してみたが全くといってよい程見つからない。村上春樹・椎名誠といった人気作家もあまりない。作家別に、新刊本の数と、ブックオフに持ち込まれる本の数を比べてみると作家の価値が見えてくるかもしれない。

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2005年6月23日 (木)

中華のカレー

 久しぶりに本郷(東京都文京区)に行くと、本郷三丁目の四つ辻の一画に隆隆菜館という中華料理屋が開店していた。店の前にある看板をみると、神保町の新世界菜館・咸亨酒店で修業した料理人がやっているというので迷わず入った。ランチメニューにカレーがあったのでそれを頼んだ。カレーは新世界菜館で有名なメニューなのである。
 新世界菜館はやや高級な中華料理店の部類に属し、私はそこで二十回以上食事をしたことがあるのだが、それは知り合いのU先生に連れて行ってもらってのことだ。U先生はその店の常連で、かならず紹興酒を一本(ときには二本)サービスしてもらえるほどだった。そのU先生のお薦めがカレーだったのである。カレーはインドのものと思いがちだが、鳥の出汁が利いていて、ちゃんと中華料理になっているのである。大友克浩・矢作俊彦による『気分はもう戦争』(単行本は1982年が初版か)の中に、中国遠征した主人公達がカレーはもう飽きたぜという場面があり、カレーの流行がうかがえるとは、サブカルチャーに詳しいU先生らしい説明だった。『気分はもう戦争』は以前手元にあったのだが、そういったことは全然記憶にない。
 かつては裏メニュー的な扱いだったカレーも、近年ではグルメ雑誌のカレー特集号などで取り上げられ、新世界菜館の名物として広く知られるようになったようだ。
 隆隆菜館の味はまあ本家と同じ。椅子などの調度品が本家とお揃いなのも好ましい。あのあたりは、各店がしのぎを削って入れ替わりが激しいが、長いこともちこたえてほしい。

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2005年6月22日 (水)

ちゅらさんの東京

 「ちゅらさん」というNHK朝の連続ドラマがあった。そのころ、二年半ぶりにテレビを手に入れたこともあってはじめのあたりはよく見ていた。沖縄育ちのちゅらさんは東京に出てきて一風館という下宿屋で暮らすようになるのだが、東京のどこなのかはっきりしない。護国寺から雑司ヶ谷のあたりだと感じるのだが、劇中で具体的な地名は明言されてはいなかったのではないだろうか。一風館での暮らしは、明らかに高橋留美子の『めぞん一刻』の一刻館を意識して描いたのだろう。無愛想・無関心な住民達とちゅらんさんがうちとけていく展開は面白かったが、いろいろと忙しくなったこともあって、その後は見る回数がぐんと減ってしまった。
 「ちゅらさん」がカルト的な人気を帯び始めたのは、私があまり見なくなった頃と一致している。後半は、現実感のなさが常に漂い、妊娠・出産の苦労は伝えられることがなく、ちゅらさんがかかる病気も具体的な病名は不明のままだった(知り合いの医療関係者は、男性医師(小橋賢児)が女医(小西真奈美)を振って看護婦(ちゅらさん)とくっつくところだけは現実的だと言っていた)。わずか一年で女の一生を描くという朝ドラは無理がつきまとうので、どのドラマもどこか非現実的な展開があるのだが、「ちゅらさん」の非現実さは、見ていて夢のようだと全体を感じるような現実感のなさなのである。「ちゅらさん」は、最初にちゅらさんの島にやってきた病気の男の子の夢だった、というオチがつくのではないかと、最後の最後まで疑っていた。
 このドラマがカルト的人気を博したことについて、大学生やフリーターなど自分の生活に現実感を得ない人たちが、理想郷としてちゅらさんの世界を愛したのではないかという分析が、当時ネットにあって、非常に納得した。その後、続編も制作されるが、非現実路線、理想郷路線が引き継がれたのは妥当であり、私も何回か見たが楽しませてもらった。
 もしちゅらさんの一風館が東京のどこにあるかがはっきりしていたら、たとえば浅草だから谷根千だから人情に包まれて生きていけたとするなら、あそこまで人々に共感されなかったと思う。わざとぼかして書いたのは卓見である。ちゅらさんはユートピアに生きているからだ。
 今期の朝ドラの「ファイト」は、逆境に挫けない女の子の姿を描いているようだが、視聴率が低迷し、「ファイト不発」などと揶揄されているのも、よく理解できるのである。
追記 沖縄では「ニライカナイ」、すなわち「奄美・沖縄地方で、海の彼方にあると信じられている楽土。そこから年ごとに神(赤また・黒また・まゆんがなし、など)が訪れ、豊穣をもたらすと考えられている。」(広辞苑第五版)という思想がある。ちゅらさんが、神であり、東京の人たちに「豊饒」をもたらしたとも、あるいはちゅらさんの島にやってきた男の子が神で、ちゅらさんに「豊饒」をもたらしたとも解釈できる。
 ドラマ内でおばあが東京に出る前のちゅらさんにニライカナイの話をする場面があるそうで、このドラマの構成はずいぶん考えられて作られたものだと思う。

