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2005年5月31日 (火)

カタカナ語の厄介さ

 カタカナ語の話を続ける。英語を由来とするカタカナ語なら、拙いながらも英語教育を受けてきたので理解できるものが多いし、少なくとも英和辞書ぐらい家にある。ところが、英語以外の言葉をもととするカタカナ語が平然と使われているとやっかいである。メゾンやドミールは、住居にまつわることはなんとなくわかるが、フランス語がもとなのだろうか。その心得がない私にはいったい何のことだかわからない。かつて、田舎道を車で走っていたところ、「エスポワール」と命名された老人ホームを発見して、同乗していた母にその意味を問われたが、全く見当がつかなかった。
 マンションの意味が日本とアメリカで異なることは、おぼろげながら知っていたが、「カタカナ語のゴタク」というブログで詳しく教えてもらった(トラックバックというのをすべきなのかもしれないが仕組みがまだよくわかっていない)。
 よくはわからないが、メゾンやドミールもフランス人が見ると腰を抜かす類の命名なのかもしれない。中島みゆきの「シーサイドコーポラス」には「シーサイドコーポラスなんて名前をつけたなら、本当のコーポラスが裸足で逃げそうな~~」という歌詞があるが、日本人はそういった命名が好きなのだろう。ちなみに、今回調べなおしたら「コーポラス」も”corporate house”をつづめた和製英語らしい。
 カタカナ語の厄介さは、その長さもある。私が現在賃借している今様長屋は、長音と拗音を含めたカタカナと漢字を合わせて十六字になる。十六字だと例えば出鱈目に作ってみて「メゾン田舎ビューティフルプレース」(いちおう、今住んでいるマンション名に似せています)ぐらいになるのだが、その異常ぶりが理解できようか。もともと分譲マンションなので、販売促進のため小洒落た名前で売出したのでだろうが、住む方としては大迷惑である。付けた人間の常識をとても疑う。昔住んでいた「○○荘」式の命名が懐かしい(荘もおおげさな命名で、今では荘といっても高級感はあまりないか)。
 最近、続々と立ちつつあるマンションのチラシをみると、そのマンション名を改めない限り絶対に住まんぞ、と言いたくなるような長くてわかりにくいものばかりである。よくわからない長ったらしいカタカナ語でマンション名をつけるのが当たり前という風潮は改まって欲しいものである。

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2005年5月30日 (月)

スマート

 自分の文章を見返すとカタカナ語が少なからずあるので、偉そうなことは言えないのだが、極力カタカナ語を使わないようにしようと思っている。生徒にも、カタカナ語は、コンクリートなど言い換えようがないもの、あるいはライオン・チューリップなど学術的に動植物を扱う場合を除いては使わないように指導してきた。
 理由としては、カタカナ語は外国語を由来とするだけに、われわれが理解しているのと違う意味合いで使われている場合が多いからである。
 かつて高校時代に米国留学の経験がある女性から聞いた話だが、大学に入って再度滞在受け入れ先を訪問したところ、お世話になったおじさんが入院していた。そこでお見舞いに行くとおじさんはすっかりやせこけてしまっていた。

そこで
”You become smart.”
と言ったところ(私の記憶が間違っているのかもしれませんが、とにかくスマートになったねと言ったと思ってください)、

「ああ、昔は馬鹿だったよ」(”Yes,I used to be foolish.”とでも言われたのでしょうか)
との返事をもらったそうである。

英国英語では、smartは痩せているという意味が主で、日本でもこの意味で理解されているのに対し、米国英語では賢いという意味が普通のようである。英語をよく理解している人ならともかく、なんとなくでカタカナ語を使うのは危険だと思っている。

とはいえ、育児の際にカタカナ語を使ってしまい、子どもがそれを覚えてしまっているのを見ると、今の子どもにとって、カタカナ語は外国語だからと言われてもキョトンとしてしまうのもわからないでもない。

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2005年5月29日 (日)

脳の保存

 E・C・タブのSF小説にデュマレスト・サーガというシリーズがあって、その中のサイクランという組織のメンバーは、死後に純粋知性体と脳を接続できることをなによりの楽しみとして生きている。
 碩学が亡くなり、その人が持っていた知識が失われてしまうのはもったいないことであり、脳だけ取り出して、保存できないかと思ったりする。とはいえ、学問の世界は仲がよいとは限らないので、異なる意見の脳をくっつけてなかよくやっていけるのか不安でもある。

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2005年5月28日 (土)

憲法九条改正

 防衛大を受験したことがある。二次試験は面接があったので自衛隊のお迎えの車に乗って、大村にある駐屯地まで行った。その年、防衛大とあと一校しか受験する予定がなかったので、もし本命の大学に落ちて、防衛大しか受かっていない場合に、自衛隊も嫌いでないので、気の迷いで行ってしまうかもしれないと考えた。そこで、なんとしてでも防衛大を落ちねばならないと思ったのである。
 面接で、君は自衛官になったら誇りをもてるかという質問を受けたとき、これ幸いと、憲法九条をたてに信頼していない人たちもいるので持てませんといったことを答えた。空自と海自の間に座って、私に質問していた陸自の面接官が、「なにっ」と眉をつり上げた。
 今思えばなんと子どもっぽい振るまいだったのだろうと大いに反省している。国語教師でもあり、日本の文学の研究者という立場もあるので、現在、外国の軍隊が攻めてきたら、一兵卒になり武器を取って闘う覚悟があるが、そういう前科がある私をはたして雇ってくれるだろうか。
 近年になってやっと憲法改正の議論がなされるようになったが、何はともあれ、憲法第九条が改正されて、自衛隊の宙ぶらりんな規定が早くなくなればよいと思う。

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2005年5月27日 (金)

相好を崩す

 私はお酒に目がない。偉い先生から「この中にお酒が出ただけで相好を崩す者がおる」と暗に私のことをさして叱られたこともある。とはいえ、お酒はやっぱり嬉しそうに飲む人と相伴するのが楽しいと思う。
 それはさておき、私の大学院の先輩にTさんというラッセル・クロウに似た恰好良い男性がいた。Tさんは親切な方で、私が修士論文を書いている際には手伝ってくれた。だが、Tさんにはやや欠点があった。美人とそうでない女性とで態度が異なるのである。本人は意識していないのかもしれないが、美人を相手にすると、相好を崩したが、不美人が相手だとつまらなそうに見えた。Tさんは家庭の事情もあって研究を続けられなかったが、それ以外にTさんのそういった態度が影響しているのではないかと、なんとなく思っている。

