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2005年4月30日 (土)

宅配便誤配率

 宅急便のアルバイトだが、前日の総荷物量と誤配量の数が壁に貼ってあった。だいたいのところ、1000分の1の確率で誤配が起こるようだ。私も、自分のところに、全く違う県の荷物が流れてきたのを拾ったことが何度かある。もっとも、これは中元・歳暮のころのことであって、もっと荷物が少ない時期は誤配率も低いのかもしれない。また、当時に比べてよりよい仕分けの方法が出来てそういった混乱は少なくなったのかもしれないことは付け加えておく。

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古い町名の保存

 市町村合併で地名も大きく変わった所があるようだ。どういう兼ね合いで決まるのかよくわからないが、あまり変な名前にするのは困ったものだ。古い町名への愛着というものもよく聞く。東京であれば、神田には神田北乗物町、神田紺屋町など神田なになに町という地名が残っており、新宿区の東側は二十騎町、市ヶ谷鷹匠町など非常に細かく昔の町名が残っている。それでも、江戸時代に比べればだいぶん統合されてはいるのだろう。こういった町名をできるだけ、保存して欲しいという意見には賛成である。ただ、自分の経験から、ほんの少しだけためらうところがある。
 私は大学生の頃に、宅急便のアルバイトをしていたことがある。品川にある集積所に行って、地方から来た荷物を区ごとでひきうけ、さらに細かい町名のかごに仕分ける仕事だった。最初は杉並や足立のような、町の名前が少ない区を担当するのだが、慣れてくると新宿や千代田のように細かいのあるところに移される。大きな町名があって、その下に番地がくる場合と、いきなり町名になっている場合の差だが、パソコンのディレクトリのようなものが前者にはあり、後者にはないと考えてもらえばよい。実際のところ、仕分けでは、細かい町名のある区の方が、気をつかわなければならず大変だった。効率の面では、小さな町名は残らないのが当たり前なのである。
 古い町名を残してくれという人たちは、ノスタルヂアを強調するだけではなく、古い町名を残したまま、宅配の効率化を図る方法を考え出していかなければならないと思う。それでなくとも、不便不利を甘受する姿勢や、宅配の人々に余計な労力をかけさせていることへ感謝する態度を見せてもいいのではないか。

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番地のない宛先

 京都大学の住所は「京都市左京区吉田本町」である。番地がないが、書き漏らしたのではない。番地はなくても手紙は届く。皇居ですら、「東京都千代田区千代田1-1」で番地はある。なぜ、番地がないのかは今のところ不明であるが、配達するにあたってなくても不便ではないことは容易に想像がつく。東京大学には「文京区本郷7-3-1」と番地があるが、配達の苦労はむしろ学内での宛先を見定めることだろう。

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2005年4月29日 (金)

坊ちゃんと山嵐

 漱石の『坊ちゃん』で、山嵐と坊ちゃんは、停車場別れたきりそれきりの関係となる。山嵐と坊ちゃんが揃っていれば、それから先にいろんな活劇が引き起こされただろうと、子どものころ、それが非常に惜しい気がした。しかし、今となってはそれがとても「現実らしい」と感じている。現時点の私にとって、今までの人生でじゃあで別れたきり、これから将来二度と会えない人の数の方が、また会う人の数よりも、多いはずである。井伏鱒二のいうとおり「サヨナラダケガ人生ダ」。

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食べ物屋で

 食べ物屋で知り合いにあっても、話しかけないのが江戸っ子であるとは、志ん生の『なめくじ艦隊』に書いてあったと思う。御徒町で商売を営んでいた江戸っ子のおじさんにうかがったところ、そうだと深くうなづいたが、おじさんは脳梗塞の療養中だったので理由までは尋ねられなかった。が、ある日それに気づく機会があった。神田のまつやでそばをたぐりに入ったところ、高校時代の同級生のN君がいた。もう五年ぶりだったので、軽く挨拶したあと、私はゴマだれそばを頼み、先にN君は勘定を済ませて店を出て行った。そばが三分の一程になり、そば湯のことに頭がまわり始めた頃、まつやの出口ががらっと開いて、近くに坐っていた私にむかって、N君が「おい、まだかい」と声をかけた。私はあわててそばを食べ終えて、N君の知っているベルギービールの店にむかった。N君は、浅草に住み、自転車で東京を散策していたので、私よりもずっと東京に詳しく、意気に暮らしていた。司法試験を受けていた彼が、その後どうなったか、私が高校時代の同級生達とは不義理をしていることもあってか、耳に入ってこない。それを考えると、あの晩N君と飲めたことはとても有意義であった。また、あの晩のおかげで、なぜ食べ物屋で知り合いにあっても、江戸っ子は話しかけないのか理解できたと思う。
 そういうわけで、食べ物屋で知り合いにあっても、私は決して挨拶しない。が、それが全ての人にとって共通の習慣であるか、また理解されるものであるかについて、私は小心ゆえ、やや不安に思ってはいる。