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2005年6月21日 (火)

同級生のプロ野球選手

 私の小学校の同級生でプロ野球に進んだのが一人いる。ここではM選手としておくが、当時、常にリーグの上位にいた球団にドラフト四位で投手として指名されたのだった。小学校の六年間でM選手と私は一度も同じクラスになることはなかったが、M選手は運動神経の優れたスポーツマンとして、学年で知らぬ者がない存在だった。高校野球では怪我に泣かされ、地方予選を勝ち抜くことができなかったが、将来性を買われてドラフトにかかったのだろう。
 それから毎年選手名鑑で名前を探したのだが、とうとう一軍に上がることなく八年の選手生活を終えた。選手名鑑というのは面白いもので、好きな歌手を答える欄があるが、M選手は常に高校の母校先輩である大物演歌歌手Mの名前を上げていた。それは入団から退団の年まで変わることがなかったと思う。大物演歌歌手Mは哀愁のあるヒット曲がいくつもあり、高校を卒業したのち、故郷を離れて試煉の道を選んだM選手にとって心にしみたのはおかしくないのかもしれない。
 だが、M選手が母校の先輩であるという理由で演歌歌手Mをあげていたことは無理をしていたのではないかと思っている。かの球団には、投手として入団しながら、野手に転向し、そののちメジャーで活躍している選手もいる。プロの球団では、高校時代に投手でありながらプロに入団した後は野手として育てることを前提としてドラフトにかけることもあるという。M選手も野手として球団が期待していながらも、投手として選ばれた自分をあきらめきれなかったのではないか。そういった保守的な気質が、好きな歌手は演歌歌手Mという答えに反映されている気がする。
 あくまで、わずか一行のプロフィールにもとづく勝手読みである。バカバカしいと思うかもしれないが、それだけM選手の活躍を私が見たかったのだと思って欲しい。

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2005年6月20日 (月)

苦手な数学

 私は数学が全く駄目だったので、空白だらけのテストの答案に「○○大学はおろか、××大学にも入れないぞ」と大書されて返されたことがある。志望の○○大学に合格した後、例の答案をくしゃくしゃに丸めて机の裏に放り込んでいたことを思い出し、しわを伸ばした上、お礼参りにうかがった。数学のK先生は、数学の出来ない私を日頃から疎んでいたが、会うやいなや両手で私の手を握りしめておめでとうと言った。機先を制されたこともあって、答案はとうとう出さずじまいだった。
 数学が嫌いだったのではない。「大学への数学」は毎号購入し、Z会も入っていた。だが、勉強の仕方に習熟した現在からみると、土台がないところに華麗な楼閣を築こうとしていたようで、やりかたの根本が間違っていたように感じる。
 和田秀樹や野口悠紀雄は、数学は暗記であることを主張している。もっと、基礎的な解法を暗記するまでくりかえさなければならなかったと思う。
 その一方で、森毅・藤原正彦・芳沢光雄といった数学者の書いたものを見ると、公式や決まり切った解法の暗記は全く勧められていない。考える力こそ数学の基本だというのが、数学者の主張である。
 数学の苦手な私にどちらが正解かを選ぶことは、そもそも無理だが、数学の問題は詰め将棋のようなものかと思っている。将棋では、読む力をつけるために詰め将棋を解くことが必要である。この際、必要なのはわからないからといってすぐ解き方をみるのではなく、何時間でも考え抜くことである。詰め将棋を数多くこなすことで、感覚的に詰むか詰まざるかを瞬時に読めるようになり、また寄せの手筋を覚えることができるのだが、最初から詰め将棋の答えを丸暗記しても、将棋は強くならないのである。また、詰め将棋は一回解いただけでは駄目で、何度も解いてみるということが大事なのである。
 ちなみに、詰め将棋はむかしは大嫌いだったが、二十五六になって将棋の勉強をしたときには解くように努めた。詰め将棋も数学も苦手だったのだが、私の思考力の弱さを反映していると思う。

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2005年6月19日 (日)