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2005年5月26日 (木)

茨木のり子の詩

 私がかつて詩を授業で扱った際に、島崎藤村・高村光太郎・中原中也といっしょに収められていた茨木のり子の詩を、他の三人に比べてあまりに簡略に扱ったので、ある女子生徒が非常に憤慨した。茨木のり子の詩も悪くなかったが、他の三人に比べるとどうしても見劣りしたし、なによりそのナイーブさについていけなかった。茨木のり子ではなく、萩原朔太郎が入っていればいいのにぐらい考えていた。
 ところが、先日現代詩の話になったとき、源氏物語を研究しているF先生が茨木のり子さん(さんづけでした)の詩を高く評価しておられることがわかった。F先生にくだんの女子生徒の話をすると非常に感心なさった。
 どうやら、わかっていないのは私の方だったようなのである。

  初々しさが大切なの
  人に対しても世の中に対しても
  人を人とも思わなくなったとき
  堕落が始るのね 堕ちてゆくのを
  隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
                  (茨木のり子「汲む」より)

授業で扱った詩の抜粋である。

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2005年5月25日 (水)

グランドホステス?グラウンドホステス?

 業者物だったが、かつて生徒にやらせた課題に将来なりたいものを書かせる設問があった。ある女子生徒がグランドホステスと書いたので、一瞬驚いたが、となりにキャビンアテンダントとあるので、どうやら地上勤務員のことだと理解できた。
 とはいえ、グランドホステスではgrandhostessで、私などは古くさいグランドキャバレーのホステスかと思ってしまう。私よりもっと若くて英語の堪能な人に聞いたところ、おそらく和製英語で、店の奥で指示を出している偉いホステスさんといったイメージになってしまうらしい。
 groundhostessなら、グラウンドホステスになるだろう。驚いたことに、ネットで検索すると8290例もあって、グランドホステスでちゃんと通用しているのである。むしろ、グラウンドホステスが92例で格段に少ないのである。ということは、その間違いもあながち女子生徒一人の責任ではないことになる。土に関係のあるグラウンドをあえて避け、「偉大な」のグランドを誤用と知りつつわざと使っているのではないかと疑っている。

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2005年5月23日 (月)

下町の人情

 下町と人情がひとくくりで語られるようになったのはいつからだろうか。下町の人の人情とは共同体の内部に向いているのであり、外部の人間にはむしろ冷淡だというのが、私の実感である。下町の人も、他人に対して格段にあたたかみがあると思われているのはむしろ迷惑だと感じているのではないだろうか。
 下町に住んでいる人たちが自分たちの住んでいるところに誇りを持つのは当然だろうが、よそ者がわざわざ浅草・向島・谷根千のようなところを称揚し散策するのはわけがわからない。
 むしろ、田園調布や松濤のような高級住宅街などを散策してみてはどうだろう。凄いこと請け合いで、自分も少しは頑張ろうという気になるのではないだろうか。『東京人』や『散歩の達人』が、高級住宅街をほとんど扱わないのはなぜなのかねぇ。

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下手な言い訳

 待ち合わせに遅れそうなときに、電車が遅れてと言い訳しようと思っていると本当に電車が遅れて弱り目に祟り目になったりする。原稿が間に合わないときに、パソコンが壊れてと言い訳しようかと思うと、本当に壊れる。
 確率の問題として単なる偶然だと思うが、下手な言い訳は実現するので考えないようにしている。

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2005年5月22日 (日)

傍線

 『三四郎』には、図書館のどの本にも書き込みがあることに三四郎が驚嘆する場面があるが、コピー機が普及したせいか、最近は図書館の本への書き込みが減ったと思う。とはいえ、傍線が引いてある本は少なくない。
 傍線は、日本の場合、縦書きの文の右側に引く。ところが、韓国・中国・台湾では縦書きの文の左側に引くようである。アンダーラインという考えからすると縦書きでも左側に引くのが正しい気もするが、やはり目に慣れない。図書館の本に引いてある、縦書きの文の左側の傍線を見ると、外国人留学生が苦学している様が目に浮かぶ。

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袖から見る落語

 ある小屋でアルバイトをしていたとき、袖から落語を見る機会が何度もあった。袖から見る落語というのは全然面白くなく、正面から見る芸なのだとよくわかった。かえって音だけの方がましであった。色物の手妻などは、袖から見られるのを非常に嫌がるようだった。なにせ横から見ると、手品の種ははっきりわかる場合がほとんどなのである。

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2005年5月21日 (土)

柳家三三の印象

 柳家三三という二つ目の噺家がいる。小三治の弟子で、古典落語ばかりしていた。高座をよく見ていたのは、1997~1999年だったが、はっきりいってつまらなかった。当時、柳家喬太郎や三遊亭新潟(今の白鳥)など新作落語の演者が好きだったためでもあるが、古典をやるから偉いでしょといった態度が三三から見え隠れするようで嫌いだった。
 その柳家三三が「にっかん飛切落語」で2001年度から努力賞・奨励賞・大賞・奨励賞ともらっているらしい。私自身ここ五年程寄席から足が遠のいているが、三三には非常につまらなかった印象しかないので、どれだけ化けたものか見てみたいと思う。

補記:さくねんですがテレビで見ました。上手くなりました。オレって上手いだろうって顔に書いてあります。そういう噺家は嫌いじゃないです。(2007.1.07)

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2005年5月20日 (金)

花緑の凄さ

 柳家花緑は、人間国宝五代目小さんの孫で、1994年に22歳で真打ちになっている。私が落語を寄席で見だしたのは1996年からだが、花緑は下手というのがもっぱらの評判だった。私が始めて花緑の高座を見たのは1997年で、なんということはない普通の噺家だと思ったのだが、隣に座っていた初老の男性が奥さんに花緑もうまくなったねぇと感に堪えない様子で言っていたので、最初はよほどひどかったのだろう。今では名人の器とは言わないが、ちゃんと追っかけもいて、下手などと決して言われない腕前のようだ。
 普通だったら、下手のくせに祖父の七光りで真打ちになって、やっかみをうけ、揶揄されれば、へこんでしまうのだろうが、精力的に高座に出て、力をつけていったところが凄い。残念ながら早世した四代目桂三木助にその図太さがあればと思うが、なかなか余人に真似の出来ないのは確かである。