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Y博士の思い出

 吉原細見の研究で有名なY博士のお宅に、数日間うかがったことがある。出版社に雇われて、Y博士宅のコピー機を使って、ご蔵書のコピーをとるアルバイトしていたのだった。仕事の合間に、Y博士が顔を出して、珍しい本をいくつか見せてくださったが、その中に鶴岡蘆水の『隅田川両岸一覧』があった。コピー取りの作業に戻って、コピー機の上に和本を載せていると、Y博士がまた顔を出して、隅田川に桜が植えられたのはいつだったっけなと尋ねられた。知らない旨を正直に答えると、Y博士はたいして残念そうな顔もみせずにそうかとおっしゃった。当時、私は江戸文学の研究を始めて日が浅かったため知らなかったのであるが、隅田川に桜を植えられたのは吉宗の頃で、江戸文学を研究する者にとっては非常に基本的な知識だった。おそらくY博士は私の知識を試したのだろう。もうY博士が亡くなって数年経つが、毎年、春になって桜が咲くたびにそのことを思い出す。

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 昨日今日と夏日らしい。八重桜もようやく終りで桜の季節も終りである。正直に言うと、桜が嫌いである。毎年、この時期に鬱症が病気とは言わないまでも、身を覆ってくるためでもある。桜は押しつけがましい。ぱっと咲いてぱっと散るのはありがたいことで、あれが椿や山茶花のようにいつまでも咲いていては困る。桜の大木などをじっと眺めていると、ゴッホの絵を見ているような気分になる。

 萩原朔太郎に「桜」という詩がある。非常に共感するところがあるので、ここに引用する。
 

 桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
 なにをして遊ぶならむ。
 われも桜の木の下に立ちてみたれども
 わがこころつめたくして
 花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ
 いとほしや
 いま春の日のまひるどき
 あながちに悲しきものをみつめたる
 私にもあらねど。

 町田康のエッセイ集『耳そぎ饅頭』に「樹下に狂へ、俺のこころよ。」という花見についての文章がある。町田康は、文学に通暁しており、その小説も石川淳や太宰治など先行する作家の文章をうまく換骨奪胎している。
「樹下に狂へ、俺のこころよ。」の末尾は、

 わたしは桜の古木の下に立ち、自宅からぶら下げてきたきた二合瓶に直に口をつけて日本酒を喇叭飲みに飲み、さあ、狂え、俺のこころよ、狂え、と念じた。
 にもかかわらずわたしのこころはいっこうに狂わなかった。冷え冷えとして正気であった。
 ざあ、と音がしたかとおもうと突風。桜の花弁が舞い、わたしはもうひとくち酒を飲み、狂った人々でじぐざぐするみちをとぼとぼ帰ったのである。うくく。

となっている。萩原朔太郎を町田康が模倣したとは言い切れないし、そもそも知りようがない。ただ、どちらも私の心を打つのである。

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伊波伝毛乃記

 曲亭馬琴に『伊波伝毛乃記』という随筆がある。山東京伝の人柄や事績について述べたものだが、京伝の弟京山の随筆『蜘蛛の糸巻』などと齟齬するところも多く、かならずしも事実とはいえず、また馬琴の主観がつよく反映されている。これを読むと、馬琴がいかに嫌な人物であるかよくわかる。しかし、私は三十を越えて、馬琴がなぜ事実でない記録を残し、それに「伊波伝毛乃記」と名付けたのかがなんとなくわかってきた。馬琴は執着気質、粘着気質で気むずかしい人物というのが一般評である。だが、洒脱な京伝や、奇抜な逸話にこと欠かない十返舎一九に比べると、よほど現代人に近い性格の持ち主ではないだろうか。芥川龍之介が『戯作三昧』の主人公にしたのももっともである。本ブログは、名前を馬琴にあやかり「いわでもの記」と名付けることにしよう。もとより言わなくてもいいことであり、またお好きでない方は読まなくても損はしない内容である。

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