F先生

 高校三年生のときの担任のF先生は、慶應と東大を卒業した経歴ながら、なぜか長崎の片田舎で世界史の先生をやっていた。温厚篤実な紳士として知られるF先生は、荒くれ者が多い応援団の顧問を任されていたぐらいで、滅多に怒ることがなかった。私の高校には学習記録帳というものがあって、毎週の勉強時間を記録し提出させられていたのだが、私の勉強時間は大して長くなかった。学習記録帳を前に、高校三年時の面談をうけていたのだが、「Yはこれからの勉強でどのようなことを心がけるか」と質問された。こっちはふざけて「頭が良くなるように、たんぱく質を十分にとるように豆腐と納豆をたくさん食べるようにしております」と答えた。こちらとしては、叱られることは覚悟のうえだったが、F先生は一日どのくらい食べているのか、どのくらい食べれば効果があがるのか根掘り葉掘り私に尋ねた。
 秋頃に創立記念日で平日ながら授業が休みの日があるのだが、家人には授業がある振りをして、制服と鞄を持って家を出て、長崎市内の友人宅に麻雀に行く計画を立てていた。F先生は私の家からさほど遠くないところ住んでいて、私がバス停で待っているところに、ちょうど犬の散歩で通りがかった。咄嗟に、「今日は学校が休みなので県立図書館まで勉強に行きます」と聞かれもしないことをこちらからしゃべり、大に感心されて、事なきを得た。町立図書館ではなぜだめなのかと質問されれば往生したと直後に思ったが、それよりその日が月曜日であったことにあとで気がついた。実話である。
 ベルディのアイーダの凱旋行進曲がどんな曲か知っているかと名指しで質問されたことがあり、そのときは答えられなかったものの、すぐあとに知る機会があって悔しい思いをした。アイーダの凱旋行進曲は今ではサッカーの応援曲としてよくつかわれているので、メロディーを口ずさめば誰も理解できる曲である。フジのセリエAダイジェストのオープニングに使われたのが、早い例だと思うが、大学時代にセリエAダイジェストを見ると、F先生のことを思い出した。
 教師であるときは、日頃の素の自分とはやや違う、教師というペルソナをかぶって仕事をしているわけだが、私がかぶっているペルソナは多分にF先生の影響をうけていると思う。
 私が卒業後十四年経つが、F先生は現在副校長になっていることを昨年知った。素直に喜べる知らせだった。

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2005年6月18日 (土)

お祝いの要諦

 ここ何年かでわかったことだが、お祝い・御礼・お悔やみの要諦は速やかに伝えることである。近々会う機会がある人はそこで言おうと思うのかもしれないが、たとえ一言でもいいので、即座に手紙を書いたりメールを書いたりすべきである。いちいち待っていてはいけない。
 そういうわけで、祝い事があるとすぐさまお祝いの言葉を述べ、抜刷や御本をいただいたときには感想をつけて即座に返礼するようにしている。こういったことがなかなか難しいことがよくわかっているだけに、してもらえるとすごく感激するのである。

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2005年6月17日 (金)

運転下手

 私は運転が下手である。大幅に時間を超過しながら教習期限の三日前に免許を取ったぐらいなのでほどが知れよう。今もほとんど上達せず、四ヶ月に一度は、かなり危ない目に遭う。もちろん私が悪いのである。一度、危険な目に遭うと次から注意するようになり、それは持続しているのだが、それでも四ヶ月に一度はすんでのところで事故を起こしそうになるということは、根本的に私が鈍いのだろう。
 相手がうまい具合に気づいて大事には至らないのだが、車に乗っている相手は、激怒している。以前、坂東もんは気が荒いと書いたが、こればかりは私が悪い。良妻賢母、いつくしみ深き慈母として家庭や近所で通っているであろう奥さんが口汚く私をののしっていることがガラス越しに見て取れる。音は聞えないものの「バーカ」と怒鳴っているのは明白であり、バの音で広がった口が、カの音でさらに広がった瞬間の顔は私の目に焼き付いてその後何ヶ月もなかなか離れない。おそらく、ニコニコと暮らしていた一般人が、一瞬のうちに眉をつり上げて、私に危害を加えんばかりの表情になっているのを見ると、楳図かずおの漫画の登場人物を見るようである。
 車に乗ると人格が豹変してしまうという話は、大学一二年の頃、私よりずっと先に免許を取った人たちがよく話していたのだが、私はとてもじゃないが豹変などできない。少しでも冷静さを欠くと大事故を起こしそうである。先日、たまたま危険な目に私が会わされたのだが、その時自分は勘弁してくれよと、口をとんがらせていることに気がついた。そういうわけで、私に向って「バーカ」の顔を見ると、「そんなん怒らんでええやん」とつぶやくのだが、少し間違えれば大惨事となることを考えると、やっぱり私が悪いのである。
 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』(講談社文庫、2005年4月)は、労働災害に関する発生確率を示すハインリッヒの法則なるものを紹介している。一件の重大災害の陰には、二十九件のかすり傷程度の低災害があり、その陰には三百件の怪我はないがひやりとした体験があるそうだ。四ヶ月に一度、ひやりがあるとすると、百年運転した場合に、一件の重大事故と二十九件の程度の低い事故に遭うはずで、まあ一安心。というのは、やはり無理があって、年をとって反応が鈍くなり注意力が散漫になると、かなり高い確率で事故を起こすはずなので、先ほどの計算は無理がある。
 とにかく私は運転が非常に下手なので、このブログの更新が絶えたら、交通事故にでもあったと思ってください。

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2005年6月16日 (木)