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2005年5月19日 (木)

草双紙の値上がり

 古書会館で開かれる古書展で、草双紙の端本の値段がめっきり高くなった。以前なら、一冊300円~500円程度のものがあったのに、刷りや程度の悪いものでも1000円以上するようになった。聞くところによると、ネットオークションのせいらしい。古書展で買ったものを、すぐさまオークションに出す手合いが増えて、そんなことならと、草双紙の値段は全体的に高騰しているという。草双紙は絵入なので、オークションでは見場がよくて売れるのだろう。
 小銭を稼ぐためにせどりをやっている人たちに本への愛情があるかないか聞くだけ無駄なのだろう。端本を買って帰ることは楽しみの一つだったのだが、今の値段ではちょっと買う気にはならない。せめて、草双紙の値段が上がることで、今まで以上に大事に保管されて後世に伝えられること期待しておく。

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2005年5月18日 (水)

蝶々結び

 刑事コロンボに「自縛の紐」という回がある。殺した相手があたかも生きているように、死後靴を履かせたものの、蝶々結びの紐のつくりが違うことを見抜かれアリバイが崩れてしまうという内容だ。
 普通の右利きの人は左手で輪っかを作って蝶々結びを作るが、私は逆で右利きにもかかわらず右手で輪っかを作っていたことに、中学生の頃そのテレビドラマを見て、始めて気がつき驚いた。おそらく、子どもの頃、人が作っているのを鏡のように真似て蝶々結びを覚えたからだろう。蝶々結びがなかなか上手にならなかったのを思い出す。左手で輪っかを作ってみたが、はじめてなのにすんなりできた。しかし、習慣なので今でも右手で輪っかを作っている。
 私が「自縛の紐」の回の犯人だったらどうなっていただろうか。

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2005年5月17日 (火)

本の帯

 喜国雅彦の『本棚探偵の冒険』によれば、本の帯の有無は推理小説の古書価を大に左右するものらしい。それでなくても、本の帯にある献辞は、著者の交友関係を示すもので、研究上有用な資料らしい。
 帯を大事にする人がいるかと思えば、箱はもちろんのこと、帯もカバーも捨ててしまう人もいる。私はどちらかというと、進んで捨てはしないものの、帯に執着する方ではない。帯があると読みにくいのは確かで、しばしば破れて失われてしまうが、それを防ごうという努力もしない。私の研究する近世の和本には当然のことながら帯はなく、和本を大事にする習慣はついたが、帯がそこに含まれていないことも理由の一つかもしれない。
 スティーブン・キングの『小説作法』には、川上弘美が「私はこの本を読んでたいそう感心した。けれど同時にものすごく悲観した。私は一生キングにはなれないと痛感してしまったから。作家・川上弘美」という献辞を寄せていた。私の持っている初版第二刷本ではそうである。だが、本屋に並んでいる本は、いつの間にか「野口悠紀雄氏推薦」といった帯に替ってしまった。これは野口悠紀雄が『「超」文章法』で、キングの『小説作法』を誉めているので、出版社が、野口悠紀雄から推薦の言葉をもらって、帯の文句を新しくしたのだろう。
 『小説作法』を読む人は、どこかに小説あるいは文章を書く参考にしたいという下心があるだろう。結果的に「私ですらキングになれないのにましてや」といった冷や水を小説作法の読者にあらかじめ浴びせている川上弘美の帯の文句が売り上げに貢献しないのは確かで、交替もやむを得ないとは思う。
 なお、川上弘美がどこに悲観したのか具体的に書いていないので、推測するしかない。厳しい環境で育ち、書くことに苦しみつつも、その執念を捨てない態度を持っていたキングと比べると川上弘美の人生はお嬢ちゃんの人生としか言いようがなく、とてもかけ離れた存在だったということではないだろうか。
 野口悠紀雄は、戦中・戦後に幼年期を過ごしており、タフな人生経験はキングと遜色ない(野口悠紀雄も片親だったか。記憶が曖昧)。また、野口悠紀雄は学者であり、結局のところ小説家として、キングと自分を比べるという必要性がない。そのため、悲観する必要などどこにもないのだろう。私は、野口悠紀雄が薦めているので、手に取ったのだが、悲観するようなことは感じ取れなかった。
 川上弘美が将来研究される作家になるかわからないが、スティーブン・キングの『小説作法』の帯の文句は、研究資料として有用なのではないかと思う。

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2005年5月16日 (月)

農家の思い出

 私の住む埼玉県S市は農業を主産業にするだけあって市街地から十分程車を走らせるともう田園地帯である。なかなかの規模の農家が今でも相当数残っている。正確に計ったわけではないが田圃よりも畑の割合の方が大きいようだ。私が育った長崎県のN町というところは、現在長崎市のベッドタウンとなっているが、私が移り住んだ二十五年程前は、今も盛んであるみかん栽培だけでなく、稲作もまだ多く行われていた。
 小学校一二年のころ、名前順が近いこともあって親しかったY君のうちは、お父さんが会社勤めをして、じいさんばあさんおかあさんが農業をするという、社会科で言うところの第二種兼業農家だった。とはいえ、家の造りはいかにも農家らしくて大きくて、家の近くはY君の田圃が結構な広さであった。そこにY君とY君のお兄さん、Y君の祖父母、Y君のご両親にY君の叔母さんが住んでいた。幼かったので叔母さんというものがわからず、私はお手伝いさんだとずっと思っていた。
 Y君は小遣いに不自由していなかったようで、当時流行りのガンダムプラモデルの新製品を必ず予約して購入し、私はY君の買物について行き、その組み立てを眺めるというのが常だった。今でもブックオフの片隅などに積まれている昔のプラモデルは、今でこそ他愛のない代物だが、子どもの私にとってはまばゆい品であった。
 同じ校区とはいえ、私のうちとY君のうちは、ほぼはじとはじに位置しており、子どもの足では相当の距離があった。最初の内は遅くなるときは、私の家に電話を掛けさせてもらってから帰っていたが、電話も只ではないとY君のおばあさんがいうものだから、そののち家との連絡など特に気にせず暗いときでもそのまま帰っていた。今と比べて誘拐などの心配に全くといってよいほど頓着しなかった。
 Y君のうちは部屋が多かった。入り口近くにあった来客用の部屋、代々の天皇とY君の先祖の写真が飾ってある部屋、台所の上にあるY君がおばけが出るといっていた部屋、建て増しをした新しい部屋などとにかく部屋だらけであった。それらの部屋のうち、外に面していない部屋は谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』に出てくる日本家屋のごとく昼なお暗かった。庭には農作業の機械を入れる納屋があった。農家の暮らしは季節感に富んでいて、たけのこを煮る匂いや障子のはり替えの糊の匂いなどが季節によってしたが、基本的には古い家独特の匂いがした。展示されているものではなく、人の住んでいる農家をじっくりと見物するという経験は、Y君の家を除けば、島原の千々石にあるまたいとこの家で何度かある程度で、今思えば貴重な体験であった。
 Y君とは三年生のクラス替え以降疎遠となり、以後の人生で三分も喋っていないと思う。十五年程前に、Y君の家のあたりは区画整理があり、Y君の家は古びた農家からこぢんまりとした何の代わり映えもない家にかわっていた。Y君の家族構成がどうなったのかはもちろんのこと、農家を続けているのかも、もうわからない。
 今、地方を歩いて農家を見た際に、いささかなりともその内部の作りや、そこでの暮らしが想像できるのはY君のおかげである。感謝している。
 昨日息子を連れて農村地帯を散策したゆえ記す。

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2005年5月15日 (日)

長崎でのヤクルトの試合

 プロ野球にはフランチャイズという興行権が各地域に設定されているが、長崎ではヤクルト・スワローズがフランチャイズを持っていた。ヤクルト・スワローズのオーナーだった松薗氏が五島出身だったためらしい。松薗氏が、巨人が優勝してヤクルト・スワローズは二位でよいという主張をしていたこともあってか、80年代後半のヤクルト・スワローズは大変弱かった。
 また、長崎にあった大橋球場は、温水シャワーすらないという選手にとって人気のない球場だった。また非常に狭かったため、ホーナーが一試合三本のホームランを打ち、「センターフライがホームランになる」などとコメントしていたと思う。今ではビックNという立派なスタジアムが出来て、隔世の感がある。そんなこともあってか、長崎には、巨人は決して来ず、広島との試合が多かった気がする。
 また、試合があるのも、ちょうど五月の中間テストのあたりと決まっていて、中高生にはほとんど観に行く機会がもてないものだった。
 私は土橋監督時代からのヤクルト・スワローズファンだが、関根監督時代が一番面白かったと思う。池山・広沢・外国人のクリーンナップに、若松・杉浦・八重樫・角といったベテランがおり、栗山・苫篠・荒井といった若手が控え、一茂だって花を添えていた。弱投のチームだったが、尾花・高野などが力投していた。確か、最高成績は三位止まりだったと思うが、観ていて楽しい野球だった。
 野村監督になって、ID野球となり強くなったのは嬉しかったが、贅沢ながら面白みはやや薄れたと思う。92年に東京に出て、ヤクルト・スワローズの試合を観られるようになったのはよかったのだが、球場で観る試合は、投手交代の間が長くて眠ってしまうことが多く、またチケットもそう安くないこともあって、足が遠のいてしまった。終りの時間が決まっていないスポーツは観に行きにくいのも確かである。
 ここのところ交流試合が行われている。昨年まで、今時分に交流試合が行われることはおとぎ話だった。ヤクルト・スワローズが90年代を代表する強豪チームになることも、松薗オーナーの時代には夢のまた夢であった。感慨を込めて記す。
 

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2005年5月14日 (土)

子宝

 昨日で二児の父となった。世の中は少子化が問題視されているが、子育ての苦労を考えるといたしかたがないことかと思う。すでにいる子どもをとりあげられたらどの親も半狂乱になるだろうが、一人暮らしの気ままさも捨てがたいものがあることはよくわかる。結婚した当初に減った自分の時間は、最初の子どもが生まれてからほとんどなくなった。次の子どもが生まれては全くなくなるのではないだろうか。
 とはいえ、子どもがいることを子宝に恵まれると呼ぶことは非常に得心がいくようになった。自分の子どもが可愛いのはもちろんのこと、人の子どもも可愛くなった。子どもを五六人も持てた昔の母親達はある意味とても幸せだったと思う。二人の子どもを得た喜びに匹敵する仕事の喜びをまだ私は得ていない。
 谷沢永一が明治大正期の英語研究・教育の巨人である斉藤秀三郎(齋藤だったか)をとりあげて、七人の子どもがいたが育児は全く行わず仕事に専念し、結婚式に出てくれることを知った娘が感涙したというエピソードを紹介していたと思う(何に紹介していたか徹底的に本棚を探せばわかるはずだが、ぱっとみたところ該当する本が見当たらない。高島俊男も斉藤秀三郎について同様の話題をとりあげていた気がするが思い出せない、機を見て精査する予定)。谷沢永一は斉藤秀三郎が猛烈な仕事の鬼であったと、そのエピソードを伝えるのだが、私が読んだときには、斉藤秀三郎は激務の日常の中でいったいいつ子作りをしていたのか、また面倒を見ない子どもを七人も作っては不都合とは考えなかったかと疑念がわいた。谷沢永一は、私のごとき下世話な疑問を全く抱いていないようだが、これは結婚した以上子どもがいるのはあたりまえという世代のためだろうか。私にとっては、かなりつっこみたいところなのだが。

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2005年5月13日 (金)