T子ちゃんの思い出

 今はなきDという劇団があって、十年程前に外注スタッフとして何度か仕事をしたことがあるのだが、どの人たちも親切だった。その劇団の女優に、T子ちゃんという女の子がいた。T子ちゃんは、ぽっちゃりした美人で常にほんわかした雰囲気が漂っていた。叩いた後に相手を気遣ってしまうSMの女王様の役などを演じたこともあったが、うまく当て書きされた役だと思う。
 1996年にDという劇団は解散したのだが、解散後にたまたまT子ちゃんと会う機会があった。どこか観に行った芝居でばったり会ったのではないかと思う。そのとき、T子ちゃんはカクスコの話をした。カクスコは男ばかり六人の劇団で、当時大変人気があった。T子ちゃんは「このまえ初めてカクスコ観たんですけど、Yさん(私のイニシャルです)にそっくりな人がいて、お芝居の途中からどうしてもYさんにしか見えなくなってしまったんですよ」と言った。私はカクスコが好きで、その時点で二三回は観たことがあった。それだけに、似ているとは自分では思わず、自分の中で候補にあがった二人の役者の顔を思い浮かべながら、「そうかなぁ」と気のない返事をしてしまった。同意を得られなかったT子ちゃんが、「えっ」と不安そうな反応を示したがそういったT子ちゃんを見たことがなかったので私が驚いた。その日、違う話もしたはずだが、全く記憶にない。
 その一年後、劇団DのメンバーからT子ちゃんが亡くなった話を聞いた。T子ちゃんはもともと心臓がわるかったそうで、ひょっとした折りに急死してしまったという。葬式にそのメンバーは参列したそうだが、全く芝居に関係のなかったT子ちゃんの彼氏が大泣きしていたという。劇団Dは学生と社会人が混じった劇団だったが、T子ちゃんは劇団Dが勧誘をしていないJ大学の学生で不思議に思ったことがある。T子ちゃんの訃報を聞いたのは、T子ちゃんの葬式が終ってかなり経ってからであり、T子ちゃんの実家はY県だそうで、私がなにかしてあげられることはなかった。
 カクスコは2002年に解散したが、T子ちゃんの死後、解散公演も含めて少なくとも二回は観に行っていると思う。カクスコ解散後もメンバーが時折、CMに出ることがあるが、T子ちゃんは私が誰に似ていると思っていたかきちんと確かめておけばよかったと思う。

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2005年6月15日 (水)

ブログ今のところ

 とりあえずブログは毎日更新を目指していて、今のところだいたい守られている。毎日更新なんて随分暇だねと思うかも知れない。ブログ記事だが、一日ごとに書いていると頭を使うので、ネタだけ書き溜めておいて、三週間に一回の割合で一気に書き上げることにしている。研究とは違って、ほとんど好き放題書いているので、四五時間で二十程の記事が書き上がる。それらのうち、その日の気分に一致したものをブログに載せるようにしている。そのうち書きはしたものの使わないのが二三ある。逆にどうしても書きたくなって急遽記事を作ることもあるが、文章とはちょっと間をおいて見直した方がよいので、すぐにブログには上げないようにしている。この文章も書かれて四日程経ってからブログに上げている。
 当初、ネタが尽きたらやめにしようと思っていたのだが、書きたいことはいくらでも出てくる。もの言わざれば腹ふくるる心地がするので、書き続けるつもりである。ただ、当初多かった何かへの文句や恨みつらみは、読み返すと「おのれは何と暗い性格なのだ」と、自分の気分が滅入ってくるので、書かないか、書いてもお蔵入りにしている。ブログを始める前には艶笑譚のいくつかでも書こうかと思っていたのだが、それも全く沙汰やみになっている。
 問題だと感じているのは、書き方の種類が限られていることである。書くものの数が増えていくと、文章の構造が同じで、話題だけがすりかわっているものが現れてくる。それでも、各文章に込められた思いは少しも陳腐なものではないと思うのだが、私の書いた文章どうしが似てしまうと、私の感動もおしなべて似た顔のようにうけとられるのではないかと、危惧してしまうのである。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』によればロシア民話は三十一の型に集約できるそうなので、随筆も書き方に限界が出てくるのはおかしくないのかもしれないが、なんとかしたいという欲目が今のところある。

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2005年6月14日 (火)

歩くのが遅い長崎人

 長崎人の特性として、歩かなくて良いところは決して歩かないということがあげられる。長崎市では、山腹に人が住んでいて、移動は平地へ降りていって行うのだが、わずかな平地のそのほとんどが路面電車で網羅されているので、行きたいところはたいてい路面電車で行くことが出来る。路面電車は大人百円と格安で、なおかつ本数が非常に多いので、電停二つ分ぐらいでも歩くことはほとんどない。かつて、東京の人たちを案内したときに、目的地の建物がすでに見えているのに路面電車に乗ろうとする私をみないぶかしがったものだが、結果としてすんなり移動できたことに驚かれた。
 そういうことがあるので、長崎の人間は非常に歩くのが遅い。私は郡部に住んでいて、通学の際に多少の距離を歩いていたこともあって、地元にいた頃は歩くのが速いと思っていたが、東京に出るとほぼ平均並である。
 なお、長崎大学から新地まで電車に乗ったとき、同行の東京の人たちに何駅ありますかと聞かれたが、そのようなことは一度も考えたことがなかった。電停ごとの距離はまちまちであり(二十メートルもないところもある)、行く時間は信号にも左右され、しかも電停はかなり多いので、電停いくつ分を今から行くのか考えながら乗る長崎の人はいないと思う。