将棋の思い出

 小学四年生だったか五年生だったか、新聞社主催の将棋大会に出たことがある。私の小学校の将棋部の主将が毎年優勝しており、私の腕前はその人たちと比べて遜色なかったので、よくはわからないが優勝できるものと考えていた。
 準々決勝を相手の見落としで勝ったぐらいで、私の実力はかなり危ないことを思い知らされていたのだが、準決勝の対戦相手が決まる将棋を見たところ、勝者はとても強くて、私は相手になりそうもない。準決勝の対戦相手であるA君は、佐世保から来た、奨励会を目指している実力者だった。私がとても勝てそうにないよと本人に告げたところ、どう聞き間違えたのか決して負けないと理解したらしく、なにっと目を剥いた。初めから、弱音を吐くような相手など想定外だったのだろう。実際の勝負だが、序盤はなぜか私が優位に指すことが出来た。ところが、そうまぐれが続くはずもなく、中盤が終る頃には逆転されてしまって、あとは手もなくやられてしまった。その後、A君は決勝も鮮やかに勝って優勝を決めた。
 A君はライバルと思ってくれたのか来年も絶対来いよと私に言ってくれたが、私はその後将棋にほとんど身が入らなくなってしまった。その後、二十五六七の頃に将棋に再び凝っていたのだが、もはや将棋の学習能力などなかったのか、棋力は全くといって良い程伸びず、某所にあった将棋道場では四級から二級になった程度だった(そこの三級が新宿の初段ぐらいか)。
 あるとき将棋道場に置いてある将棋新聞を見たところ、A君が福岡のアマチュアの大会に出ていることを知った。プロの夢は叶わなかったのだろう。その後、ちょっとネットで検索してみたところ、A君の兄弟子が同じく佐世保出身の深浦康一八段ということがわかった。深浦八段は、昨期は4勝5敗の成績ながらA級から降級となってしまった。深浦八段もA君も私は蔭ながら応援している。
 本日、名人戦第三局二日目なので記す。
 

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2005年5月12日 (木)

研究の意義

 「いったい何のための研究なのか。何の役に立つのか。どんな意義があるのか。そういったことが最近よく問われている」と、国語学のT先生が飲み会の席で私に言った。私は、そういうことを考えなければ駄目だとよく言われますという受け答えをした。私の反応を見たT先生は、話はそこで別の話題に変えてしまったようだが、私がかしこぶった受け答えをせず、T先生にそのまましゃべらせておけば面白い返事がもらえたのではないかと残念である。
 大に失礼なことを書く。T先生は、古訓点の研究をなさっているのだが、古訓点の研究など何の役に立つのか、どんな意義があるのか、私にとってよくわからないのだ。これはもちろん私に知識と見識がないためだが、一般大多数の人にとって、T先生の研究はそういった類のものであろう。もちろん、私の研究も他から見れば、T先生と五十歩百歩に違いない。
 些末主義に陥らないために、好事家の道楽とは一線を画するために、何かの意義を求めて研究するのは当然のことだというのは優等生の答えである。やりたいからやっていますというのは、バカの答えとみなされている。だが、最近、研究の意義が問われすぎていて窮屈に感じるときがある。何の役にも立たなくてよい、好きだから研究する、知りたいから研究するという心情こそ研究の原動力であろうし、研究の意義がそれに先立つ人は実のところ少ないのではないか。偉い人はとかく模範的な話をしがちだが、T先生が研究の意義以前にある、研究の意欲の重要性を語ってくれたとしたなら、ここのところ殺伐とした私の気持ちはかなり楽になったであろう。私のさかしらでそれを聞き逃したようで、かえすがえすも残念である。

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2005年5月11日 (水)

日本式のクレーム処理

 川田茂雄の『社長をだせ!―実録クレームとの死闘』のようなクレーム対応の本がよく売れているらしい。どの商売にもクレームや苦情がゼロというわけにはいかず、みな苦労しているのだろう。塾講師を務めていたとき、ねじ込んできた生徒の両親から社長が詫び状を書かされているのを見たことがある。ここでは詳しい事情は書かないが、聞えてくる範囲では生徒の方が悪いのに、頭を下げさせられて、経営者とは決して楽ではないと思ったものである。
 私も苦情対応の本はいくつか読んだことがあるが、基本はとりあえず謝って相手の気持ちをなだめ、そこから相手の苦情の解消をするやり方のようだ。苦情の原因が実のところお客にあって、それを冷静に指摘したとしても、苦情の解消にはならず、とりあえず文句を言いたい気持ちをなだめる方が得策なのである。
 日本の外交手法に、いわゆる土下座外交・謝罪外交というものがあって、何か諸外国に文句を言われたらとりあえず謝るのが定番であったが、これも商売と同じで、日本式のクレーム処理法と言えよう。
 ところが、これでうまくいかないことがわかってきた。日本としては、謝っているのだからこれで許してもらえるだろうと思うのだが、曾野綾子が「確かに我々の中には、『ごめんなさい』と頭を下げれば、それで総てを帳消しにしてくれるのが当然だと思う伝統があったように思うのだが、これは世界では通用しないのだということを、私も後で学んだのである。」(「代理謝罪」、『Voice』、平成4)と述べているように、そう簡単に許してもらえはしなかったのである。
 中国の反日運動は、中国当局の取り締まり強化と小泉首相の陳謝で下火になったので、とりあえず謝っておくのは大事だろうが、そのあとの対応がうまくなければまた反日運動は起こるだろう。
 それとも、曾野綾子が言う通り「心から自分の罪だ、と思っていない人が謝るとしたら、それはそれだけで侮辱的な不誠実な行為であり、そんなものは決して謝ったとみなされないどころか、むしろ口先だけ簡単に謝ってみせる誠意のない人間の証拠として、国際社会から改めて嫌悪されるだろう」(前同)であるとするなら、最初から謝らないでおくか、である。最近の世論は後者にかたむきつつあるようで、外交手法も以前とは変わっていくように感じる。

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2005年5月10日 (火)

クレーマー

 おととい「ジュンク堂書店の弱点」を書いて、その文章の引用をジュンク堂書店の要望窓口にメールしておいた。すると、『劇場としての書店』の著者でもある福嶋聡氏から非常に丁寧なメールをいただいた。
 私はクレームのメールや手紙は少ししか書かないのだが、一般的にちゃんとした企業ほどしっかりした対応をする。クレーマーというのも、そういった一流企業ほどちゃんとした対応をしてくれるところから、喜びすぎてしまっているところもあるのだろう。私もクレーマーにならないように注意したい。

 前々日のブログ記事だが、店員の対応などは主観的な評価なので、少しきついことを書きすぎたかとは思う。ネット検索では、他の書店よりジュンク堂の店員はよいという書き込みが多かったので、私の感覚がおかしいのかもしれない。検証のためには利用あるのみである。

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2005年5月 9日 (月)

間違いを訂正するか

 教師も人間であるから、時には間違ったことを教える。あとになって、それに気づくが、さてそれを生徒に教えた方がよいものか。生徒は教わった時点で気づかないだけではなく、教わったことすら忘れていることも多々あるので、特に訂正をしなくても問題がない場合が多い。むしろ訂正をされても、何を訂正されたのかすら理解できず、間違いを教えるような拙い教員に自分が教わっているのだということだけ把握する。間違ったことを教えた時間は無駄であり、その訂正にかかる時間は、正しいことをそのまま教えるのよりもかかっている。損得から言えば、教室で誤ったことを教えても訂正はしないほうがよい。
 こういったことは頭では理解しているものの、私は間違いを教えたら訂正しなければ気が済まない。私が尊敬している先生方も、間違いを言った場合はきちんと後日訂正しているからというのもあるし、なにより学者としての良心にもとると思う。間違いを訂正しないのであれば、もはや学者ではあるまい。自己の非を認めるのはつらいことだが、やらねばならないのである。

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2005年5月 8日 (日)

ジュンク堂の弱点

 私は埼玉のS市に住んでいて、東上線を利用しているので、一番使う大型書店は東武デパートにある旭屋書店である。都内に出る機会があまりない場合は、アマゾンを使う。ジュンク堂は三番手というところだが、非常に重宝している。専門書の在庫では抜きんでており、在庫数がネットで確認できるのも便利である。アマゾンとジュンク堂の両方を比べて、ジュンク堂に在庫がありなおかつ池袋に両日中にでる機会がある場合は、ほとんどジュンク堂を使う。旭屋はネットで店舗の在庫までわからないので不自由である。
 昨日、欲しい本があってジュンク堂に出かけた。ジュンク堂は、本がぎっしりとつめこまれているので、本棚を見てからあれこれ選ぶには不向きである。目的が決まっていて欲しい本を探しに行く本屋である。たいていの場合、日本文学・日本史・伝統芸能に関する棚を見るので探しやすいのであるが、今回は少し違って、社会学のカルチュラルスタディーズや記号論に分類される棚から目的の本を探さなくてはならなかった。
 以下、ジュンク堂の弱点を列挙する。
 検索で調べられるのは棚単位であるが、棚一つが大きいので、ひと棚探すのもかなり手間がかかる。その上、カルチュラルスタディーズのようにメディア・ポストコロニウム・フェミニズムといった下位分類がさらに設けられ、全部で六棚になっている場合など、検索でカルスタと出てきても、該書を実際に探すのはかなり困難である。理想としては、何番目の棚の何段目にあるかまでわかるとよいのだが、すくなくともある棚の上半分、下半分のどちらにあるかまでわかるようにならないだろうか。
 また、各階のエレベーター付近にある各階の見取り図は大まかな分類(社会学など)しか書いていない。各棚の一番上に貼ってある細かい分類(社会学一般、日本社会学など)まで書いていてくれるとありがたい。棚の配置をどんどん換えるので、そこまで記してしまうと、融通が利かないこともあるのだろうが、どの棚がどこにあるのか実際に探し回らないと見つからないのは大変である。せめて、各通路の入り口に表示してくれないか。
 また、一階に二台、各階に一台ずつ検索機があるが、この数は少なすぎる。タッチパネル式の検索機は入力に時間がかかる。並ぶのも嫌だし、人を待たすのも嫌だ。各階に三台ぐらい配置できないのか。
 困ったときは店員に聞くのが一番なのだろうが、ジュンク堂の店員は恐ろしく無愛想という印象がある。古本屋が愛想が悪いのとは違う。古本屋は客への愛想は悪くても、売りものの本は自分のものという、本への愛着があることは伝わる。ジュンク堂の店員の場合、そもそも公共機関並の愛想しかなく、客に関心がないのはもとより、商品知識からして本への愛着もなさそうである。各階にレジがあった頃はもう少し親切だった気がする。あまりに嫌そうに探されると、ちょっとお尋ねいたしますがというわけにはいかなくなる。また、実際に棚にあるのにそれを自分が探しきれないというのは悔しいということもあって、二の足を踏みがちなのである。
 確かに、本の数が膨大であるだけでなく、図書館と違って入れ替わりが激しい。その商品知識に難が出るのも仕方がないと思う。愛想が悪いというのは、あくまで印象であって、被害妄想的に解釈しすぎなのかもしれない。ジュンク堂の池袋副店長である福嶋聡という人が書いた『劇場としての書店』をかつて読んでいるので、期待しすぎているのかもしれない。
 「買える図書館」がキャッチフレーズのようだが、本を探すことに関しては店の機能があまりにも脆弱すぎる。図書館の本は、すべて分類と番号があるのに対して、本屋の本は棚のどこの並んでいるのかまではわからない。図書館規模で本があっても、探し出すまでに非常に時間がかかる、あるいは探し出せない。これではアマゾンで頼んだ方がましである。ネットで検索した本をとりあえず取り置きしてもらって、引き取りの際に実物の内容を見て、つまらなかったものはやっぱりいらないとそこで断ればよいのだが、私にはそういった度胸はない。
 あとは細かいことをいくつか。一万円以上の買い上げでもらえる喫茶店のチケットに期限がついたのは残念(そういや昨日はもらっていなかったが、そのサービスはなくなったのかな。研修生だったので忘れたのか)。また、一万円少し手前の合計金額になってしまうこともあるが、その時別の本を買い足したい衝動に駆られる。他の業種、たとえば服飾業なら、あと○○円でチケットサービスですが、あと一着いかかですかと言いそうなものである。カウンター前にもう少し魅力的な本が置いてあれば買ってしまうかもしれない。
 よい話を一つしかできないのは残念だが、紙袋から布の袋に買い物袋が替ったのはとてもよい。

追記1 五月十日の記事「クレーマー」に本記事と関係することを書きました。

追記2 平成十七年八月二十三日
トラックバックがつくのはありがたいことですが、トラックバックをつけてくださったボビー様の記事にちょっとだけ言いたいことを書いておきます。

(ボビー)
ジュンク堂とは私が知る限りでは世界最大の書店です。
ここでいう世界最大(※注)の書店とはジュンク書店池袋本店を指します。他の店舗のジュンク堂には行ったことがありません。また、世界最大の書店というのはボビー調査によるもので、ギネス記録とは一切関係ありません。
※注
少なくともジュンク堂池袋本店は床面積2000坪で国内最大です。私は海外に行ったことがないので、これ以上巨大な書店に足を踏み入れたことはありません。

これは、
「床面積2000坪を誇るジュンク堂池袋店は私の知る限り日本最大の書店です。おそらく、世界最大の書店なのではないでしょうか。」
と書けば済むことです。

いろいろとご論考なさっていますが、

(ボビー)
そもそも国会図書館は書店ではありません。書店としては文句なしでジュンク堂池袋本店が世界最大ではないでしょうか?