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2005年6月13日 (月)

徒歩通勤率日本一

 長崎は自転車普及率が日本一悪い県だそうである。坂ばかりなので降りるとなかなか戻ってこられない。市の中心部は石畳が復活しているので、尻が痛くなるなど、自転車は不便なのである。通勤手段として、徒歩のみの割合が日本で最も高いが、理由はよくわからないと毎日新聞に載っていた。思うに理由は単純で、他県なら自転車を使う距離でも、自転車を使わずに徒歩で通っていることが多いためではないだろうか。

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2005年6月12日 (日)

長崎人の気質

 長崎人の気質として、古いものを大事にしないことがあげられる。観光を主産業としているにもかかわらず、不思議なことだが、古い建物を残そうという意欲に乏しい。旧上海銀行も取り壊し寸前だったし、南山手・東山手の洋館群も長い間手が付けられていなかった。少し古くなると、原爆で破壊された浦上天主堂を、広島の原爆ドーム同様に残そうという運動はほとんどもりあがらないまま、今の天主堂が破壊された天主堂の上に作られた。もっと古い話では、出島は水害の被害を出しかねないという理由で埋め立てられてしまった。このように古いものを大事にしないという気質は、よくいえば常に新しいものに目を向ける進取の気質の表れであろう。
 しかし、江戸時代・明治初期ほどの栄光はもう訪れないことを考えると、古いものを大事にしていくことがより重要になるだろう。とはいえ、趣があった長崎県立美術館をつぶして、立山奉行所を一部復原した長崎歴史文化博物館を作るのは、間違った方向だと思うのだがどうだろうか。それほど、手狭だったとも思えないのだが。私は母に連れられて、県立博物館と県立図書館に幼い頃からよく行っていたため、それらが失われるのは少しく淋しく思う。

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2005年6月11日 (土)

韓国のロックスター

 私は似ている人が少ない顔立ちだが、まだ若かりし頃、韓国からの女子留学生に、韓国のロックスターに私が似ていて見ているとドキドキしますと言われたことがある。お世辞にもよい面ではないのだが、役者ではなく、ロックスターなら似ていてもおかしくはない。いったい誰に似ているのかまで聞きそびれたが、滅多にそういうことを言われないので、非常に気をよくした。
 近年、韓流ブームで韓国の俳優や歌手などがよく紹介される。気になって時折見ているが、くだんのロックスターはこの十年程の間に凋落したのか見つけることが出来ない。
 もっとも、私もまんまる顔と出っ腹のおっさんになってしまって、間違っても似ているとは主張できない状態である。
 

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2005年6月10日 (金)

坊ちゃんと松山

 漱石の『坊ちゃん』では、松山は坊ちゃんの目を通して散々な言われようであるである。最後に至っては「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。」と書かれている。また、ドラマ・映画化された『坊ちゃん』とは全く違って、原作の坊ちゃんは自分の生徒を全然愛していないのである。
 普通このように書かれては、松山市民の心は煮えくりかえるはずである。漱石の本は図書館に一冊も入れない、書店にも置かないことはもちろんのこと、漱石の千円札の流通は決して許さず、正岡子規の肖像が入った地域通貨との交換を義務づけるぐらいしそうなものだ。
 実践女子大学の創設者下田歌子のことを、山田風太郎が小説で姦婦として描いたため、実践女子大学には山田風太郎の本が一冊もないという話を聞いたことがある。ちくま文庫で該当する小説を読んだのだが、もう手元にないので作品名は忘れてしまったが、内容はよく覚えている。やや行き過ぎかもしれないが、こういった反応が普通である。
 ところが、坊っちゃん電車、坊っちゃん団子、坊っちゃんスタジアムと松山は坊ちゃんだらけである。小説は小説という割り切りが出来ているのか。それとも、一年だけとはいえ実際に松山中学の教壇に立った漱石の人徳が、現地の人たちに理解されていたのかよくわからないが、松山市民の寛容さは美徳である。小学校の教科書に採られているぐらいだから、実際に『坊ちゃん』を読んだ人がほとんどいないというオチもないだろう。
 

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2005年6月 9日 (木)

目を見て話さないあるいは独り言

 韓国から来た女性の研究者によると、日本人は目を見て話さないという。そういえば、私もあまり目を見て話さない。子どもの頃はちゃんと目を見て話をしていた気がする。大学二年生の頃に、同学年の女子学生と口論して(というよりほとんど一方的に罵られた挙句)、「ちゃんと目を見て話なさいよ」と言われたことにかなり腹を立てた思い出があるので、もうそのころから目を見て話さなかったのだろう。韓国の女性研究者に言われた後に、二人で立って話をしているときに、私は一体どこを見ているか意識してみた。どうやら、ちょっと目を合わせたあとは、斜めに目をそらしていて、時折視線を元にもどしているらしい。それ以降、できる限り目を見ながら話そうとはするもののまだ上達していない。
 そういう状態なので、こちらとしては会話のつもりで話していても、独り言と思われることが多いらしい。困ったことに、もともと独り言が多いので混乱に輪をかけることとなっている。責任を他人のせいにするわけではないが、母が独り言をよく言うので、変なことだと思っていなかった上に、一人暮らしが長かったので、すっかり癖になってしまった。
 こういった気味の悪いことを他人に言う露悪趣味があるのだが(このブログ記事だってそうです)、「あら、私だってよくありますわ。きょう寝坊して、目覚まし時計見て、うそって言ってしまいましたわ」とか言ってうまく切抜ける人は稀で、下手するとそこで会話がとぎれてシーンとなってしまい、自ら招いた状況とはいえ、バツが悪いものである。

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2005年6月 8日 (水)

映画『里見八犬伝』

 深作欣二監督作品の『里見八犬伝』だが、いろいろ毀誉褒貶はあるものの、豪華な役者陣や音楽など、それなりに楽しめる作品だと思う。ただ、薬師丸ひろ子と真田裕之とのラブシーンのぬるさは、日本映画史上屈指であろう。これより、ぬるいラブシーンのある映画はなかなかあるまい。さすがの深作欣二の手もアイドルの壁は越えられなかったのだろうか。
 また、NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』で非難囂々だった鎌田敏夫が脚本を担当しているが、各場面は面白いものの、全体を通して観ると全く駄目という傾向は、『里見八犬伝』ですでに顕著である。

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2005年6月 7日 (火)

原田知世の結婚

 好きな女性のタイプや女優を聞かれることが稀にあるが、特にありませんと答えるのも気まずいことが多いので、原田知世(のような人)と答えることにしている。
 原田知世の出る映画はすべて観たとか、出るドラマはかならず観るといったファンではなく、同じ郷里の長崎の出身でもあり、『時をかける少女』などを観てなんとなく好ましいと思っている程度である。それでも、好みのタイプの筆頭であるのは確かである。
 昨年、たまたま機会があって原田知世の代表作『時をかける少女』を、十年ぶりぐらいに観た。驚いたことは、私も年をとったせいか、印象がかなり変わって、映画の中の原田知世に対し、長崎によくいるタイプのきれいな女の子だと思ったことである。もともと私の方が五つ年少であって、しかも『時をかける少女』を最初に観たときは私が小学生か中学生ぐらいだったはずなので、ずっと年上の印象があった。もうひとつ驚いたことは、演技があまり上手でないということである。むしろ大根に近いかもしれない。それを初々しさに結びつけて映画を成功させているのは、大林監督の力量だろう。
 同時期に薬師丸ひろ子の『探偵物語』『里見八犬伝』『Wの悲劇』を観る機会があった。薬師丸ひろ子は、原田知世より上の扱いを受けていた角川映画の看板女優である。だが、私は顔の造作も雰囲気も嫌いだった。ところが、『探偵物語』や『Wの悲劇』の薬師丸ひろ子はすばらしかった。私が東京に出てきて、都会の女の子はきれいだなと思ったころの、きれいな女の子だった。演技はやや過剰だが、懸命さが伝わってくる感じだった。原田知世より薬師丸ひろ子の方が映画の出演回数に恵まれていたのも、故あってと思う。
 原田知世は2005年5月に入籍したそうである。妖精めいた印象もあって、結婚などしないのではないかと思っていたが、ちゃんと現実の色恋をしていたようである。一方、薬師丸ひろ子だが、最近『タイガー&ドラゴン』に出演していたのだが、すっかりおばさん扱いされていてため息が出た。角川映画の主役を張っていた頃に比べると、年を取ったのはいなめないが、味が出てきて非常に好きである。
 しかし、私がかつて薬師丸ひろ子ファンであったなら、今では好みのタイプは薬師丸ひろ子だということはないだろう。原田知世だからそう言い続けられるのではないかと思っている。

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2005年6月 6日 (月)

伸びる生徒

 同じ国語を担当する塾の同僚であり、また私と同じ研究室に所属する畏友K君とは、年度が終る度に二人で飲んでその一年を総括したものだった。ある時、伸びる生徒の条件について意見を出し合ったのだが、性格が素直で教師がいうことをよく聞く生徒ということでぴたりと一致した。
 自分でも教師としての力量が飛びぬけて優れているわけではないことはわかっているが、それでも私の指導にしたがってきちんと学習すれば、それなりの成果はあがるだけのことはやってきたつもりだ。たとえば答案が戻ってきたらちゃんと復習しなさいとか、わからない言葉があれば辞書を引きなさいといったことは基本的な指示だが、守れている生徒はほとんどいないものである。
 また、欠点を指摘された後、素直にそれを認めて、次に同じ過ちを犯さないようにすることは意外と難しい。高校一年生に作文をやらせてみると、進学校の生徒もそうでない学校の生徒も最初は欠点だらけの文章を書く。しかし、短所を指摘し、よりよい書き方を教えれば、進学校の生徒は二回目からうまく書ける確率がかなり高いのに対して、そうでない学校の生徒は何度指摘しても同じ疵のある文章を書くのである。頭の良さとは、失敗を素直に認めて原因を改められることにあると思う。
 意見の一致をみたことで、K君と私は深くうなずきあったのだが、ひるがえって我が身を振り返ると、「いやあ、守れていませんね」、「全くです」と苦笑いをするしかなかった。
 