とご本人もお書きになったように、国会図書館とジュンク堂書店を比べようというのがどだい無理なのです。
絶版となった本。また、明治や江戸時代以前の本はジュンク堂では見られません。
鶯亭金升『狂句の栞』(明治35)や芝全交『時花兮鶸茶曾我』(安永9)がジュンク堂書店にありますか。
現在ある版元が売る本を扱う新刊書店と、保存を目的とした国会図書館は性質が違います。ジュンク堂書店で欲しい本が全て揃うなら、幸いです。

馬琴風に感想を述べるならば、この人の書くもの、他は推して知るべし。 

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2005年5月 7日 (土)

郵便局の番号札

 都内では当たり前だったことだが、ここ一二年ほどで埼玉の小都市にも郵便局に番号札が導入されるようになった。導入されるようになってみると、今まで番号札なしでやっていたのが不思議な程である。番号札なしの場合は、それなりにやりくりしていて、場合によっては、番号札ありの場合よりも融通を利かせて早く全体を処理できたのかもしれないが、自分の順番が抜かされないように気にしながら待っている身になると、やはり番号札があったほうがありがたい。
 振り込みが自動預け払い機でできるようになったのもありがたい。混んでいる場合はそちらをつかえばよいし、理屈はよくわからないが、機械で払った方が安い場合もあるようだ。
 往復葉書に関する謎をいくつか。往復葉書を人に頼んで買ってきてもらったところ、既に折ってあるものだったので、後日折ってないものと取り替えてもらおうと、窓口に持っていったのだが、会計をしめてしまうので当日でなければ交換できないという。
 仕方がなく、手数料を払って交換したのだが、往復葉書の交換手数料は十円である。官製葉書二枚ということなのだろうが、一枚であることは確かなのだから、普通の葉書と手数料が同じでもいいのではないか。書き損じを交換してくれるのは、郵便局の善意に近い制度なので、つべこべいうのも気が引けるが、どうにかならないかと思う。
 交換では、まっさらな往復葉書を渡したのだが、これは廃棄するそうな。こっそり再度売りに出さないとも限らないので、全部にボールペンで線を引いてから渡そうかと思ったものの、あまりにも浅ましいのでやめた。
 往復葉書の手数料について、郵政公社のメールアドレスに問い合わせたことがあるのだが、返事すらなかった。
 かつて、購入した官製葉書が既に汚れていたので交換にきたおばさんと若い兄ちゃんの局員が、手数料がいるかいらないかで押し問答をしていた。結局、奥から中年女性の局員が出てきてあっさり交換して済ませた。理屈としては、購入した際にすぐに点検しなかったおばさんが悪いのだろうし、汚れてしまった葉書を元から汚れていたと嘘をついて持ってきた可能性もある。ここで融通が利くか利かないかが商売の差なのだろう。
 郵政公社になって、あきらかにサービスがよくなった。民営化しなくてもこれだけやれますと頑張っているのかもしれないが、公社になるだけでこれだけよくなるのなら、民営化すればもっとよくなるだろうと思ってしまう。
 

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2005年5月 6日 (金)

古本屋さんのメール

 もと古本屋店主だった出久根達郎氏の随筆には、お客とのさまざまなやりとりが描かれている。私にとって古本屋とはもっとも話しかけにくい職業である。気むずかしそうな店主に気軽に声を掛けられる人というのは、かなり肝が太いのではないだろうか。そういうわけで、古本屋巡りは趣味の一つでありながら、必要もなく店主に話しかけた例は皆無に等しい。
 最近は、郊外に住んでいることもあり、なかなか古本屋巡りに時間を割くことが出来ず、「日本の古本屋さん」などネット検索をつかって本を購入する場合が増えてきた。「日本の古本屋さん」で注文すると、メールでのやりとりになるのだが、注文確認のメールをもらい、それに返事を出し、発送のお知らせをもらい、到着の返事を出し、入金のメールを出し、入金確認のメールをもらう、と結構な数のメールをやりとりすることになる。当初は、事務的に用件のみ書いていたのだが、探書が見つかったことの喜びや古書店のある場所に関する話題、あるいは地震などの災害に関する話題など、少しずつとりまぜて書くと、打てば響くように返事がくるのである。商売であることや時間にやや余裕があることもさりながら、古本屋とは何か言いたい、あるいは何か言える職業なのだと思う。メールのやりとりだけなら、私も古本屋さんのエッセイに登場する客らしくなってきた気がする。

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2005年5月 5日 (木)

私有地への違法駐車

 規則というものは、ふつう人間がある程度常識的に振る舞うことを想定して作られているので、極端に法を破るものがいた場合に対応できない場合がある。といったことが、町田康の小説に書いてあった気がする。
 駐車違反にまつわる話をここでしておく。公道での路上駐車は違法であるから、警察を呼び、チェックをしてもらって、場合によってはレッカー車によって移動させることが可能である。
 ところが、私道や私有地への違法駐車は簡単には罰せられないのである。マンションの敷地内に違法駐車があったとしても、そこは公道ではないので、公道での法律は適応されず、なおかつ私有地への違法駐車を簡単に排除する法律はないのである。私有地なので、警察が関与することはできず、勝手にレッカー移動すると今度は移動させた側が犯罪者になってしまうのである。業務妨害罪や建造物侵入罪があてはまらなくもないようだが、それで排除できた例はあるのかないのかわからない程度のようだ。そういえば、十五年程前京都大学に行ったとき、違法駐車だらけだったのを思いだす。
 私の借りている駐車場の近くにラーメン屋があって、ラーメン屋に駐車場がないこともないのだが、少ないために、私のスペースに勝手に止めている車があった。その車の前に止めておいて出られなくしたうえで、ラーメン屋に該当する車の持ち主を探しに行ったのだが、車を出す前はぺこぺこしているくせに、車を出してからはもう一言も謝りもしなかった。殺意を抱く瞬間とはそういう時である。