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2005年6月 5日 (日)

失敗学と切腹

 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』は、日本の社会が失敗に関して非寛容であることを指摘し、改善すべきだと主張している。世界中どこを探してもおいそれと失敗を許してくれそうな社会はないような気がするのだが、日本社会が失敗をなかなか受け入れないのは、日本社会の悪い伝統であろう。その悪い伝統は、日本に切腹の文化があったことと関係しているのではないかと思っている。
 氏家幹人『江戸の少年』などを見ればよくわかるが、江戸時代の武家階級は問題があるとすぐ切腹ということになってしまうのだ。私も人生でいろいろしくじりをやらかして、始末書を書いたり、丸坊主になって謝罪したりしたことがあるが、江戸時代なら私はもう切腹してこの世にいないかも知れない。
 今も「切腹もの」「詰め腹を切らされる」といった、責任と切腹の関係が残っている言葉が使われるが、こういった言葉がなくなる頃には、日本社会にも失敗学が根付いているだろうか。期待しておく。

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2005年6月 4日 (土)

古書蒐集と六十干支

 名うての古書蒐集家として知られるF氏は、和暦の年が西暦の何年にあたるかをそらんじていることはもちろんのこと、十干十二支の組み合わせである六十干支のどの年であるかも暗記している。
十干とは『広辞苑第五版』では、

甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の総称。これを五行に配し、おのおの陽すなわち兄(え)と、陰すなわち弟(と)をあてて甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)などと訓ずる。普通、十干と十二支とは組合せて用いられ、干支かんしを「えと」と称するに至った。

と説明されている。
十二支は大丈夫だと思うが念のために、『広辞苑第五版』を引いておくと、

暦法で、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の称。中国で十二宮のおのおのに獣をあてたのに基づくという。すなわち、子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は竜、巳は蛇、午は馬、未は羊、申は猿、酉は鶏、戌は犬、亥は猪。そのおのおのを時刻および方角の名とする。

ということになる。
 西暦のように一直線の時間の概念が入っていなかった頃は、十干と十二支を組み合わせて、六十年で一回りとし、時には年号と組み合わせて年をあらわした。壬申の乱の壬申や戊辰戦争の戊辰などがそうである。また、六十年で一回りということは、還暦を祝う風習が今でも残っているので知られていることだろう。ちなみに今年平成十七年は平成乙酉(いつゆう)年である。

 前置きが長くなったが、F氏は「文化丙寅」とか「安永庚子」とかみただけで、それが文化三年で1806年だとか、安永九年で1780年だとかわかるのである。これが古本集めに役に立つのは、古書の成立年(刊記・奥付・序文・跋文などが手がかりとなる。刊年と書かなかったのは写本の場合があるから)が数字でなく六十干支で書かれている場合があるためである。ある本が何年に書かれたあるいは出版されたかが本の貴重さを教える重要な情報であることは簡単に想像がつくだろう。六十干支で本の成立年次をつかめることは、古書展の蒐集で生き馬の目を抜くための必須技量なのである。

 覚え方のコツをF氏に少しだけ教えてもらった。自分がよく覚えておきたい年号の元年が十二支の何にあたるかをまず覚えることがよいらしい。天明元年が丑、寛政元年が酉、享和元年が酉で、文化元年が子といったことを覚えておくと、あとは各年号が何年続いたかという知識と照らし合わせれば、判明するというわけである。
 私はというと、記憶力に自信が全くないので、六十干支つきの和暦・西暦対応表一覧を常日頃携帯していて、必要な場合はそれをとりだすことにしているのだが、そういった悠長なことではつとまらないのが、古書蒐集の世界なのである。

追記 厳密に言うと、和暦と西暦の年がぴったり同じになるというわけではないことはわかっています。

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2005年6月 3日 (金)

いまどきのカセットウォークマン

 ある人から落語のテープをいただいた。ところが、うちにあるCDラジカセはかなり昔からカセットが壊れており、やむを得ず、防災を兼ねてラジオのついたソニーのウォークマンを買ってきた。
 思い起こせば、高校時代にお年玉を遣って、再生専用のウォークマンを買ったことがある。通学中に英語の勉強をするのが目的だったが、レンタルCDからうつした曲や、通常のラジカセでラジオ放送から録音しておいた(エアチェックというのが通りがよいか)曲を聴くことに主に使われた。小さいにもかかわらず、明瞭でかつ低音に迫力があり、その音質の良さに驚かされたが、黒色総金属の作りも高級感に溢れ、所有欲を満足させるものだった。
 今、店舗に行ってカセットのウォークマンを見ると、総プラスチック作りで箱にすら入っておらず、ビニールの袋につり下げされて売られている。値段が四千円から八千円ほどと安いのは有難いのだが、もうあの高級感のあるカセット用ウォークマンの新品は売られていないのかと思うと淋しくなった。
 考えてみれば、現在、録音はICレコーダーを使っている。それでなくても録音媒体としてはMDが次の選択に来るだろう。カセットは最後の最後である。レコード再生機が手に入りにくいように、カセット再生機が電気屋から姿を消しても当然の趨勢としか言いようがないのかもしれない。
 私の持っていたウォークマンは、大学二年生のころ壊れて使えなくなってしまった。実家には、高校時代何日もかけてラジオ放送から録音したバイロイト音楽祭のワーグナーのテープが大量にあるはずだが、どこに保管してあるのだろうか。つぎに実家へ戻ったときに探して聴いてみることにしたい。