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2005年5月 4日 (水)

坂東もんは気が荒いなぁ

 フランス人さえいなければパリはこの上なくよいところであるという皮肉を聞いたことがある。これは埼玉にもすっかりあてはまる。人が住んでいなければ、埼玉はとてもよいところである。自然が多くて、出かける場所には事欠かない。
 だが、埼玉人の、いわゆる民度については疑問視せざるを得ない。端的にいえば、人間がなっていないのである。親切にしてもらっても礼をいうこともなく、迷惑をかけても平然としており、礼節に乏しい。坂東もんは気が荒いなぁと思うことしばしばである。これは、埼玉人の言葉遣いが、私にとって荒っぽく感じられるせいだけではないと思う。
 私は長崎の出身だが、新聞の勧誘を断れない県民性といわれる長崎人と、埼玉県民との違いというものを歴然と感じるのである。たまに長崎に帰るとなんと長崎の人たちは人がいいのだろうと思う。これは、観光を主産業にしている長崎と、農業を主産業にするか東京のベッドタウンとなっている埼玉との違いでもあろう。
 とはいえ、長崎の人間がすべて善人で、埼玉の人間がみんななっていないとは思っていない。埼玉でもよい人たちはいっぱいいるが、それ以上に人を不愉快にさせる手合いが多いので、好印象が消されてしまうのである。長崎と埼玉との、十人当たりに含まれる善人と悪人の数はあまり差がないのではないかと思う。どんな社会の団体(会社・学校など)にも三割ぐらいはよい人で、三割ぐらいがわるい人で、残りがよくもわるくもない人だという理論をたまに聞く。根拠はないが、埼玉の場合、わるい人の割合が四割ぐらいになっているのではないか。一割程度の差で印象ががらりと変わっているのではないかと考えている。

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2005年5月 3日 (火)

小デブ嫌い

  小デブの男性が嫌いである。松村邦洋やホンジャマカの石塚英彦ぐらい太っている人はよい。体脂肪計で30%ぐらいの人がいやなのである。こういった小デブの中年男性は、節制が不足しており、だらしがなく、怒りっぽく、ケチで、寛容に乏しい。とにかく、ろくなことがないのである。私は小デブの男性を無条件に憎んでいる。
 とはいうものの、実をいうと私は小デブの男性にあてはまる。十年前はそうではなかった。この十年で体重が十三キロほど増えており、今ではまちがいなく肥満の部類に入る。小デブになってからと、キレやすくいつもいらいらしている気がする。
 小デブになって驚いたことが一つある。デブは脂肪分がたくさんあるので飢えに強いかと思いきや、痩せていた頃よりもはるかに腹が空くのである。デブを維持するために、痩せていた頃よりもたくさんのカロリーを、体が必要としているのである。なんたる不効率であろうか。いらいら、いらいら。

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2005年5月 2日 (月)

こまつ座のアルバイト

 こまつ座という劇団があるが、この劇団は劇団としては珍しく、事務にせよ荷物運びにせよ、アルバイトの金額が非常によかった。主宰者の井上ひさし御大が若い頃に芝居のアルバイトが安いため苦労したので、せめて自分の劇団では十分なアルバイト代を出してやろうという意気な計らいだと聞いた。とはいえ、ダイレクトメール封入のバイトの後に、しばしば公演延期のダイレクトメールへの切手貼りがあったのは、ありがたいとも思いつつ、多少は悪い気になったものだ。こまつ座の芝居は面白く、どの公演もお客さんが一杯入っていた。まだ、観たことがない人にもお勧めしておく。よいことは声を大にして言いたい。

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2005年5月 1日 (日)

M店の冬の冷房

 十年ほど前のこと、宅急便のアルバイトを夜通ししていた頃、あるとき、昼にも簡単な事務作業のアルバイトを引き受けたことがある。品川でアルバイトが午前六時頃に終って、浅草橋で次のバイトの始まりが午前九時ごろだったと思う。いったんうちに帰ると間に合わないので、そのまま浅草橋へ出かけて、時間をつぶすことにした。朝飯がてらに、ハンバーガーのチェーン店に入って、朝食のセットをとった。ちょうど、十二月で朝のその時刻はかなり寒かったので、小一時間ほど、そのまま仮眠させてもらおうと思っていた。が、私がまどろむより先に、あろうことにか、店のエアコンより冷風が吹き出したのである。私が座っていたところは、冷風がよくあたるところで、とてもではないが耐えきれず、とっととその店は退散した。次のバイトがはじまるまでどうすごしたのかよく覚えていないがコンビニなどで立ち読みをしていたのではないだろうか。
 その当時私がしていた恰好はとてもむさくるしいものだったので、ホームレス同様の対応をされたとしてもいたしかたないと思う。恨み骨髄に徹して、二度とその店には行かない!となりそうなものだが、その後ハンバーガー店が100円バーガーを始めた頃にはよくでかけて三食それを食べていた。
 しかし、現在そのハンバーガー店に自分の意志で行くことは決してない。人に誘われたりしたときなどは、しょうがなく入る。ひとつには、100円バーガーの頃にかなり食べてもう食べ飽きてしまったことがある。芋や豆が食べられない、もう戦時中に一生分食べましたという年配の方は少なくないと思うが、私も一生分のその店のハンバーガーをある時期に食べてしまったのである。
 ふたつには、真冬に冷房をきかせた仕打ちを忘れていないことがある。最近、高校一年生に、多木浩二の「世界中がハンバーガー」を教えることがあったのだが、参考のために行こうかとも思ったが、ついに足を向けないまま教材を終らせてしまった。今後、貧乏になって、またその店に行く必要が生じるかもしれないが、その際に意地を通すのか、あっさりこだわりを捨てきれるのか、今のところよくわからない。

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