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2005年6月 2日 (木)

洗顔料のスクラブ

 顔の油がひどくなってきたので、何年かぶりに石けんではなく洗顔料を使うことにした。久しぶりに、洗顔料を購入したところスクラブが入っていた。このスクラブというのは曲者で、しょっちゅう目に入って大騒動になる。まだ、高校生の頃スクラブ入りの洗顔料を買ってひどい目にあったので、気をつけていたのだが、うっかり買ってしまった。もったいないので、仕方なく使っていたが、最初の内はたびたび目に入ってつらいことばかりであった。最近になって、ようやく目に入らないように顔が洗えるようになった。
 このスクラブだがいかほどの効用があるのだろうか。ネットで検索したところ、スクラブは顔の皮膚を傷つけるのでにきびには厳禁と書いてあったりして、むしろ有害な場合もあるようだ。
 今後洗顔料を買う機会があったら、間違いなくスクラブなしのものを買う。世間の人が私と同じ了簡なら、スクラブ入りの洗顔料は淘汰されてなくなってしまうはずだが、現に売られており、陳列棚の主流となっているのには理由があるのだろう。世間の人は私のように粗忽ではなく、スクラブ入りの洗顔料を悠々と使いこなし、その恩恵に預かっているということだろうか。
 しかし、あえてここではメーカー側がいりもしないスクラブを、男性用洗顔料のなかに含めている理由を考えたい。不必要な物がついている化粧品類の代表例は、カミソリのスムーサーだろう。替え刃のうえにとけて刃の滑りをなめらかにする物体がついているが、大して使わないうちにとけてボロボロになってしまう。これがとけようと、刃の方は問題なく使い続けられるのだが、心理的な圧迫を感じて、刃も取り替えてしまう人が多いらしい。以前メーカーが調査したところ、ほとんどの利用者が、半年に一度しか刃を替えないということがわかったので、あのスムーサーなるものはカミソリの替刃をつけて対策をとったのである。
 スクラブもいらないのだが、メーカーが無理矢理混入させていると私は読んでいる。男の洗顔は烏の行水になりがちだが、スクラブをつけることで、しっかり洗顔させる効果があるのである。いい加減にしか洗わないと、スクラブは落ちず、あとで目にはいるなどして大変なことになる。やむを得ず、しっかり顔を洗うのだが、これによって烏の行水では残ってしまう肌を荒す洗顔料はもちろんのこと、顔の脂がきちんと落ちて、利用者は「うむ。よい洗顔料であった」と納得するのである。私も日頃烏の行水式の洗顔をしていたが、スクラブ入りの洗顔料を使っている限り、否応なしに念入りに顔を洗うこととなる。
 かつて葛飾区の病院で、当直担当医が患者急変の知らせに、いま顔を洗っているのでいましばらく待つようにと答えたことが問題となっていた。目を覚ます効果もあるし、どうせ十秒程度で済むことならやらせてやれよと思うのだが、世間の人の洗顔にかける時間はもっと長いのだろうか。少なくとも、スクラブ入りの洗顔料で顔を洗っている限り、結構な時間を取られるのだが、普通の人たちが考える洗顔とは、烏の行水ではなく、念入りにスクラブ入りの洗顔料を使うことになっているのか興味がある。

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2005年6月 1日 (水)

なくさない傘

 昔は深酒したので、外で飲むと傘をよく忘れた。飲み屋をはしごしているうちにどこかに置いてきてしまうのである。しかし、なかなか忘れない傘があった。昔付き合った女性の傘で、別れ話の時、私が持っていたのでそのまま私の手元に残ったのであった。もともと私の物だった傘は、その帰り道に、腹立ちまぎれに道にたたきつけたので、結果として昔付き合った女性の傘だけが残った。ちょっと小ぶりなので女性用だとわかるのだが、色や柄は男性が使っても問題がないものだったのと、貧乏で他の傘を持っていなかったので、しょうがなく使うことにした。しかし、やはり嫌なので新しい傘を買うのだが、それは買って間もないうちに酔ってなくしてしまうのである。ところが、因縁の傘は、なぜか酔ってもなくさないのである。そういうわけで、新しい傘をいくつか失った後、一年ほどその傘を使っていたと思うが、あるときかなり深酒して、とうとうその傘もなくしてしまった。どの店に忘れたか目星はついていたが取りには行かなかった。かなりせいせいした。

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